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不易流砲術概説:流祖の足跡

樂山人閑齋序 2016.12.27
 0.不易流砲術の起り

流祖の足跡(一) 2016.12.28
 1.流祖、奥州白川へ引込むまで
 2.流祖、幕府への仕官活動

流祖の足跡(二) 2016.12.31
 3.流祖、酒井家に招聘される

流祖の足跡(三) 2017.1.1
 4.流祖、藤堂家に滞留する

流祖の足跡(四) 2017.1.2
 5.流祖、藤堂家の客となる
 6.流祖、尾張徳川家に仕える
 7.流祖の子孫
掲載史料及び参考資料
『姫陽秘鑑』姫路市史編集室 姫路市
『姫路城史』橋本政次著 名著出版
『姫路市史』姫路市史編集委員会 姫路市
『兵庫県史』兵庫県史編集専門委員会 兵庫県
『前橋市史』前橋市史編纂委員会 前橋市
『藩士名寄』徳川林政史研究所所蔵史料
『増補大改訂 武芸流派大事典』綿谷雪/山田忠史著
『三重県郷土史料叢書:藤堂藩の年々記録』村林正美校訂
『放銃不易流大目録』私蔵文書
『泉市誌』泉市誌編纂委員会編
『朝陽館漫筆』鎌原桐山著
『鉄砲史研究』日本銃砲史学会
『竹内十郎左衛門書簡』私蔵文書
『竹内十郎左衛門伝記』私蔵文書
『不易流師役覚書』私蔵文書
『弘化上書』私蔵文書

樂山人閑齋序

竹内十郎左衛門は奥州白河の人、放銃不易流(不易流放銃・不易流銃術)を創始した。同流は発祥の地仙臺伊達家はもとより、流祖が招聘された前橋酒井家、久居藤堂家、津藤堂家などへ伝えられ、また流祖が召し抱えられた尾張徳川家に於いても行われた。(のちに酒井家の門弟によって松代真田家へも伝えられた)

不易流砲術について、『増補大改訂 武芸流派大事典』のなかでは「延宝ごろ、仙台の人、楽山人閑斎が流祖であるがひろまったのはその伝をうけた武内十郎左衛門頼重からである。」との説明がなされている。しかし、これは明らかな誤りにて、楽山人閑斎は不易流大目録の序を書いた人物である。序には、楽山人閑斎の郷に客としてきた竹内頼重の砲術を実見し驚嘆したことが書かれている。
楽山人閑斎とは何者か、調べてみると『鉄炮史研究』不易流の項に仙台地方の系図が掲げられており、竹内十郎左衛門の門弟の列に「上野景元(号閑斎)」の名がある。この者が楽山人閑斎かと思われたが、同書とは別に内藤以貫と云う人物を見付けた。この人は二代伊達忠宗公に招聘され三百石を賜った学者にて、忠宗公、綱宗公、綱宗公に仕える、元禄五年歿。楽山・閑斎の号をもつことから、先の上野景元よりも有力かと思われる。

 放銃不易流大目録序

銃者近世之器也古書不載焉
或人曰其本出自南蠻及中華而
後造方放法苟究矣其神機妙
用有大功於武備則奚竢予之
言也哉自元龜天正之間盛行
於本朝本朝嗜武之國也巧設
其造方精立其放法作者雲興
衆流泉涌於今爲尤盛矣竹内
頼重
者奥白河人嘗學此術
研窮衆流且巧於工夫月鍛季
錬之餘磨含璞而成壁拾徂芳
而騰蒨遂以成一家之法自謂
凡事物之理本乎不易而散乎
萬殊散乎萬殊而蔵乎不易不易
也者天地自然之極也聖人有之
而時中覇主假之而立其功匠
氏用之而正其墨射者由之而
志其殻因其法曰不易流
爲術也量道里於遠目而如視諸
掌執中於天地之極而無千里毫
釐之差其術之精也其法之明也
其器之便也其藥之良也非世間
衆流所能彷彿也若其機巧之妙
者有可與鬼神争奥者由是觀之
中華所用七里霞地雷炮火箭噴
筒之屬亦固兒戯而已矣然而猶
且盡心於工夫而不敢輕用者十
數年茲矣是故有非常之人非常
之藝而非常之譽末徧於世近年
有所思以去白河游於藝之暇客
於我郷人聞其術不信者多矣一日
觀其術於城西愛子之原而始驚後
又屡觀而益驚於是素知銃一流
者屈節倣慕焉我本州太守選良
士三人託爲其弟子既學益知其
精而且神其於術藝也可謂至矣
頃者屬予序其放法目録予雖以
老病不秉筆然感嘆其術業之
勤有専攻因采國中之言書諸
目録巻端

