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不易流炮術の門弟

門弟(一) 2017.3.13
・天明 ・起請文 ・五代目師役

門弟(二) 2017.3.18
・寛政 ・起請文 ・師役不在

門弟(三) 2017.3.19
・寛政,享和 ・起請文 ・六代目師役

門弟(四) 2017.3.29
・文政 ・起請文 ・七代目師役

門弟(五) 2017.3.31
・天保 ・起請文 ・九代目師役

門弟(六) 2017.4.3
・天保,嘉永 ・卯可起請文 ・十代目師役

門弟(七) 2017.4.5
・嘉永 ・起請文 ・十代目師役

門弟(八) 2017.4.7
・弘化 ・門弟取調書 ・十代目師役

門弟(九) 2017.5.8
・嘉永,安政 ・起請文 ・十代目師役
掲載史料及び参考資料
『不易流起請文』個人蔵
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室 姫路市
『姫路藩家臣録』姫路市立城郭研究室所蔵
『姫路城史』橋本政次著 名著出版
『姫路市史』姫路市史編集委員会 姫路市
『兵庫県史』兵庫県史編集専門委員会 兵庫県
『前橋市史』前橋市史編纂委員会 前橋市

門弟(一)

前橋藩−姫路藩の酒井家に於いて御流儀に挙げられる不易流砲術(*1)。その五代目の師役にあたる者が前田十左衛門です。不易流鉄炮指南を命ぜられたのが安永9年8月2日(1780)のことでした。勿論、これ以前より十左衛門は同流の高弟であり、前師役下田五郎太夫が病気となってからは代理を勤めるなどしていました。当時の禄高は百七十石、御物頭、江戸詰ではなく姫路に住する家で、藩内では上士と云うべき身分でありました。
さて、師役を命ぜられた翌年の天明元年5月11日,15日(1781)のこと、弟子の五名が起請文を差し出します。

この起請文というのは入門したときや傳授の段階に応じて差し出すなどするものですが、こゝに掲げたものは弟子の中でもいわゆる高弟たちが名を列ね、師役の代替りに際して差し出したものであります。 下田與曽五郎次禮、神戸四方之助盛昌、本多悦蔵為政、森五百八政焉、林源蔵知郷。この五名の中、神戸四方之助のみは調べが行き届かず履歴が分りませんでした。それ以外の四名については『家臣録』に拠り安永元年より文政初年迄の履歴が分っています。 これによって、不易流砲術を学んだ武士たちの一端が明らかになるのではないかと思い、こゝに記すことにしました。

一人目は下田與曽五郎。同流の四代目の師役を勤めた下田五郎太夫の養子です。父五郎太夫は師役在任中の安永3年以降に[御代官][御勘定奉行]を勤め、安永7年6月9日(1778)に病死します。與曽五郎が太田家より養子入りしたのが同年5月14日のことですから、これは一種の末期養子にあたる措置かもしれません。與曽五郎は跡式十石を減らされ百四十石を相続します。はじめ御焼火へ御番入り。林田領の百姓が騒動を起こした天明7年8月6日には加勢として出張。のち[鉄炮方][御使番][御舩奉行仮役][石州御銀舩御用][町奉行仮役]を経て[御中小姓組格御舩奉行]となります。以降は[石州御銀御用]に関わることが多く大坂・室津へ出張するなどしました。(記録はこゝまで)

二人目は神戸四方之助

三人目は本多悦蔵。父宇八の病死によって安永6年9月26日(1777)跡式二人扶持を減らされ五両三人扶持を相続する。翌年前髪執、御主殿へ御番入り。御在城中の栄八様御附を勤めるも、天明6年12月2日(1786)若くして病死します。そのため本多悦蔵がどのような武士であったのか分りませんが、家督を継いだ弟宇八の経歴を見ると、度々稲毛見分を勤め、その後は[舩場御蔵方][御用米御蔵方]を勤めました。

四人目は森五百八。後に伊野右衛門と改名する此の人は、不易流の九代目師役です。しかし、起請文を提出した当時は家督を相続する一年前にあたり、殿様の御在城中御次詰を勤めていました。父伊野右衛門は[奏者番]、天明2年7月16日(1782)に隠居します。このとき森五百八は、家督二十石を減らされ八十石を下され御主殿へ御番入りします。以後、大まかに挙げると[飾万津御蔵方][高砂北御蔵方][鉄炮方][吟味役][御勘定奉行][御勝手御用出府][御中小姓組頭][御勝手御用出坂][宗門奉行年番][堰方年番]と勤め、文政3年に至ります。この間二十石を加増され家禄は百石に戻りました。

五人目は林源蔵。父郷太夫は鉄炮方、起請文を提出した翌日の天明元年5月12日(1781)願いによって鉄炮方を辞任し、その翌年4月12日に隠居します。この日に源蔵は家督を相続します、二十石減らされ百石を下され、御主殿へ御番入りしました。以降、およその職務は[室津御番所御目付][高砂御番方][家嶋御番方][飾万津御蔵方][御用米御蔵方][舩場御蔵方][高砂南御蔵方]を勤め、享和2年7月8日(1802)病死します。はじめの方の[室津御番所御目付]は祖父の生前最後の職と同じです。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役
 下田與曽五郎 百四十石 四代目師役の養子
 神戸四方之助 
 本多悦蔵   五両三人扶持 急死
 森五百八   八十石−百石 後の九代目師役
 林源蔵    百石

以上、起請文に名を列ねた四名と、師役前田十左衛門の大まかな履歴をこゝに掲げました。見たところ、共通するのは「舩」と「御蔵方」でしょうか。今後、姫路藩の職制などについて勉強し、彼らの藩内に於ける位置を明らかにしたいと思います。

*1 不易流砲術が酒井家に導入された経緯については、別項「流祖の足跡(二)」に述べた通りであります。


門弟(二)

     起請文前書

一 不易流六剋一如の放銃御傳授段々自今他見他言
  堅可相慎事銃は軍の魁備其剋の長たり因て其放銃を詳
  にして野相城攻篭城半途折合野戰舟軍の其六に剋すへき法也
  術也銃は近世の器にして大功を知事少し銃術の得者畢竟騰る
  處を以本意とす軍は術を以し術は軍を以す是体用一如にして
  即勝を握也猥此器を用る時は常は名聞術と成於戰場は
  却て敵の助力となる因一流の其意味深拾他交の事も堅
  可慎の一流の徒にも未學處可慎の旨奉得其意候

    右於令違乱者

  梵天帝釈四大天玉惣日本國中六十余刕大小の神祇
  別て八幡大菩薩春日大明神摩利支尊天御罰□奉蒙
  □所者也


                    森田勝平
   寛政六甲寅年應鐘上旬        a嗣(判)


          大橋八郎次殿
          柴田権五郎殿

前回は姫藩の不易流砲術五代目師役前田十左衛門へ差し出された起請文について述べました。今回はその前田十左衛門が隠居した後の、師役不在時期に差し出された起請文について述べます。大橋八郎次と柴田権五郎という者は、次期師役とその後任の師役です。この起請文のときは未だその任に就いておらず、世話役のような立場で流派を取り仕切っていたものと考えられます。(両者の経歴には世話役云々ということは書かれていません、流派内で重きをなしていたということでしょうか)

