武術の古文書 Copyright (c) 2014 All rights reserved.


二代 中嶋重隆 1707−1786 宮津藩士 天神流劒術師範

本姓 菅原 通称 左内/治部右衛門 諱 重泰/重隆 旧名 伴忠左衛門
実父は永井飛騨守家来 伴権左衛門と云い江戸屋敷住、高百二十石の士、取次役を勤め者頭格。実母は南部大膳亮家来 高三百石の士の娘。
養父は本庄安藝守家来 中嶋七右衛門と云い二十人口御使番。妻は峯と云い同藩 河原猪右衛門政武の娘。

享保13年(1728)家督二十人扶持を下され大小姓に召し出され暫く同職を勤める。 享保14年(1730)御使給人を命じられたことにより以後の役務が決定的なものとなり、略年譜のごとく御使者向きの役務を専ら命じられ精勤した。 尤も寛保2年(1742)表御納戸御金方加役・表御納戸御金奉行本役と云う御使者とは違う役務に一時就けられたものゝ出世を経たのち、延享2年(1745)には御使者給人に再任された。 所謂 御使番という家格に至ったのは宝暦9年(1759)の事にて、大流諸士の最上位に昇進した。又、晩年は御役御免を願い出たところ、かえって御取次持席御廣間詰を命じられるという恩典を給わり余生を過した。(御取次持席というのは小流の下位にて、大流諸士の最上位を超えた身分に成ったことを示す)
天明6年(1786)歿、80歳。
浜松藩初代松平資訓公、宮津藩初代松平資昌公、二代松平資尹公、三代松平資承公に仕え、都合五十二年余の御奉公。但し隠居した年は詳らかならず。

中嶋重隆は松平家に於いて家伝の天神流劒術を密かに指南した。二通の起請文と藩の下問に答えた際の案文が現存する。

掲載史料及び参考資料

『丹後宮津藩中嶋家文書』私蔵文書

中嶋重隆年譜

寳永4(1707)高槻藩士伴権左衛門(高120石者頭格取次役、江戸屋敷住)の次男として生れる
享保10(1725).4.29遠州濱松へ江府より引っ越し候 19才
享保10.11.19初めて御目見仰せ付けられ候
享保13.4.15養父治部右衛門家督20人扶持下し置かれ、大小姓召し出され候 22才
享保13.4.28家督の御禮申し上げ候
享保13.4.29神文仰せ付けられ、支配頭久保田与左衛門殿同道にて罷り出で、則日より大小姓詰所へ罷り出で
享保13.5.4まで4時より8時まで見習いに相詰める
享保13.5.5より大小姓へ御番入り仰せ付けられ相勤め候
享保14.6吉田表へ御得替の節、濱松御引き渡しの御上使様御旅宿へ大小姓にて御給仕仰せ付けられ相詰め申し候 23才
享保14.閏9.2御番頭有本助左衛門殿・岡嶋舎人殿御奉札到来
享保14.閏9.34時登城、本間郡平と両人一所に御前へ罷り出で御使給人仰せ付けられ候
享保14.閏9.15御番替の御禮申し上げ候
享保15.1.9亡父名に相改め申したく願書差し出す 24才
享保15.1.15願いの通り名相改め申すべき旨、御用人生形覚兵衛殿仰せ付けられ候
享保15.8御参府御供仰せ付けられ道中御宿割役相勤め、翌年まで江府勤番仕り候
享保15江府に於いて内桜田御番所留番外固め相勤める
享保16.6御帰城の節、道中御使者御本陣詰め仰せ付けられ相勤め申し候 25才
元文2(1737).閏11.3三州瀧山御宮正遷宮の御固め遊ばされ候節、御供仰せ付けられ立ち固め相勤め、御帰りの節、御上使前田隠岐守様御宿駅御泊までの御使者仰せ付けられ相勤め申し候 31才
元文3.6御参府御供仰せ付けられ道中川割役相勤め、翌年まで江府勤番仕り候 32才
元文4.7御帰城の節御供仰せ付けられ道中川割役相勤め申し候 33才
寛保2(1742).7.20道奉行助役仰せ付けられ相勤め候、9.16まで相勤める 36才
寛保2.9.16表御納戸御金方加役仰せ付けられ、同役は武具方山下軍太夫両人にて御金奉行所勘定吟味、御金蔵金銀銭の正現物相改め請け取り表御納戸預かりの御道具改め請け取り相勤め候
寛保2.10.13表御納戸御金奉行本役仰せ付けられ、同役山下軍太夫(後左次右衛門)儀給人へ御番
寛保3.8.15御役儀の御禮申し上げ候 37才
延享1(1744).2.10より病引、御役相願い 38才
延享1.2.24願い奉り候通り御役御免遊ばされ准給人仰せ付けられ候
延享1.4.20願書差し出し、願いの通り御役御免遊ばされ准給人へ仰せ付けられ
延享1.5.11までに御金方引き渡し御勘定相違無く相済み候由、中嶋左右衛門より届けこれ有り
延享1.6.8までに表御納戸御道具改掛り御用人大原武兵衛殿立合いにて相違無く相渡し候旨、新役越賀左衛門より届けこれ有り候事
延享1.6.18病気快、出勤仕り御番入り致し、准給人相勤め申し候
延享1.6.19返り神文仰せ付けらる
延享2.11.15召され御前に於いて御使者給人仰せ付けられ、直に相勤め申し候 39才
延享2.12.1御番替えの御礼申し上げ候
寛延1(1748).4.22朝鮮人来朝に付き朝鮮人献上の御鷹止宿の節、八丁小路入口假番所詰め仰せ付けられ昼夜(終日夜中不寝共に)一人役仰せ付けられ、辰の刻より罷り出で 42才
寛延1.4.23辰の刻まで御鷹出立相済み申し候まで詰番相勤める
寛延1.5.3朝鮮人献上の御馬止宿に付き右同所へ辰の刻より相詰め
寛延1.5.4朝まで詰め切り不寝共に相勤める、右献馬足痛逗留に付き直に相詰め昼夜詰め切り不寝共に相勤め
寛延1.5.5辰の刻まで献馬出立まで相詰め候
寛延1.5.6朝鮮国王より献上物の荷物請取役仰せ付けられ荷物宿へ相詰め、献上荷物受け取り、夜中不寝番共に相勤め
寛延1.5.7朝、荷物出立の節相渡し申し候まで詰切りに相勤める
寛延1.5.9朝鮮人止宿に付き通詞の旅宿へ御馳走役に相詰め申し候處、右止宿相延べ申し候に付き引き取り
寛延1.5.10朝鮮人止宿に付き右通詞の旅宿へ御馳走役に相詰め、終日終夜相詰め
寛延1.5.11朝、朝鮮人通詞出立まで出役相勤め申し候
寛延3.3.18濱松御得替に付き、吉田表へ引き渡しの御上使徳永平兵衛様・諏訪左京様の吉田御旅宿への御使者仰せ付けられ相勤め申し候 44才
寛延3.3.19吉田御城御引渡しに付き外天王口御門渡し方仰せ付けられ相勤め申し候、伊豆守様御家来草野志右衛門へ相渡す
寛延3.3.23濱松御引渡しの御上使富永鞆負様・天野仙端様御帰發の節、天龍川端まで送り御使者仰せ付けられ相勤め申し候
寳暦2(1752).3.27より大隆院様御中陰中、濱松御城榎御門上番詰め仰せ付けられ昼夜の御番相勤め申し候 46才
寳暦8.12丹後の宮津へ御所替 52才
寳暦9.2.30(宮津へ御得替に付き)より道奉行助役仰せ付けられ相勤め候 53才
寳暦9.6.13濱松御引渡しの御上使様御着きの節、道奉行仮役にて東御領分境へ出役相勤め申し候
寳暦9.6.15宮津へ道中御行列御立の内、道奉行仮役にて相加わり出立、宮津着後、道奉行助役相勤め
寳暦9.閏7.7道奉行助役御免 但、6.15M松出立、6.26宮津へ着、6.27拝領屋敷柳畷中橋角へ引き移る
寳暦9.閏7.9御使者方へ番入り、尤も道奉行仮役御免に付き帰番
寳暦14.5.7藤之間御使番役仰せ付けられ候 御家老沼野外記 58才
寳暦14.5.8神文仰せ付けられ候
寳暦14.5.9御番入り
安永2(1773)御取次役仰せ付けられ候 66才
安永 11.28文蔵婚姻
安永 閏11.1文蔵初めて御目見仰せ付けられ候
安永4.4.15文蔵鼻紙代10俵下し置かれ大小姓次席御廣間勤番見習い仰せ付けられ候 68才
安永8.7.23御役御免の願い奉り候所 72才
安永8.9.17召され御取次持席御廣間詰仰せ付けられ候
天明6(1786).8.17歿 80才