 延寳三年
   奥ю裝i城北
     樂山人閑齋序

【訳】
銃は近世の器なり。古書に載らず。或る人曰く、其の本は南蠻より出て中華に及ぶ、而して後ち造方・放法苟しくも究まる。其の神機の妙用、武備に大功有り。則ち奚ぞ予の言を竢たんや。元龜・天正の間より本朝に於いて盛んに行われる。本朝は武を嗜むの國なり。其の造方を巧みに設け、其の放法を精しく立て作す者は、雲を興し流れを衆め泉を涌かす。今に於いて尤も盛んに為す。
竹内頼重は奥白河の人、嘗て此の術を學んで研窮し流を衆め、且つ工夫を巧みにし、月鍛季錬の餘、含璞を磨きて壁を成す。徂芳を拾いて蒨を騰げ、遂に以て一家の法を成す。自ら謂く、凡そ事物の理、本に易からずして散ず。萬殊散ずるや萬殊蔵むるに易からず。不易なるは天地自然の極なり。聖人之れ有り、而して時に覇主之れを假りて中り其の功を立つ。匠氏之れを用いて其の墨を射るを正すは之れに由て其の殻を志す。因みて其の法を不易流と曰く。其の術たるや遠目の道里を量りて諸を掌に視るが如く、天地の極に中りを執りて千里に毫釐の差無し。其の術の精なるや其の法の明なるや其の器の便なるや其の藥の良なるや、世間衆流の彷彿を能くする所に非ざるや。若し其の機巧の妙なる者は鬼神と奥を争うべきは是れに由て之れを觀る。中華用ゆる所の七里霞・地雷炮・火箭・噴筒の屬、亦た固より兒戯のみ。然して猶且つ心工夫に心を盡して、輕用を敢えてせざる者茲に十數年。是の故に非常の人に非常の藝有りて、非常の譽れ末だ世に徧ねからず。近年思う所有り、以て白河を去り藝の暇に游び我が郷に客す。人其の術を聞き信ぜざる者多し。一日其の術を城西愛子の原に觀る、而して始め驚き後ち又屡觀て益驚く。是れに於いて素より銃を知る一流の者は、節を屈し慕いて倣う。我が本州の太守、良士三人を選び託して其の弟子と為す。既に學びて益其の精なるを知る。且つ其の術藝や神に至ると謂うべし。頃者予に屬す、其の放法目録に序せんことを。予老病を以て筆を秉らずと雖も、然して其の術業の勤め専攻に有るに感嘆す。因みて國中の言を采り諸目録の巻端に書す。

0.不易流砲術の起り
銃というものが南蛮より中華に及び、造方・放法が苟も究まったこと。そして元龜・天正の頃から本朝でも盛んに行われるようになった、と前置き、竹内頼重の話しへと移る。「嘗て此の術を學んで研窮し流を衆め、且つ工夫を巧みにし、月鍛季錬の餘、含璞を磨きて壁を成す。徂芳を拾いて蒨を騰げ」、遂に一家の法を成し不易流と称した。その素晴らしさを誉め讃え、それと比べれば中華が用いる所の「七里霞・地雷炮・火箭・噴筒の屬」は児戯であるとする。しかし、竹内頼重は不易流を軽々しく弘めず、なお十數年工夫に心を尽した。そのため「非常の人に非常の藝有りて」、まだ「非常の譽れ」は世に遍く知られていないと樂山人閑齋は云う。竹内頼重は近年思う所有って白河を去り、樂山人閑齋の郷に来た。その術を聞いても信用しない者は多くいたが、樂山人閑齋は仙台城の西の愛子の原においてこれを実見し驚嘆した。ほかの銃を知る一流の者もこれを観て門弟となった。そして、仙台の太守は良士三人を選び、竹内頼重に托した。このごろ樂山人閑齋は目録の序を頼まれたので、病身をおして筆をとり記した。

『鉄砲史研究』不易流の項に掲げられた序は「延宝三年乙卯夏六月朔旦 樂山人閑齋序」とあり。

序に従えば、これより十數年前に不易流は出来ていた。なお研鑽を積み、思う所あって世に示したのがこの頃であったらしい。


流祖の足跡(一)