安永9年7月(1780)に師役を命じられた前田十左衛門は十四年の間同流を指南し、寛政6年5月12日(1794)75歳という高齢につき隠居しました(このとき谺と号します)。師役といえば、指南ばかりを専門にするかと思われがちですが、実際のところは藩士として何かしらの職に就くことが多いのではないでしょうか。前田十左衛門の場合は、『家臣録』によれば頻りと藩の御勝手御用を拝命し大坂・江府へと出府しており、最後にその命を受け出坂したのが72才ですから、その方面に才腕を発揮したことがうかゞえます。財政と炮術は一見無関係なようですが、何かと計算の必要がある炮術の影響はあったのかもしれません。

十左衛門は隠居前から不調であり、度々御役の辞退を願ってはいましたが、格別に引き留められ御書院御番、武頭役となり、宗門奉行年番を勤め、御小袖を拝領、最後には出坂の節勝手向の取り計らいについて御満足とのことにより御小姓頭に昇進しました。御小姓頭とは藩主を衛る小姓組の頭を指し、忠擧公のとき国元に設けられた格式です。御奏者番と同列にて従来は列座の扱いではなかったのですが、延宝7年から列座の扱いとなります。列座というのは藩の重職を指します。本起請文のころは番頭と同格と考えて良いようです。十左衛門の場合、年来の恩典によって一時的にこの格式を与えられたものでしょう。よく働いてきた高齢の藩士にこのような恩典がまゝ見受けられます。

さて、起請文の本文について。不易流の意義が書かれています。六剋一如の「六」とは「野相・城攻・篭城・半途折合・野戰・舟軍」と六つの戦いがあり、それに勝つには軍と術の運用が一つの如くあらねばならないと云う様なことが説かれています。六剋が一如なのではなく、軍術が一如という意味合いがあります。この理は、別の史料などで「不易流放銃軍術一如」などゝ表わされていることから明らかです。魁備というのは先備のこと。
元祖竹内十左衛門がこの軍術の効用を説くようになったのは、実は酒井家を去った後のことで、前橋藩時代に伝来の書物に斯ういった言葉は見受けられません。それより後の藤堂家・尾張家に伝承したのがこの軍術を附与した不易流ではないでしょうか。酒井家においては、先に述べた前田十左衛門が藤堂家へ留学したことによって、新たに導入されたものだと考えられます。流派の意義についてはまた別項にて。六剋の軍術については別項「不易流砲術史 流祖の足跡(三)」において紹介した竹内十左衛門書簡が詳しいです。

卯可免許 佐藤延秀は伊勢津藩の炮術師役

本起請文を提出した「森田勝平」は未だ調べられていません。但し四代目師役下田次清の門人録に「江戸御持筒組小頭 森田勝平」の名があります。同名ですから父か祖父と考えて良いでしょう。御持筒組というのは鉄炮隊の中でも藩主直属の鉄炮隊を指します。

起請文を受け取った「大橋八郎次」「柴田権五郎」二名の履歴は判明しています。

大橋八郎次 本起請文が提出された寛政6年10月(1794)。大橋八郎次の父は、先ほど述べた御小姓頭と同格の御奏者番という格にて、御舟奉行の職を勤めていました、禄高は百四十石。この後加増されて百七十石になりますが、八郎次が跡式を相続するとき三十石減らされて百四十石が下されます。当時はまだ父が健在でしたから、藩命によって鉄炮稽古に出精していました。特に世話役を命じられたという経歴は見当たりませんが、寛政5年4月2日(1793)には御舩御用によって大筒を据える家嶋・室津・飾間津の見分を命じられており、炮術に造詣が深かったと分ります。臺場の築造について、藩がこれほど早い段階から着手していたとは驚きです。ものゝ本によれば、「瀬戸内海沿岸諸藩の中において、姫路藩は、最も早く臺場の築造に着手したのである。即ち、嘉永3年2月、家老以下が家島・室津に赴き臺場位置を見分し、年内に築造を完了した。」と記されていますから、寛政5年の時点で既に海防を考えていた点、姫路藩は先見の明があるといえます。このような下準備があったから、後の臺場築造も早く運んだのかもしれません。大橋八郎次は以後、殿様が御在城中は御次詰を勤め、それ以外は道奉行と不易流師役(六代目師役)を兼務し、さらに鉄炮方を命じられます。

柴田権五郎 この人も大橋八郎次と同様、藩命によって鉄炮稽古を命じられ、御在城中は御次詰を勤めていました。稽古に出精したことから、二度の褒美を下された点も同じです。家督を相続したのは四年後のこと、十人扶持を下されます。以後、高砂御番、火之番を勤め、文化4年4月17日(1807)不易流の七代目師役となります。これは高橋八郎次が前年に急死した為です。以後は師役の任にありながら学問所肝煎、好古堂肝煎を度々命じられ褒美を下されます。

今回は肝心な起請文の提出者について分りませんでしたが、五代・六代・七代目の不易流師役について少し紹介することが出来ました。

 前田十左衛門 百七十石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七十石 六代目師役 道奉行
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 学問所・好古堂肝煎

本文にて述べた臺場のこと。酒井忠道公が藩主となって二年後の寛政5年正月、忠道公は異国船渡来の節の防禦策を講じその陣立を幕府に提出します(忠道公の発案なのでしょうか?15才という若さです)。翌月には室津・家嶋それぞれの守衛を藩士に命じ、かつ異国の風聞を収集したと『姫路城史』に書かれています。また同年6月には異国船渡来を想定した人数の勢揃いも行われており、文化露寇以前とは思われないほど海防に気を配っていました。はたして寛政5年にこれほど海防策を講じていた理由は何でしょうか。


門弟(三)

     起證文前書

一 不易流六剋一如の放銃御傳授段々自今他見他言
  堅可相慎事銃は軍の魁備其剋の長たり因て其放銃を詳
  にして野相城攻篭城半途折合野戰舟軍の其六に剋すへき法也
  術也銃は近世の器にして大功を知事少し銃術の得者畢竟騰る
  處を以本意とす軍は術を以し術は軍を以す是体用一如にして
  即勝を握也猥此器を用る時は常は名聞術と成於戰場は
  却て敵の助力となる因一流の其意味深拾他交の事も堅
  可慎の一流の徒にも未學處可慎の旨奉得其意候

    右於令違乱者

  梵天帝釈四大天玉惣日本國中六十余刕大小の神祇
  別て八幡大菩薩春日大明神摩利支尊天御罰可奉蒙
  立所者也



寛政十二庚申年
    閏四月廿一日  斎藤太助
             政利(判)

同年同月同日      大橋寛吾
             應喬(判)

寛政十三酉年正月十六日
            武友之進
             重僖(判)

同年同月同日      松崎市二
             昌樹(判)

同年同月同日     籠谷十郎兵衛
             高駕(判)

同年同月同日      塩山吉十郎
             善富(判)

同年同月同日      細野幸助
             信成(判)

同年同月同日      有馬武一郎
             勝許(判)

同年同月同日      三俣惣之進
             義武(判)

享和二戌年正月廿日  伊舟城久太夫
             景中(判)

同年同月同日      志水為景
               (判)

同年同月同日      杉幸八郎
             銃置(判)

同年同月同日      河合武八郎
             宗旭(判)

同年七月廿日      小川平内
             正大(判)

享和三亥年正月八日   磯田剛助
             勝宗(判)

同年同月同日      大橋覺太夫
             次元(判)

同年同月同日      原田伸吉
             高堅(判)

同年同月同日      鈴木整蔵
             守一(判)

同年同月同日      福田市太郎
             繁茂(判)

同年同月同日      清野源三郎
             政史(判)