中嶋重隆関係文書

松平豊後守資訓公知行宛行状

系図

明細書之覺


御使番役聞書


遠江國濱松城圖

初代重澄・二代重隆のころに作成されたと思しき地図。

遠江國圖

重泰繪本 花鳥



   
      

いわゆる粉本。裏には中嶋左内の署名がある。重泰は中嶋左内重隆の前名。

真如流書物添状

 


中嶋重長 1746−1773 宮津藩士

本姓 菅原 通称 條助 諱 重長
実父は中嶋治部右衛門重隆。母は峯と云い同藩 河原猪右衛門政武の娘。

宝暦8年(1758)3月1日13才のとき六人扶持を下され平番へ御番入り。真如流居合を村田重富に学び、重長15才のとき重富が重病に罹ると免許・奥儀の傳授を託された尾見正景より傳授を承ける。起請文の花押を返され、以後は流儀懇望の者たちに指南することが許された。
安永2年(1773)4月30日江戸詰のおり急病にて早逝、行年28才。

中嶋重長年譜

延享3年(1746)中嶋重隆の子として生れる
宝暦8年(1758)3月1日御宛行六人扶持下し置かれ、平番へ御番入仰せ付けられる 13歳
宝暦10年(1760)12月真如流居合免許相傳 15歳
金七両弐歩三人扶持に成し下さる
安永2年(1773)4月30日江府詰先にて病死 行年廿八歳 都合十六年の御奉公

中嶋重長関係文書

六人扶持 金七両弐歩三人扶持 御旅宿御給仕

  

真如流居合免許添状・御判形

 

當流多年厚實之御修行
就御熟得従先師四宮氏
忠次町田氏福重傳来之
真如流居合此度致免許
入門最初之御判形令返却候
流義懇望之輩於有之者
廣御指南可被任御心候付今
猶更御工夫専要候委曲
別帋一軸可相記候条不能
詳候仍添状如件

 寳暦十庚辰 尾見弥九郎
  十二月吉日 正影(印)(判)


  中嶋條助殿


中嶌氏者村田宇右衛門重富門人也
重富病難治歎没之日中嶋氏江
當流令免許之旨口授且奥秘
傳達之事付託予矣蓋予者
重富同学也仍令相傳尓
      尾見正影(印)

村田重富は宮津藩の剣術師範、新當流(三富流)・真如流(信抜流)居合を指南した。書中「四宮氏忠次」とは四宮門之助、「町田氏福重」とは町田小市左衛門、この跡を町田紀次が継ぎ村田重富に至る、真如流の歴代のこと。

TOP