[包紙上書]
武内十郎左衛門書

[三行別筆]
┌竹内十郎左衛門 藤堂大学殿へ相勤其後
│尾州様へ被 召出候て名古屋ニ住居致候
└病死候由

一竹内勘兵衛親父本多能登守殿へ知行
 弐百石被下相勤申候由勘兵衛親父
 鉄炮巧者ニ而勘兵衛も稽古致候由然所ニ
 勘兵衛親隠居跡式百五十石ニ而被申付
 候由依之勘兵衛存念ニ親より生おとり
 候得者こそ五十石減少ニ而も私不器量ニ而
 百五十石も過申候得者親ゟ生おとり評
     ドク
 判も氣の毒ニ存候全被 仰付候跡式ニ
 不足奉存候而願申候ニ而ハ務御座候得共跡旁
 輩□[之]存所面目なき仕合之由申立候得共
 若背者不入存寄明日ニも何分之取立
 可申も不存と御しかり有之候ニ付暫相
 勤候得共指事も無之ニ付具足鎗なと
 □かし同用ニ同家中之一家召連立の
 き其已後奥州白川へ引込執行被致
 扨江戸え勘兵衛罷出井上左太夫殿田付
 四郎兵衛殿え罷出□鉄炮之大[火]業工夫
 致ニ付願ハ検使被 仰付被下候而相違
 無御座候ハゝ何とそ御扶持ニ而も
 □□様ゟ□□□□□[被下候ハゝ]難有奉存候と
 申上候所ニ久世出雲守殿其外御老中へ
 相願申候所ニ出雲守殿御心得候と之義ニ而
 御目見なとも申付候由然所ニ松平陸奥守殿ゟ
 □□ヲ以三十貫目可進候間無参候様と
 □□□[被仰越]候勘兵衛御返事ニ難有奉存候得共
 乍憚公儀相願申候間御請不申上候由
 然者指南頼申候間腹之内無参様と
 使者申候間吏[使]着ニ付参候四季程
 滞留大目録之通傳受相済江戸□
 被帰候由其節御代替りニ而本望
 不達候由其節仙臺ニ者
         上野江右衛門
         久住弥五右衛門
         井上覚之丞
  此両人印可取┌冨塚安之助
        └瀬戸久兵衛
右之門弟段々有之大火矢稽古
度〃有之候由長田軍蔵物語御座候

1.流祖、奥州白川へ引込むまで
竹内勘兵衛とは十郎左衛門の若いころの名乗り、寛永14年(1637)生れ、親父は陸奥白河藩主 本田能登守忠義に仕え知行二百石を下されていた。親父は鉄炮巧者にて勘兵衛も稽古した。親父の隠居によって勘兵衛は跡式百五十石を申し付けられるが、五十石減少は親父よりも劣る扱いかと不満を訴え御叱りを受ける。しばらくは我慢して勤めていたが、さしたる事もないと家中の一族を連れて奥州白河へ引き籠り修業する。(このときが樂山人閑齋の序か、延宝3年(1675)6月、39才)

2.流祖、幕府への仕官活動
江戸へ出た勘兵衛は、幕府の鉄炮指南役 井上左太夫・田付四郎兵衛の両名に会い、自身の工夫した炮術の検分を願い、その次第によって扶持を乞う。ときに徳川家綱公の御代。久世出雲守や御老中へも働きかけ御目見の運びとなるところ、松平陸奥守より声がかゝる。(仕官の誘いかと思うが虫食いのため要領を得ない)ともかく、勘兵衛は幕府へ仕官活動の最中であったから松平陸奥守の誘いを断る。それならばと、指南のみを依頼されたので四季程滞在して大目録の通り傳授し江戸へ帰った。ときに将軍家の代替り(家綱公〜綱吉公)にあたり、勘兵衛は本望を達せなかったと云う。(延宝8年(1680)5月、44才)

この間の動向は酒井家不易流師家に伝えられた伝記に斯う記されている。

奥州白川の城主本多家の臣也。弱冠より砲術を好み諸流を学び、遂に八流の奥秘を悟る。故有って白川を辞し数国に遊ぶ。猶兵学の要旨を聞き、火砲に添え両術に工夫を加え、自ずから一家を成し不易流と号す。延宝年中其の術を以て厳有君に奉仕せんと欲す事将に成らんとするの日、仙台の大主使いを遣わし家臣両三輩を託して弟子と為す。仙台に於いて伊藤某に奥秘を伝え、江都に帰する。その時、大君薨去し仕える能わず、上州前橋城主酒井河内守に数年客たり。