文化三丙寅年正月八日  福嶋伊八郎
             元先(判)

此の起請文は前回述べた大橋八郎次(このときの名乗りは角左衛門)の師役在任七年間に作成されました。21名の入門者が名を列ねています。この中の三俣義武という者は三俣義行の子にて、義行の娘と前師役前田十左衛門の忰又久が夫婦でしたから近しい親戚といえます。後に義武の子が十代目の師役となりますので、ずいぶん以前からそういった伏線が張られていたわけです(六代目大橋角左衛門は再従弟)。ちょっと話しが逸れました。今回もまたこゝに掲げた入門者たちの履歴を辿ります。21名のうち9名の履歴が分っています。人数が多いので掻い摘んで記します。(各人の役職は年代順に列挙してあります)

 寛政12年閏4月21日(1800)

斎藤太助の家は、父皆右衛門の代に出奔者探索のため江戸より国元へ移住しました。寛政6年のことです、このとき大目付を免ぜられますが格式はそのまゝとのことでした。斎藤太助が家督を相続するのは不易流入門から二年後の文化2年、九拾石を下されます。以降、御城内外火之番、鉄炮方仮役、御鉄炮方福嶋善兵衛跡役、小笠原助之進次男岩蔵を聟養子とする、学問所肝煎、好古堂并稽古場肝煎出精褒美、宝山流柔術稽古世話役など。

 寛政13年1月16日(1801)

籠谷十郎兵衛、跡式を相続したのは寛政5年のこと、二拾石減らされ六拾石下されます。以降、御城内外火之番、御次番、室津御番方などを勤めました。父は御代官、安永7年新知五拾石を下され吟味役(御役料四拾石)、大目付(御役料百三拾石)、御用米廻舩御用、林田領御加勢、町奉行(御役料十人扶持)など。

塩山吉十郎、父嶺右衛門のとき江戸より国元へ移住しました。不易流入門のときは父が健在にて御在城中御供番を勤めていました。殿様に随従する勤めが多かったようです。吉十郎が跡式を相続するのは文化8年のこと、百四拾石下されます。以降、宝山流時世話役、御城内外火之番、室津勤番、飾間津御番方、家嶋御番方、御小姓供番仮役、宝山流世話役など。

細野幸助、寛政9年(1797)に跡式米拾五俵四人扶持下され、御廣間御番入り。不易流入門のときは御在城中並御供番、同年2月御参勤御供。以降、御在城中並御供番、御武具方改立合、御勘定所立合年番、御作事年番元方兼勤、御作事立合年番、御勘定所年番、御城内外并御領中忍廻、天保4年東都物騒につき別手御人数として出張。御中小姓御取立、御作事立合元方兼勤、給人格、拾壱人扶持、御参府之節御供度々、弐人扶持加増、安政4年隠居。幸助は新規取り立てのため経歴は少々異例です。

有馬武一郎、跡式を相続したのは寛政6年(1794)、百石を下され御主殿御番入。以降、御城内外火之番、御在城中御次番、高砂御番、室津御番、御鉄炮方時役、大橋角左衛門跡御鉄炮方、京都御留守居仮役、好古堂掛り、稽古場懸り、倹約年番、好古堂年番、三拾石加増、御作事年番、御休所掛り、切手掛り、格式御鎗奉行、御舟奉行時役、石州御銀舩御用度々、御用米御上納御用御廻舩度々、二拾石加増、天保11年没。

三俣惣之進、先述した通り前師役前田十左衛門の親戚にして、子が後の不易流十代目師役となります。三俣惣之進本人は武藝全般に長じた人で武官の中の武官と云えます、御物頭役にて鉄炮組を支配しました。但し、亡父遺言によって藩へ千両献金という少々謎の件もあってか、家禄を三百石から四百石に加増され、御物頭・勘略奉行・御取次の三役を兼勤。しかし後に「勤方御手薄役柄不似合之儀」とのことで百石を減らされます。不易流入門のとき18歳。亡父が家督を相続した二年後にあたります。

 享和2年1月20日(1802)

小川平内、寛政5年(1793)に跡式を相続、弐拾石を減らされ弐百拾石を下され御書院御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御近習御小姓(このとき不易流へ入門)、御供度々、異国舩漂着之節御人数、御写物御用、御使番、学問所肝煎、好古堂肝煎など。父与惣左衛門は御小姓頭格御籏奉行、御勝手御用を度々勤めました。寛政4年のこと、本来の嫡子が急死した為、長沢源十郎方へ養子に出していた三男平内を熟談のうえ引き取り嫡子とします。

 享和3年1月8日(1803)

大橋覺太夫、寛政3年(1791)に家督を相続、五拾石減らされ百弐拾石を下されます。父郡蔵は隠居前、御城内外火之番、御門固などを勤めていました。覺太夫もまた本起請文のとき御城内外火之番。以降、御在城中御次番、御城内外火之番、室津御番所御目付、家嶋勤番など。

鈴木整蔵、跡式を相続するのは文化2年(1805)、六拾石を下されます。本起請文のときは父小右衛門が健在にて御城内外火之番を勤めていました。それ以前は御在城中御次詰、御主殿御番入り、高砂御番、室津御番、飾間津御蔵方、下三方御蔵方、高砂南御蔵方、御用米御蔵方、室津御目付など。整蔵もまた父と同じく御城内外火之番にはじまり見分御用を度々勤め、飾間津御蔵方、室津御番方、高砂御番方、籾米御蔵御用など。

以上、判明している者たちの経歴をまとめると斯うです。以前の者たちも足しましょう。

 下田與曽五郎 百四拾石 番方 御中小姓組格御舩奉行 四代目師役の養子
 本多悦蔵 五両三人扶持 急死 父は蔵方
 森五百八     百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用
 林源蔵      百石 番方 蔵方 御番所御目付

 前田十左衛門 百七拾石 五代目師役 御小姓頭 御勝手御用
 大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

 斎藤太助    九拾石 番方 学問所・好古堂肝煎
 籠谷十郎兵衛  六拾石 番方 町奉行
 塩山吉十郎  百四拾石 番方
 細野幸助  拾三人扶持 給人格
 有馬武一郎  百弐拾石 御鎗奉行 御舟奉行など
 三俣惣之進   三百石 御物頭鉄炮組 十代目師役の父
 小川平内   弐百拾石 御小姓頭格御籏奉行 番方 御勝手御用
 大橋覺太夫  百弐拾石 番方
 鈴木整蔵    六拾石 番方 蔵方

皆、嫡子であることが大きなポイントで家中においてそれなりに身分の高い士たち、番方に属する者が多いのも特色です。炮術の性質から鉄炮組はもちろんですが、舩や港の番方を勤めるのも無関係ではないでしょう。番方とか蔵方とか暫定的にそう呼称しているだけで、以後門弟たちをさらに調べ職制と照らし合わせて考えようと思います。
格式についても詳しく知りたかったのですが、家臣録は断片的な情報しか得られず、さらに史料を調べなければならないと気が付きました。

本起請文が提出されたころ、大日河原に於いて殿様が不易流を御覧になりました。御覧は一大行事ですから、その時々の情報が記録されています。下記は享和1年4月27日(1801)の記録です。翌年に起請文を提出する伊舟城久太夫・川合武八郎・磯田剛助などが既に不易流の行事に参加していることを確認できます。これはちょっと意外でした。考えを改めてみると、こゝに掲げた起請文は入門時のものではなく、流派内の何かしらの階級に昇進したときに提出するものかもしれません。そうでなければ、このような行事に参加できる技術を習得する期間の説明がつかなくなります。