長田軍蔵とは勘兵衛の甥、伊達吉村公に仕えた。

『放銃不易流大目録』の序を寄せられたのが延宝3年6月のこと。
伝記によれば、幕府への仕官を諦めたのが延宝8年5月のこと。松平陸奥守の招聘によって四季程滞在したから、延宝3年以降、延宝7年5月迄仕官活動をしていたようだ。いつ江戸に出たのか正確な時期は分らない。

さて、幕府への仕官を見切った勘兵衛、次いで上州前橋藩主酒井河内守忠挙公(咸休院)に招聘された。忠挙公は下馬将軍で有名な酒井忠清公の嫡子である。一介の砲術家が突如招かれるとは思われないから、仙台侯の評判を聞いたのかもしれない。この頃、竹内勘兵衛は十郎左衛門と改めた。

酒井家の士古川八郎右衛門が殊に能くし、天和3年(1683)に免許を、元禄4年(1691)に印可を伝授され不易流の家祖となった。

『鉄炮史研究』不易流の項には、「竹内頼重は奥州白河の出身で、井上外記の門人横田九郎兵衛に就いて砲術を学び、一流を立て不易流と称した」と記されている。はじめに掲げた伝記や師家の伝記にはそう云った記述が見当たらない。


流祖の足跡(二)

3.流祖、酒井家に招聘される
将軍前田家綱公の薨去につき幕府への仕官活動を諦めた竹内十郎左衛門。上野前橋藩の五代藩主 酒井忠明公に招聘され、前橋に於いて家中の士に不易流を指南する。いつの頃招かれたか判然とせぬが、公が家督を相続した天和元年2月27日前後のことかと思われる。天和3年5月22日には高弟の古川八郎右衛門に免許を傳授しており、これより後ということはない。
酒井家招聘については、三つの史料によって確認できる。

一つは、文久二年壬戌十一月廿九日に記された『弘化上書』の写。下記抜粋。

一不易流之儀者
 感休院[忠挙公]御代御家来古川八郎右衛門と申者へ井上流炮術稽古被仰付
 罷在候處教方不宜旨言上仕候ニ付不易流元祖武内十郎左衛門と申
 候而奥刕ゟ罷出候炮術者御頼に相成り於前橋修行被仰付皆傳仕
 二代指南仕り門人下田源太夫江相傳是者二代指南仕
 御上へも御指南申上候

もう一つは、『不易流師役覚書』。下記抜粋。

元祖 初勘兵衛
  武内十郎左衛門

咸休院[忠挙公]様御代御家江客分ニ而
被召出不易流銃術御傳授御願ニ付
古川八郎右衛門江傳授致候

八郎右衛門江之 天和三年
免許状      閏五月 于今指南
             送りニ而所持致候
同断
印可    元禄四年
        二月

右之通傳授等相済御暇被下置
藤堂佐渡守様江御客分ニ被召出
其後尾州様江被 召出候尤
咸休院様ニも被遊 御稽古
御旅筒頓速臺等元祖逗留中出来ニ而
御封印も 御直ニ 被遊候由申傳候

さらに一つは、酒井家不易流師家に伝えられた流祖伝記。下記抜粋。

その時、大君薨去し仕える能わず、上州前橋城主酒井河内守に数年客たり。其の門に遊ぶ者若干、其の宗を得たる者古川正光・岩松時信傑出たり。

一、頼重前橋江来ルハ延宝八庚申カ天和元辛酉ナルベシ

 2017.3.28 付記 嘉永二年の不易流炮術師役の覚書より

一、竹内十郎左衛門 御當家へ罷出候は延寶八申年と相見へ申候

『弘化上書』に拠れば、酒井家の士 古川八郎右衛門(當時は武兵衛)は井上流炮術を導入する予定であった。しかし、「教え方が宜しからず」という八郎右衛門の言上によって井上流炮術の導入は取り止め、不易流の元祖竹内十郎左衛門に指南を依頼することゝなった。

酒井家に於ける不易流の祖と位置づけられるのが、此の古川八郎右衛門。(不易流の流祖は元祖と呼び、御家に於ける祖を御家祖と呼んだ) 御物頭にて、高百五十石から二百石へと加増されている。『直泰夜話』の家中の士一覧のなかで唯一「鉄炮の妙手」と註釈されている人物である。また唯一「炮術の達人」と註釈されているのが関流の家祖 三俣惣太夫である。

古川八郎右衛門の履歴は下記の通り。

天和3年(1683)閏5月22日 竹内十郎左衛門より免許
貞享4年(1687)6月 上州前橋に於いて放町并大態之術を行い褒美として高須八左衛門より詩を送られる

貞享5年(1688)8月 蘊奥靳秘の一冊子を咸休君(酒井忠挙公)に奉ず
元禄4年(1691)2月 竹内十郎左衛門より印可
元禄6年(1693)4月22日 家中の士への指南を始める
元禄7年(1695)6月26日 百目、二十一町の幕入打、初め放ち

道統は子の古川三六へと伝えられた。

古川三六は父古川八郎右衛門に学び元禄14年(1701)迄に追々残らず相傳され師役を継ぐ
しかし其の後、狂気にて不調法有り、御暇を下され退転した。

酒井家に於ける不易流の的伝はこれで一旦途絶えしまう。
その後、酒井忠恭公(古岳院)の後押しと、弟子の岩松四郎兵衛や下田源太夫らの尽力によって竹内十郎左衛門の甥より卯可を得て再興された。

さて、話しを元に戻し、竹内十郎左衛門。
酒井家に於ける傳授等が済むと御暇を下され、次いで藤堂家に招聘される。

.余
不易流・関流はほゞ同じころに酒井家に導入された。その背景には酒井忠挙公の意向が働いていたと考えられる。
砲術はそもそも個人の技藝という武藝の枠を超えて、軍事的な性質が強く、元禄6年(1693)〜元禄8年(1695)頃に作成されたと思しき酒井家の軍制「古御備之事」に於いて、御旗本御備に関流「弐拾五人 三俣惣太夫弟子 前橋者」、不易流「六人 古川八郎右衛門弟子」が配置されている。但し関流は鉄砲隊、不易流は砲隊として。


流祖の足跡(三)

追而致啓上候

  ハケンシ
一此波子之造玉懸御目候此仕掛
 ニてわざ能候故御細工ノ本ニ進申候
 丗目筒ニ薬七匁込玉ざしハ水ずりニ
 かまへ打申候処ニ水上ヲ七町走り
 向ノきしへ一尺□□打込申候尤
 海上遠町ノ敵舩へハ百目二百
 三百目玉ヲも打出シ申候
   百目  十一町
   二百目 十二町
   三百目 十三四町走り申候と
 御心へ可被成候薬□□□□□□二
 ツ〃御込可被成候軍舩ハ陸地之人
 数立ゟ大ニ間原[まばら]ニ配り申候故空
 取多ク候て常ノ遠町ノ如ク上ゟ
  ヲロス
 打下玉ざしニテハ敵舩ニ剋り
 不申候右波子ハ波ニ添テ走り
 申候故其玉通りノ舩ハ段〃■幾艘モ
 玉勢限りニ打つらぬき可申候
 玉造ニ御座此外角圓子太散
 子ト申造玉又備崩シト申□□
 町等巧出シ尤當夏其わさ共
 仕候処ニ扨〃すさましき至而
 重寳成軍術と皆目ヲ
 驚シ申候此委細追〃可申進候
 其外日〃夜〃ニ軍剋ノ放術
 わき出申候要貫子筒も扨〃
 手軽ク早込早打ニ自由ニ打
 出シ申候彼是貴面ニ申談度と存
 斗ニ御座候