享和元酉年四月廿七日於大日河原
殿様 御覧扣

   抱放鏃矢
三拾筋   萩原貫太夫
弐拾筋   福嶋善兵衛
三十入箇 矢八本
大火箭   大橋角左衛門

   御意ニテ放
拾筋    笹沼團六
      伊舟城久太夫
弐拾筋   有馬武一郎
      籠谷十郎兵衛
三拾筋   武 友之進
弐拾筋   三俣富之進
三拾筋   塩山吉十郎
      宇野左馬蔵
      川合武八郎
拾筋    松崎市二
      志水百助
三拾筋   齋藤太助
      森 長吉
拾筋    磯田剛助
同     細野幸助
三拾筋   大橋官吾
      三俣惣太夫
      下田源太夫
      福嶋善兵衛
      森 助右衛門
      林 郷太夫
      萩原貫太夫
 右之通書上候扣
     大橋角左衛門

抱放鏃矢を行ったのは高弟の面々です。

萩原貫太夫は四代目師役に免許を傳授された古参の門弟。三年後に世話役となりますが、その二年後に病死します。『家臣録』では安永以前の記録が分らないため想像ですが、酒井家の慣例として「貫太夫」の名乗りは一貫目放を御前において成功させるなどの実績がなければ名乗れなかったはずです。おそらく炮術に熟練した人物なのでしょう。

福嶋善兵衛は当時、百四拾石 御武具方本役、それまでは御城内外火之番、道奉行など。父の福嶋市郎兵衛は三代目師役の高弟でした。

大橋角左衛門とは六代目師役、前回述べた大橋八郎次のことです。

 萩原貫太夫 拾五俵五人扶持 閉門・病気 不易流世話役
 福嶋善兵衛  百四拾石 御中小姓組頭御取次兼勤
 大橋角左衛門 百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方


門弟(四)

 大橋八郎次  百七拾石 六代目師役 道奉行 鉄炮方
 柴田権五郎  十人扶持 七代目師役 番方 学問所・好古堂肝煎

前回は六代目師役へ提出した起請文について述べました。
今回は七代目師役へ提出した起請文について述べます。但し、一枚起請文の形式で提出されているため、いくつか紛失したことも考えられます、よって現存する史料のみ。

七代目師役の柴田権五郎は、文化4年4月17日より文政11年11月30日まで、22年間師役を勤めました。
五代目が14年間、六代目が7年間、八代目が5年間、九代目が4年間、十代目が23年間勤めており、各代の師役在任期間のなかでは柴田権五郎は長期に類しています。履歴については以前に記しましたので今回は省きます。

起請文は各人一帋づゝ提出しており、七名分現存しています。この七名について調べたところ、三名の履歴が分りました。尤も家臣録を精読すれば、某次男、某三男という記録が見当たるのではないかと思います。

文化9年8月
 石川一兵衛政央 「御許容以前は」「許容状神文」

文化9年8月19日
 森五百八政鶴 「御許容以前は」
 根岸恒六直益 「御許容以前は」

文政2年3月
 岩松九右衛門重矩 「御許容以前は」

文政8年1月8日
 河合槌弥宗之 「六剋一如之放銃御傳授」
 福田市太郎繁茂 「六剋一如之放銃御傳授」
 石川平之丞正教 「六剋一如之放銃御傳授」


 文化9年8月(1812)

石川一兵衛は安永9年に亡父の跡式百石を下されます。前髪執の翌年、寛政5年に御主殿へ御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御供番、御在城中御近習御小姓、御鉄炮方時役などを勤め、文化7年に御鉄炮方を命じられます。起請文のときは此の鉄炮方でした。記録は文政3年まで。附けたり、父市兵衛は安永3年から同8年までの間、飾間津御蔵方、舩場御蔵方などを勤めていました。病没したとき、一兵衛は未だ若年であったようです。

文化9年8月19日(1812)

森五百八、此の人は不易流の九代目師役森助右衛門(旧五百八)の嫡子です。ちょうど此の起請文が提出された文化9年8月5日に届けを出して長吉改め五百八と名乗ります。文化5年袖附、文化7年前髪執、そして 文化9年不易流へ入門。後の文化13年に学問所検讀手傳となり、翌年出精との事によって褒美を下されます。また文政元年にもその方面に出精との理由で褒美を下されており、学問に熱心であった様子です。記録は文政3年まで。父の履歴は以前に述べた通りです。

 森助右衛門  百石 九代目師役

根岸恒六

文政2年3月(1819)

岩松九右衛門は天明5年に亡父の跡式(石高無記録)を下され御消火御番入りします。以降、御在城中御供番、御城内外火之番、御在城中御次番、道奉行代、道奉行時役、大目付役(助役)、御供・見分度々、奉行兼帯、*神戸四方之助出坂中奉行方相談、弐拾石加増、御物頭、大目付御免・奏者番兼勤、学問所肝煎、好古堂肝煎、御物頭役御免・奏者番一通り。起請文ときのは御物頭役・奏者番・好古堂肝煎を勤めていたようです。父九右衛門は室津御目付、御山奉行、病歿直近は御使番格となり御役人番へ御番入り。

文政8年1月8日(1825)

河合槌弥

福田市太郎

石川平之丞は先述の石川一兵衛の子だと思います。一兵衛の前名が平之丞でした。

 石川一兵衛  百石 御鉄炮方 御蔵方
 森五百八   九代目師役の嫡子
 岩松九右衛門 御物頭 奏者番


門弟(五)

前回が七代目でしたから今回は八代目の番なのですが、この師役への起請文は確認できていません。元から無いのか或いは失われたのか、兎も角一通も伝えられていないのです。八代目の名は福嶋善兵衛と云って家禄はおそらく百四拾石、祖父と思しき(直系であることは確認済み)市郎兵衛が三代目師役の高弟でした。四代目から五代目へ代替りする期間に行われた火業記録のなかに福嶋善兵衛の名が度々登場しており、高弟に位置しています。まだ詳しいことが分っていません。

 福嶋善兵衛  百四拾石 八代目師役 番方 道奉行

さて、今回は九代目師役への起請文です。この人のことは以前にも述べた通りです。文政3年までの履歴が分っています。

 森伊野右衛門   百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用

師役に就任してから三年後に隠居しますので、高齢であったと察せられます。
起請文の日付、天保4年5月15日は実は師役就任の四ヶ月前です。八代目が3月29日に病歿した為、その間も師役同様の立場だったのでしょう。また、藩主 酒井忠学公へ炮術を指南しました。藩主への炮術指南は、記録に見るかぎり四代目が酒井忠以公へ指南して以来久しく無かったことだと思います。酒井忠学公へ指南のおり御相手に抜擢されたのが後の十代目三俣義陳でした。ブログにおいて、これまで天保5.6年の義陳の日記を紹介しており、このなかに度々森先生が登場します。

起請文には12名が名を列ねた連名による一括提出。起請文前書は前回掲げた「六剋一如之放銃御傳授」と同一です。
この内二名の履歴が分っています。

 天保4年5月15日(1833)

笹沼留次資之
朝比奈勝吉利貞
利根川敬作景福
林平太郎信郷
清埜弥三二正生
原田笹吉言機

西澤枝次兼行 養父十右衛門は兼ての持病によって33歳の若さで養子を貰うことにして、三浦彦次郎の二男枝次を迎えます。これが天保2年7月のこと、枝次は17歳。同年12月養父の願いによって枝次が番代となります。これは養父の代理で勤めるというこでしょうか、養父は氣鬱の病いで出勤することもまゝならい状態であったと記されています。結局、養父は天保4年4月16日に隠居(この三年後に病歿)、家督は三拾石減らされ西澤枝次へ六拾石下されます。起請文を提出したのはこの一か月後です。家督の一年前に御城内外火之番を命じられ、その年に無邊流の数入身を行いました。天保7年に御在城中御次番、翌年無邊流の仮世話役となります。しかし、天保14年に痛症が悪化、実子もおらず養子をもらい隠居します。

原田益次章報
宇敷誠一郎陳戒
福嶋佳名蔵重遠

斎藤鑒介益友 起請文を提出したとき13歳という若さでした。兄の斎藤幾之進が当主としてあり、当時家嶋御番、飾万津御番方などを勤めていました。翌年に高砂御番方、さらに翌年室津御番方、浦手精勤とのことで褒美を下されます。しかし番方の武人気質というより学者であったらしく天保8年に国学肝煎を命じられています。よほど熱心だったのでしょう、百日の猶予をもらい仙臺藩士のもとへ修行に出掛けるほどでした(後年、再び他家の学者のもとへ修行に行きます)。このような兄の影響があったものか弟斎藤鑒介も学問に取り組み、文政13年(1830)に句読手伝を命じられ、天保13年に仁壽山へ入り、同14年に学問所指南手傳兼勤、弘化3年寄宿寮肝煎兼勤などを命じられています。嘉永3年兄幾之進の病死によって養子となり、その跡式五拾石を相続します。なぜ不易流に入門したのかちょっと不思議です、後年兄と同じく浦手の番方につきますので炮術が役に立ちました。特に文久のころから海防に関わる役職を勤めており、その方面ではかなり活躍します。神護丸の製造に際しては諸事肝煎元方を兼勤し、元治元年に格段出精とのことで褒美を下されました。大筒の技術にも期待されていたようで、同年特に藩より諸事心得油断無く申し合わせるようにと命じられています。またこの年、長州藩士側用人・側役の両人が来舩したときは応接して使者を断るようにと重職たちに言い含められています。元治元年は多忙にて、京都へ緊急に内々の御用で上京、帰藩して首尾よく報告しその功労が認められました。元治2年に御進発御用掛、慶応元年御目付役助勤・中御徒士頭格となり再び御進発御用掛を命じられて、諸藩応接をよく勤めます。以後も勤務に忙しく長文となりますので、こゝでは割愛しましょう。姫路藩が官軍に恭順したとき、その使者に立ったのがこの人と亀山美和です。

森精次範景

 森伊野右衛門   百石 九代目師役 御中小姓組頭 御勝手御用
 西澤枝次    六拾石 番方 若くして隠居
 森伊野右衛門  五拾石 番方 海岸防禦 神護丸製造諸事肝煎元方兼勤 御進発御用掛


門弟(六)

前回の九代目師役に続き、今回は十代目師役への起請文です。これは入門のときに差し出されたものでは無く「慎申再誓之事」と題し卯可のときに差し出された起請文です。十代目就任後の天保10年(1839)、そして海岸防禦が強化される嘉永3年(1850)、嘉永4年(1851)、あわせて8名が名を列ねています。この内4名の履歴が分っています。

十代目師役は三俣義陳と云い、先述のごとく九代目のとき殿様の炮術指南御相手を勤めた人物で、伊勢津藩の佐藤家に留学して不易流の卯可を相傳されました。師役となったのは天保8年11月18日31歳のとき。翌年亡父の跡式高三百石を相続し御書院へ御番入り。御近習席(天保10年)、御城内外火之番、御中小姓組頭御取次兼勤(天保12年)、御物頭御取次兼勤(弘化2年)、室津家嶋臺場見分・伊勢津藩不易流師家へ留学(嘉永3年)、異国舩渡来の節御手當御人数在番(嘉永6年)、公儀より鉄炮稽古四季共勝手次第・不易流炮術願いに付好古堂藝同様の御取扱となる(安政2年)、井上流炮術世話番外・不易流炮術御用に付江戸在番(安政3年)、大炮合一(安政4年)、病死(安政6年)、不易流減流(安政7年)。

 天保10年8月19日

福田市太郎 福田佐登助の長男。文政11年に不易流の世話役を命じられ天保12年まで勤めます。本人の履歴は無く、父の履歴が分っています。
父佐登助は享和2年に家督を相続、拾石減らされ百四拾石を下されます。御城内外火之番、御在城中御供番、奉行・大名が領内通行のおり道奉行代(以降度々)、室津御番所御目付(文化12年)、家嶋勤番(文化14年)、飾万津御番方(文政元年)、御城内外火之番(文政3年)など勤めました。記録はこゝまで。

福嶋長助 文化4年に跡式百三拾石を相続、御焼火の間へ御番入り。以降、御城内外火之番、飾万津御番方(文化9年)、御在城中御次番など勤め文政3年に至ります。不易流へ入門した文化9年は飾万津御番方を勤めていました。今回の起請文の時期の履歴は分っていません。
父傳五左衛門は安永5年に家督を相続し百三拾石を下され、御焼火御番入り。以降、御城内外火之番、奉行が領内通行のおり道奉行時役・道奉行代(以降度々)、室津御番所御目付(安永6年)、御武具方(安永9年)、藝事指南出精につき褒美(天明元年)、多年の功労によって御使番格(天明7年)、御中小姓組頭・御取次兼帯(寛政5年)、金原助左衛門跡の鎗術指南役(享和2年)、病死(文化3年)。

柴田太郎左衛門 七代目師役の四男にて、嫡子午之助の急死によって嫡子となります。この急死した午之助、文政9年福田市太郎・福嶋長助と共に鉄炮稽古料を下されており、もし存命であれば間違いなく流派内において重きをなした筈の人物です。
太郎左衛門が嫡子となったのは文政9年、二年後の文政11年に父が病死し跡式を相続、十弐人扶持を下され御主殿へ御番入りします。天保5年に飾万津御番を命じられてより以降は高砂御番、家嶋御番方など勤め、天保8年江戸表へ引っ越し御主殿へ御番入り、御城内外火之番。嘉永6年8月22日に不易流指南差添となり、同日当分の間は御宝器掛・御数寄屋方兼帯を命じられます。これは黒舩来航の影響によって、炮術に熟練した者を急遽抜擢した為と考えられます。翌年には異国舩渡来の節御固人数として姫路の室津へ派遣されます。突然の国許派遣は海岸防禦の方法について、地元の炮術家などゝ相談するためでしょう、9月22日に出立して10月8日には帰っています。不易流指南差添が御免となったのは安政2年のこと。
万延元年閏3月23日に不易流は減流となり、11月21日太郎左衛門は江戸表御臺場御固御人数となり、翌年在番を解かれ国許へ戻ります。国許に於いては御臺場并金杉御陣屋勤番。文久2年不易流再興の建言書を藩へ提出します。文久3年御中小姓組頭格・御鉄炮奉行となり勤役中弐拾人扶持を下されます。役職はこれまでの通り御宝器掛り・御数寄屋方兼帯、御腰物掛兼とのこと。同年8月摂州御持場へ御固人数として出張、文久4年には大炮鋳立に出精によって褒美を下されます。同年公方様が軍艦で播州・淡州・泉州辺の海岸炮臺築造場を御覧のとき、大目付代となり出張します。慶應3年正月、京摂辺が不容易な形勢となると姫路藩は派兵、太郎左衛門は大炮役として室津の警衛を任されます。慶應4年6月出京し御使番役兼勤、後に好古堂学問所肝煎兼勤、明治元年年来の出精の功績よって刑御奉行となり勤役中弐百石を下されます。明治2年邊叟と改名。
実に大まかな履歴ですが、このように柴田太郎左衛門は大炮・鉄炮に熟練した者として藩より信頼されていたようです。なお、幕末の騒然とした時期は、太郎左衛門の息子たちも武官として各地に派遣されるなどしていました。