一河内守様□佐渡守存生之内下拙儀  *河内守様:前橋藩五代酒井忠挙/佐渡守:久居藩初代藤堂高通
 御懇志ニ御意被成下候付如在ニ
 不被存折ヲ以と存心底共も
 相見へ申候処ニ不慮之死去私  *不慮之死去:久居藩初代藤堂高通、元禄十年(1697)八月九日歿
 無仕合御察被成可被下候扨又
 和泉様ゟ先達而私流儀共  *和泉様:津藩三代藤堂高久
 御尋被遊候已後丹羽孫太夫  *丹羽孫太夫:久居藩家老
 當夏申候ハ何とそ
 和泉様ゟ厚御付被成候様ニ
 いたし度候いつれ左様ノ思召御座候
 様ニ相見へ候と申候故私申候ハ曽テ
 拙者儀ハ其念願ハ無御座候
 数十年苦辛骨肉ヲ盡シ
 古今和漢ニ無之太術ヲ巧出シ
 申候も一度ハ何とそ組ヲ預り
 其一組へ此太術ヲ仕込ミ野相
 城攻 籠城 伏兵 夜軍 舩
 軍ニ費なく能盡させ可申候
 様ノ手立ヲ年〃工夫思案仕
 終ニ其至極ヲ得道仕候此一組ヲ
 大態組と号申候
或ハ二十人
 一組ノ時ハ五人太火箭二人要貫子
    カクヱンシ
 十三人角圓子ト此放法ヲ仕込ミ
 敵相四五町ニ及ゟ太火箭五人此
 一連ノ火矢数七十五本ツ〃其早
 込ヲ以指込ミ打掛敵陣一面ニ
 黒煙りと仕軍勢足ノふみ土も
 なく焼たて箭勢強ク軍勢ヲ
 打つらぬき毒ノ煙ヲ以人馬ヲ攻メ
 要貫子二人一連ノ玉数四十ツ〃
 早込ヲ以其太将物頭馬上ニ顕ルヲ
 幸と打掛其近勢ともニ打ひ
 しぎ角圓子十三人此一連之玉数
 二百六十ツ〃是又早込早打也
 此三術入レまじへ其一連ノ
 玉箭三百七十五ツ〃皆早込ヲ以
 至テ烈ク雷雨ノ如ク打出ス其
 放法ノすぐれて手早キ事
 其わざノすさましく慥成
 所ハ明日ニ□顕し懸御目可申候
 如此わづか二十人ノ一組ヲ以古今
 無類ノ太功ヲ四百人前然モ
 欠引自由ニ盡させ申候此外
 猿頭子百人□□大楯砕ノ大マクリ
 破散子ノ惣マクリ抔とて強剛
 成わざ共尤其放法斗ヲ悉ク
 此大態組ニ仕込平熟いたさせ
 其敵其場其時ニ随テ一言ノ
 下知ヲ以自由ニ盡させ申此太功ヲ
 ふくみ罷有候故何とそ存命
 之内ニ一組へ仕込御軍ノ御
 重寳□仕度とハ明暮念
 願ニ存候中〃弟子なとゝ申
 少事ノ願ハ無之候勿論御願
 被成候ハ取立上ケ可申候此方ゟノ
 願ハ全以無之候能折ニ御座候故
 私心底ひそかに御物かたり可申候
 此分にて被差置候而ハ御為ニも不被成候
 私一人にて何ほとノ功ヲなし可申候哉

 迚も私所存ニ相叶申間敷と
 思召候ハ何とそ御了簡被成
 可被下候私門弟ニさへ三四人も
 組ヲ預りそれ〃〃相應ニ一組へ
 仕込御軍用と仕立本意ニ
 達シ罷有候処ニ私義ハ其元祖と
 申倍〃ノ太功ヲ熟いたし罷有候と
 申旁以如此何ら御奉公も不仕
 罷有候事残念ニ存候と申候へハ
 孫太夫申候ハ段〃尤至極いたし候
 御自分義ハ第一
 河内守様色〃御念共御座候へハ
 新参なから各[格]別成事共ニ候
 河内守様御威勢ニ而悪敷事ハ  *河内守様:前橋藩五代酒井忠挙
 有之ましく左様ニ心へ候へと
 申候故佐渡守在國已後ヲと  *佐渡守:久居藩初代藤堂高通
 見合罷有候処ニ此度不慮ニ  *不慮ニ被相果:久居藩初代藤堂高通、元禄十年(1697)八月九日歿
 被相果私心底御察可被下候
 此度又代替りニも御座候間
 和泉様并圖書殿へ  *和泉様:津藩三代藤堂高久/圖書殿:久居藩二代藤堂高堅
 河内守様ゟ御厚情宜様ニ
 被仰達被為下候ハ生〃世〃難
 有可奉存候とかく貴様
 何分ニも御取成奉頼候此上ハ
 乍恐念願是迄と奉存候
 偏ニ御厚情奉仰候恐惶
 謹言

        竹内十郎左衛門
 十一月廿七日    頼重[判]