 嘉永3年11月29日

塩山半次郎/惣太兵衛/豫助/峯八/峯右衛門 文政5年に不易流へ入門。文政10年に跡式を相続し百四拾石を下され、御焼火へ御番入り。以降、御城内外火之番、御在城中御次番(文政12年)、御城内外火之番(天保7年)、不易流炮術世話役(天保7年)、無邊流仮世話役(天保8年)、宝山流柔術仮世話役(天保8年)、御城内外火之番(天保9年)、御在城中御供番(天保12年)、不易流炮術手傳(天保13年)、豫助事惣太兵衛と改名・宝山流柔術世話役(弘化2年)、御使番(弘化3年)、不易流炮術指南差添(弘化3年)、町奉行時役(嘉永6年)、勘略奉行(嘉永7年)、高増弐拾石・町奉行(文久元年)、御物頭役・御取次兼勤(文久2年)、御上洛につき四ヶ所浦手固(文久3年)、摂州御持場固(文久3年)、若殿様御城着の節鉄炮組を率いて加古川驛まで迎えに行く(元治元年9月)、摂州御持場御固の節大目付兼勤(元治元年)、摂州御持場御固につき褒美(慶應元年)、奏者番(慶應4年)、御城番・御次詰(明治2年)。 世忰半次郎

鶴田次太右衛門 家臣録の失われた”ツ”の部。
不易流へ入門(文政6年)、修行を命じられる(天保6年)、世話役(天保7年)、手傳(弘化3年)、師範差添(嘉永3年11月11日)、印可(嘉永3年11月29日)。

 嘉永4年11月27日

福嶋傳九蔵 不易流仮世話役(天保10年)、指南手傳(嘉永3年11月11日)、印可(嘉永3年11月29日)。

高須傳内 家臣録の失われた”タ”の部。当分不易流手傳(嘉永5年4月26日)。

小笠原槌次/助之進 卯可起請文の当時は家督以前。不易流世話役(天保14年)、小笠原躾方世話役(弘化2年)、家の名に付き助之進と改名(弘化3年)、不易流指南手傳(嘉永2年)、国学指南手傳(嘉永6年)、不易流大筒手傳(嘉永7年6月)、異国舩渡来の節御手當人数江戸在番(嘉永7年)、江戸在番中姫路同様に不易流手傳(安政2年)、跡式弐百石を相続・江戸在番御免・小笠原躾方世話役・不易流手傳・国学指南手傳これまでの通り(安政2年)、不易流指南差添、御城内外火之番、十代目師役が出府につき躾方・国学より不易流を優先すべき命あり(安政3年8月)、好古堂肝煎(安政4年)、京都御留守居(安政7年)、摂州御持場御固御人数(文久3年)、好古堂掛(元治元年)、御進發御用掛(慶應元年)、町奉行・御進發御用掛(慶應2年)、病死(慶應3年)。 世忰勝弥
父新兵衛が跡式を相続したのは天保12年のこと、百七拾石を下され好古堂肝煎・御数寄屋方仮役兼勤となる、翌日御焼火へ御番入り。御使番格・勘畧奉行・御数寄屋方兼勤(天保13年)、室津交易會所懸り、倹約方年番、奉行・御物頭兼勤・勤役中弐百石(弘化3年)、宗門奉行年番、御作事年番(嘉永2年)、御加増三拾石(嘉永6年)、勘略方掛(嘉永7年)、宗門奉行年番、御用兼取扱、御勝手御用につき出坂、新開絵図御用掛、病死(安政2年)。

各人の履歴をまとめると斯うです。

 三俣義陳   三百拾石 番方 不易流十代目師役 御物頭筆頭 御取次
 福田佐登助  百四拾石 番方 市太郎の父
 福田市太郎     ? ?  不易流世話役
 福嶋長助   百三拾石 番方 不易流指南差添
 柴田太郎左衛門 弐百石 番方 不易流指南差添 御使番役 刑御奉行
 塩山惣太兵衛 百六拾石 番方 不易流指南差添 御城番 御次詰
 鶴田次太右衛門   ? ?  不易流指南差添
 福嶋傳九蔵     ? ?  不易流指南手傳
 高須傳内      ? ?  不易流指南手傳
 小笠原助之進  弐百石 番方 不易流指南差添 町奉行 御進發御用掛


門弟(七)

海岸防禦が吃緊の課題となったとき、大筒が注目されました。使用するためには技術を習得する必要があり、不易流においても俄かに門弟が増えました。斯ういう藩士たちが差し出した起請文が現存しています。これは即実戦を想定して、十代目師役が工夫した「應變臺」を伝授するに際して誓約させたものです。八名のうち二名の履歴が分っています。

   誓詞状
不易流應變臺并放方の御義は
御流義御大切の御傳授n御座候処此度御
備稽古に付各様以御含未熟の私共へ御
許し被下候段忝存候然る上は他所は勿論
の事當藩諸士は勿論縦令大夫已上の
御方且つ父子兄弟の間と云へとも決して
御臺の模様并放方の様子等口外仕り
相洩し申間敷候若於相背候は忽
蒙武神の御罰を武運に盡き果て
可申候仍て誓状如件

嘉永七寅年四月十二日

坂部敬之助 坂部三右衛門の嫡子。『誓詞状』を差し出す直前の嘉永7年4月8日18歳のとき不易流の世話役となりました。炮術のほかに山鹿流兵学・無外流兵法・無邊流鎗術に出精し、藩より度々褒美を下されています。
袖付15歳(嘉永4年)、前髪執17歳(嘉永6年)、不易流炮術世話役(嘉永7年4月8日)、山鹿流兵学仮世話(安政2年)、摂津高槻藩士のもとへ無邊流鎗術修業に行く(安政6年)、筑後柳川藩士のもとへ無邊流鎗術修業に行く(文久元年)、播磨龍野藩士のもとへ無邊流鎗術稽古に行く(文久元年)、無邊流鎗術仮世話役・直之進と改名(文久3年)、無邊流鎗術世話役・山崎表御警衛急速出張(元治元年・慶應2年)、若殿様出坂御用(慶應元年)、調練中山鹿流仮世話役(慶應2年)、殿様上京御供・急速出坂(慶應3年)、御在坂中御衛士・圭之助と改名・無邊流鎗術引退・銃隊稽古・補備役・徴兵御用・高嶋流銃隊授業兼勤(慶應4年)、虎雄と改名(明治2年)、天保山沖御警衛御人数・●●隊第八嚮導役(明治3年)。

父は坂部三右衛門。亡父跡式弐百石(文政7年)、前髪執・御主殿御番入(文政8年)、御城内外火之番、御在城中御次番(天保4年)、室津目付御番方(天保7年)、御在城中御次番・御用米御蔵方(天保10年)、錺万津御蔵方(天保11年)、高砂御蔵方(天保12年)、武衛流火炮世話(天保14年)、新開竿入(天保15年)、高砂南御蔵方(弘化2年)、御鉄炮方・地方稽古免許・焔硝製掛(弘化4年)、武家事記御本寫(嘉永元年)、地方稽古世話(嘉永2年)、武家事記并海岸繪圖寫出来に付き褒美(嘉永4年)、御腰物掛手傳・御金奉行(嘉永7年)、御備調手傳・御備帳面并繪圖面新規出来に付き褒美・新開繪圖御用出精に付き褒美(安政2年)、村繪圖仕立御用(安政5年)、出印御紋調(安政6年)、御鉄炮方備役(萬延元年)、高増弐拾石(文久元年)、大炮御鋳立御用・禁裏御所警衛の為出京(文久3年)、御使番役・摂州御持場御固御人数・御含の義により備州藝州海邊向乗舩の聞合(文久4年)、摂州御持場御固御人数(元治元年)、御宝器掛御数寄屋方兼帯(慶應元年)、備中倉敷浪士乱妨に付き打手御人数(慶應2年)、御在京中御取次兼勤(慶應4年)、八十八と改名(明治2年)、軍器幹事・錬武所小幹事(明治3年)。

大橋勝次郎 大橋覺太夫の二男。『誓詞状』を差し出す直前の嘉永7年4月8日21歳のとき不易流の世話役となりました。炮術のほかに先意流薙刀・無邊流鎗術に出精し、藩より度々褒美を下されています。
先意流薙刀世話役(嘉永6年8月30日)、不易流炮術世話役(嘉永7年4月8日)、江戸近海へ異国舩渡来の節御手當御人数として在番(嘉永7年8月12日)、出立(同9月4日)、23才(安政2年)、司閲(萬延元年)、舎長(文久元年)、病死29歳(文久2年)。

兄は大橋覚太夫。家督高百四拾石(嘉永5年3月22日)、御焼火間へ御番入り(同24日)。

ところで、この藩士たちは不易流の傳授を受けるので起請文を提出してはいますが、どうやら門弟の扱いとは言い切れない面があります。当時、不易流指南差添を命じられていた柴田太郎左衛門(七代目師役の四男)の手紙が二通現存しており(下段に掲げた二通)、その書中において俄か門弟の扱いをどうするのか?という事を師役に尋ねているのです。ちょっと一文を引きましょう、「先日、秋間半助が私へ對し、江戸表において御流義へ御入門しましたから、またまた宜しく頼みますよ、と挨拶がありました。この様子にては流義の稽古打にも出席するつもりではないかと思います。そのときはこれ迄の御同門と同じ様に扱って宜しいのでしょうか?」と尋ねています。流派にはこれまでの伝統・歴史があるものですから、急遽持ち上がった問題にどう対処すべきか手探りであった様子です。国許と足並を揃えるためという理由もあったのでしょう。また、熱心な太郎左衛門は「近来、たゞ中(あた)り打ち中(あた)り打ちと申して、外〃の御業が甚だ疎略に成っていますので、御傳授済の隅にて一通り致させたいと思います」と伝えており、技巧ばかりに走る風潮を苦々しく思い流義の教えを守りたいという意思が感じられます。この熱意は後の文久2年に不易流再興の上書となって表れます。

 尚〃追〃寒氣に相向候折角御自愛被遊候様
 乍憚奉存候爰元相應の御用向被仰下候様
 仕度奉存候以上

秋冷次第に相増候処弥御機嫌能被遊御在勤
珍重御儀奉存候爰元貴家皆様御機嫌克被成
御座且つ先日は御賢息様にも無御滞御帰宅被
遊重畳目出度奉存候随て野生無事罷在候
乍憚御休意可被成下候扨て此度大勢在番入替り
被仰付御流義にても沢山罷出候万〃先生御世話
の御事と奉存候宜敷奉頼上候當方流義御
模様委細御尋被下候は相分り可申候御思召に相
叶不申候處御座候は逐一被仰下度奉存候先日は
御上にも御稽古御初被遊候無御滞上〃御首
尾の由目出度奉存候倍御繁昌奉祈候事に御座候
扨て於當方先達て申上候通り應変臺出来
の處先生御工夫と申候且つ能き御臺と存候故
塩山[惣太兵衛]高須[傳内]小笠原[助之進]野生等申合先つ二段以上
の格合に取扱ひ置申候いまた御許し無之處には
仮りに別誓詞ヲ取り候上手掛けさせ申候事に
御座候此事は小笠原氏へ御尋被下候は〃相分り申候
然處是迄御傳授の御臺にも無之事に候へは
初心の者にも手掛けさせ不苦候と被申候人も
御座候如何相斗ひ可申哉先生御指圖次第に仕り
度奉存候且つ又於御地秋間半助金原氏等
流義へ誓詞被入何歟御傳授も相済候哉先日
半助私へ對し私に於江戸表御流義へ御入門
仕候間又〃宜敷相頼候由挨拶有之右の
様子にては流義稽古打の節出席いたし候事も
難斗奉存候其節は是迄の御同門と同し様に
仕候てよろしき事に候哉入門は江戸にて一時の役
宜にて被仰付候事にて御国にては是迄の姿
にて他門へ入込候事出来不申哉姫路にて
小屋老人抔は御上より被仰出も無之事ゆへ
姫路にては是迄の姿の由申居候是も此間
於矢場種〃評多有之候へ共決し兼候右偏に
御差圖を奉待候事に御座候乍御面倒御急に御
左右奉願候先生用事旁何歟の御欣且つ又
昨夜奉伺度如此御座候早〃頓首

九月十七日   柴田太郎左衛門

三俣先生
   玉坐下

剛寒の時下弥御安全□[被]成御在勤珍重
御儀奉存候御宿元皆様御機嫌克被成
御起居候条是又奉賀上候随て野生無事
罷過候乍憚御休意可被成下候打絶御安否不奉
伺多罪奉謝候先達ては山田御家内様にも
存外の御儀定て御愁傷奉遠察候其節
承候へ共別段御悔状も差上不申御免
奉伏願候先生には御中屋敷御引移り
殊の外の御繁勤被為在候由目出度奉存候
御門人も沢山御出来被成□□格別の御義奉存候
乍遠方奉畏悦候此方より罷出候衆中定て日〃
出精可仕奉存候皆〃一途に出精候はゝ忽上達
無疑奉存候偏に御引立に相成り候て各仕合奉存候
扨先達より天變地妖如何なる時節に御座候哉
可稀事と御座候乍去御屋敷御領分等外〃より
事軽き様子被伺候恐悦の至奉存候先達は
當方異国舩騒御門人衆盡く御用に相立候
御同慶仕候如野拙不用の者迄も室津大炮
役被仰付候罷出候可□□□□□此節當方炮術
倍盛に御座候御賢息様厚き御世話故と
奉仰候先日奉伺度有之書状差上候處
御取込故乎御答不成下如何に奉存外にも
無之秋間出席の件是は御子息様より相伺
其趣に扱置申候○酒井善左衛門御家人にいまた
無之候へ共二段の御傳授申候て宜敷候哉
○應變臺御傳授の内何位の所に扱候て宜哉
右三条奉伺候事に御座候○出精の者見立候て
伝受為済候様被仰下候處いまた其儀に
不申出手傳の御方と内〃申居事に御座候只
申渡し仕り候て巻物引渡しは先生御帰り後
仕り候て宜哉奥書の處明置候て御帰り
後被成遣候哉且又其御地へ差上候はゝ
御書被下候哉御指揮に應し扱い可申奉存候
御傳授も済御人〃には早春火業為致
申度奉伺近来只中り打ゝゝと申候て
外〃の御業甚疎略に相成居候間御傳授
済の隅にて一通り為致度奉存候此處も
尊慮奉伺候先日百目中筒應變臺試
仕候處能落合申候中りよろしく御座候弐百目
調子はつれ候て中りあしく御座候本月十九日残雪を
捨退候て中り打御座候見事の中りに御座候仮成に
取合候事と奉存候委細御賢息様より御申上可
被成候中りは宜敷候へ共只愚按いまた
疑しき處御座候御示教奉願候玉相の處に
御座候はだか玉にて玉を込候時かる子なしにて
がらんゝゝ轉ひ入候事に御座候流義御唱は百
目弐百目八七厘と承り居候右がらんゝゝ
にては少しゆるき哉に奉存候本玉相に仕り候て
又〃調子違ひ可申奉存候乍去右の玉相にて
中りを覺候へは夫にて為済置可申哉是亦
尊慮奉伺候来春試申度奉存候矢位
薬割等は御賢息より委細御書上の事と
奉存候間不申上候○五百目張筒壱貫目
鋳筒紙圖差出し奉願候事に御座候乍去
御上にも近来の御物入にては如何可有之哉と
奉存候弥御出来に相成り候て委細御指揮
奉願候事と御座候何も右奉伺候件乍御面倒
早〃御示教被下度奉祈候追〃窮陰に趣申候
折角寒氣御自愛被遊候様乍憚奉存候
先は寒氣御容躰奉伺度旁用事
申上度如斯御座候恐〃頓首