 古川八郎右衛門様
        人〃御中

4.流祖、藤堂家に滞留する
この手紙には酒井家と藤堂家の人名が頻出する。これら人物を手掛かりとして、文中の不慮に果てた人物が分り、元禄10年11月27日に認められたと判断できる。
ときに、前橋藩五代酒井忠挙公に招聘され家中の士への不易流銃術指南を終え、次いで竹内十郎左衛門は津藩三代藤堂高久・久居藩二代藤堂高堅の元に招かれていた。
さて、手紙は「造玉の話」「丹羽孫太夫への会話導入」「大態組の話+自身の考え」「丹羽孫太夫の慰め+不慮の死去」「酒井忠挙公に取り成しを願う」という話題で構成されている。特に自身の流儀に関する「造玉の話」「大態組の話」は長い。長いおかげで竹内十郎左衛門の思い描く銃術の姿が見えてくる。要約すると、特殊な火炮を使用する炮隊を目指していた、これを軍術または軍剋之放術と云うらしい。個の技藝の域にとどまらず、集団での運用に主眼を置いていた点、当時としては画期的ではないだろうか。一人一人の弟子取りは小事と見なしている「一組へ仕込御軍ノ御重寳□仕度とハ明暮念願ニ存候、中〃弟子なとゝ申少事ノ願ハ無之候勿論御願被成候ハ取立上ケ可申候」、頼まれゝば取り立てゝあげましょうと云うほどだ。
竹内十郎左衛門はこの年61才、余命に不安を感じていたのだろう、長年の研鑽によって培われた自身の流儀の理想を早く現実のものにしたいという焦りがあったのかもしれない。その心境は「私心底ひそかに御物かたり可申候、此分にて被差置候而ハ御為ニも不被成候、私一人にて何ほとノ功ヲなし可申候哉」「私義ハ其元祖と申倍〃ノ太功ヲ熟いたし罷有候と申旁以如此何ら御奉公も不仕罷有候事残念ニ存候」と云う文言によく表れているように思う。

このときの情況を整理しよう。
竹内十郎左衛門は前橋藩五代酒井忠挙公・久居藩初代藤堂高通公に懇ろな待遇を受けてきた。なんとか恩を返そうと思っていたが、藤堂高通公は国許不在のため帰国を待つほかなかった。そして藤堂高通公が不慮の死去。藤堂家仕官の望みがあった竹内十郎左衛門は落胆した。酒井家の高弟古川八郎右衛門になんとか酒井忠挙公から津藩三代藤堂高久公・久居藩二代藤堂高堅公へ自分のことを頼んでほしいと取り成しを願う。

一 津藩二代藤堂高次の正室は酒井忠世の娘。
一 津藩三代藤堂高久の正室は酒井忠清の娘。
一 藤堂高久は、酒井忠清の娘を養女とする。
一 久居藩二代藤堂圖書高堅は、元禄十年十二月十八日備前守に任ぜらる。


流祖の足跡(四)


 一筆致啓上候先以
 雅楽頭様益御機嫌能被為成  *雅楽頭様:前橋藩五代酒井忠挙
 御座之旨乍憚恐悦至極奉存候
 御自分様弥御堅固ニ御勤被成候哉
 承度奉存候先達而ノ捧申候愚書御披
 露被成下御返書も拝見仕候難有
 仕合貴様御影不浅奉存候奉掛
 神明ニ今以
 雅楽頭御唱ハ偖〃結構成御義  *雅楽頭御唱:元禄11年2月18日
 偏ニ御人情とハ申不奉候

一兼而銃将用前之一通り御執心ニ思召候由
 流儀ノ書物ハ皆箇條書ニ仕置門弟
 望執心次第ニ口談仕候様ニ致置候故
 下書色〃仕見申候へとも口談之様ニハ
 盡しかたく尤何共かいしき書面
 にて通し不申候ヶ条も多ク御座候故
 此八九ヶ条さしあたり可入御事と存
 随分御合迄参候様ニとハ存候へとも悪筆
 無調法ニ御座候故御心ニおち申すましく候
 此上ノ御ふしぎハ何時成共可被仰下候
 致何角所存之外延引背本意奉存候