 十一月廿日   柴田太郎左衛門

三俣大先生
    玉坐下

一 御悔別に不申上候多罪御免奉祈候
一 福田佐久助[軍太夫二男]偏に御示教能人に
  御仕立被下度一統奉祈候事に御座候
一 庄之助不存寄結構難有奉存候無
  御遠慮御告戒被成下候様奉祈候
一 爰許應分の御用向被仰下候様奉祈候以上


門弟(八)

不易流の門弟を知る史料として、これまで各代ごとの起請文を挙げてきました。そして前回は天保・嘉永に印可を相傳された者たち。今回はその期間に作成された門弟の取調書を見ます。流派内における出精の者、出席しない者、行事にだけ出席する者など、ざっと88名が記されています。これは弘化2巳年11月、肝煎へ書き出されたものゝ扣です。おそらくこれが全門弟ではないかと思われ、不易流の実態を知る良い史料となるでしょう。

「格段出精」「出精」という言葉は少し割り引いて考えねばならないかもしれません。というのも、並の出席者という項目がないからです。角が立たぬように普通の出席者を出精、中でもよく頑張る人を格段出精としているのではないでしょうか。「警固被仰付の分」とは江戸在番が思い浮かびます。「當時玉揚斗」「玉揚斗」というのもはっきりと分りませんが、流派の行事にだけ参加する者のことかと。「出席の内へ可入」とは出席したりしなかったり、まったく出席しない「無席の分」とは言えない間の者たちでしょう。「四十歳已上の者に候得共 出精」、この面々は高弟たちです。四十歳已上にしてはよく出席しているのか、それとも四十歳已上にも関わらず出精の部類なのか、ちょっと判断が付き兼ねます。実はさらに下書の段階では「四十歳已上に候得共格段出精」として7名を挙げ、その肩書に「師範差添」「世話」「當分世話」「仮世話」などゝ記されており、流派の運営に関わる立場の者たちであったようです。

史料をもとに表を作りました。
流派で実際に活動している人々は「格段出精」「出精」「出席の内へ可入」「四十歳已上の者に候得共 出精」「仕懸物出精・玉揚出精」をあわせて 39.8%。
流派に所属しているが実際にはさほど活動していない人々・全く活動していない人々「當時玉揚斗」「玉揚斗」「警固被仰付の分」「無席の分」「玉揚斗の方へ入」をあわせて 60.2%。
人数で言うと、35人:53人です。


門弟(九)

今回も十代目師役の時の起請文です。師役に就いた直後に作成された『慎申再誓之事』、次いで俄か門弟のために作成された起請文については先に述べた通りであります。 今回は通常の入門者が署名した起請文を取り上げます。これは嘉永6年11月11日から安政5年3月4日まで使用され、十七名が名を列ねました。十代目師役は安政六年に病歿しましたので、この起請文の安政5年3月4日以降、不易流の入門者は途絶えたものと考えられます。 さて、十七名のうち四名の履歴が分っています。

奥野又蔵 鈴木北右衛門の次男万助聟養子となる(天保8年)、無邊流鎗術数入致に付き褒美(天保9年)、又蔵と改名(天保10年)、授讀手傳、御書物預り兼勤、家督拾石御減少百弐拾石(嘉永3年)、御焼火之間御番入、御城内外火之番、江戸近海に異国舩渡来の節御手當御人数として在番(嘉永6年7月15日)、在番御免(嘉永7年閏7月19日)、隠居(安政2年)。

父は奥野兵左衛門 御留守居(文政13年)、疝痛、御焼火御番入(天保6年)、御留守居役(天保8年)、御焼火御番入(弘化3年)、隠居(嘉永3年)、病死(嘉永5年)。

中村健平 蠣殻町御中屋敷御屋敷目付本役・御加扶持壱人扶持(天保4年)、父が老年につき姫路へ引越(天保8年)。

白倉三之助 白倉玄之助三男15歳のとき養子入り(天保9年)、御勘定人・弐人扶持(天保11年)、親格式も有り並御供番格(弘化2年)、御用場書役(安政4年)、小金奉行(文久元年)、御鎰番・御上京御供(文久3年)。

父は白倉半平太 並御供番格(天保7年)、公儀御改に付き播磨國の繪圖御用懸(天保8年)、御厩別當兼勤(天保14年)。

榊原太郎左衛門 藤本二助弟二男蔵22歳養子入り(天保12年)、養父跡式拾石減少高六拾五石下され姫路へ引越・御主殿御番入(天保15年)、御城内外火之番、太郎左衛門と改名・地方稽古を命じられ斎藤八百太夫へ入門(弘化3年)、室津目付御番方近々(弘化4年)、上三方御蔵方、高砂御蔵方、御用米御蔵方、高砂南御蔵方、地方稽古世話(嘉永5年)、高砂南御蔵方、飾万津御蔵方、下三方御蔵方、新開繪圖御用、高砂北御蔵方・鉄炮方・焔硝製掛(安政2年)、裁許方道奉行兼勤・41歳(安政5年)、御代官(萬延元年)、鍬下見分度々、御進發御用掛・改革出精高増弐拾石・大目付役(慶應元年)、源八と改名・格席是迄の通り御代官帰役(慶應4年)、好古堂大幹事(明治3年)

父は榊原太郎左衛門 好古堂肝煎出役(文政7年)、大坂御蔵屋敷引越・目付御留守居代(文政10年)、京都御買物御拂立合(文政11,12,13年・天保2,3,6年)、大坂中乱妨の節所々固(天保8年)、高増弐拾石・京都御買物御拂立合(天保7,8,9,10,11,12,14年)、病死(天保15年)。

今回取り上げた起請文を以て、現存する分は全て紹介することが出来ました。続いて、御覧火業の記録に見られる門弟たちを取り上げようと思います。

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