一去年春備前守様御懇意もだし  *備前守様:久居藩二代藤堂高堅
 がたく奉存尤私式ニ御手ヲさげらるゝ
 様ニ御意被成下候事偏御良特之
 御いきかたとも奉存冥加之至とも奉存
 御談申御家ニおち付申候今以御懇成
 御様子忝仕合奉存候其節其段
 貴様迄申上候刻何とそ恐多キ御事
 なから備前様へも和泉様へも宜様ニ  *和泉様:津藩三代藤堂高久
 御意被成下度旨奉願候処ニ御両所様へ
 雅楽頭様ゟ御禮御意被遊可被下候由
 被仰下候其後御上京御帰府被為
 遊候而も御事多備前様へもしみゝゝ御不言も
 無御座旨奉承知候若左様之御
 次而も無御座候ハゝ備前様へ御書返
 之刻被仰進被為下候様ニ和泉様へも
 無御失念御意被為成下候様ニ
 何とそ御了簡被成可被下候私方ゟ
 之願ハ中〃及もなき御義ニ奉存候
 左様ニ被成下候へハ万事様子能私
 義ハ生〃世〃ノ御厚恩ニ奉存偏ニ
 貴様奉任御賢慮候

一古川三六殿へ申上候弥御別事も無御座候哉  *古川三六:酒井家不易流師役二代目
 此度五郎太夫殿へ用前ノ抜書致進上候  *五郎太夫:下田五郎太夫、後の不易流師役三代目
 貴様ニも御覧被成御親父様ゟ御傳授  *御親父様:古川八郎右衛門、三六の父、不易流師役初代
 書ノ内ニ五郎太夫殿へ御覧被成御為ニも
 可成事御座候ハゝ御見せ被成候様ニ
 畢竟ハ  上之御為と奉存其外
 流義ニ付御用之事御座候ハゝ毎義
 申進候通無御遠慮可被仰下候此段
 御通し可被下候追〃可得御意候恐惶謹言

         武内十郎左衛門
  八月十二日         頼[判]

下田五郎太夫様 人〃御中

5.流祖、藤堂家の客となる
前回に紹介した元禄10年11月27日付書簡に於いて、久居藩初代藤堂高通公が不慮の死去につき、竹内十郎左衛門は大いに落胆し酒井忠挙公の取り成しを願った。その結果、津藩三代藤堂高久公・久居藩二代藤堂高堅公に何らかの言葉が掛けられたものか定かではないが、この手紙に於いて武内十郎左衛門は藤堂高堅公より懇ろなる待遇を受けている事を知らせている「御家ニおち付申候今以御懇成御様子忝仕合奉存候」。
つまり、元禄10年11月27日付書簡が認められてより、この手紙に至るまでの間、近況は伝えられていなかった。且つ、書中「雅楽頭御唱ハ偖〃結構成御義」の文言によって、酒井忠挙公が雅楽頭となった元禄11年2月18日よりさほどの時日を経ていない頃に認められた手紙だと考えられる。元禄11年8月12日の可能性が高い、元禄12年8月12日という可能性も少しくある。
藤堂家に落ち着いた武内十郎左衛門は、手紙のなかで藤堂高堅公・藤堂高久公の二人に酒井忠挙公より何か御礼の言葉を掛けてほしいと願う。以前御礼をするとの事であったが未だ沙汰がなく、次いでのときも無ければ手紙でも良いと下田五郎太夫に依頼する。願いが叶えば「万事様子能私義ハ生〃世〃ノ御厚恩ニ奉存」と、この依頼の重要なることを伝えた。これらの文言からすると、やはり元禄10年11月27日付書簡によって、酒井忠挙公より何らかの周旋があったものと察せられる。武内十郎左衛門としては、取り立てゝ呉れた藤堂高久公・藤堂高堅公に何か言葉をかけてほしいのだろう。

さて、伊勢津藩には代々が不易流師役を勤める佐藤家があり、その家祖が佐藤古仙と云う武内十郎左衛門の直弟子であった。一子相傳を承けたと伝えられている。この人は元から津藩の士であったものか定かではなく、浪人のときは佐川斎と称していた。藤堂家に仕えたのは、もしかすると武内十郎左衛門の周旋であったかもしれない。

伝記には「勢州久居城主藤堂大學頭に客たり、門に本間某・佐藤秀興、其の宗を得たり」とある。

武内十郎左衛門は藤堂家において特別な待遇を受けたものゝ、召し抱えられることはなかった。奉公の望みはあったはずだが、何故か酒井家でも藤堂家でも仕官は叶わず、次に流祖の足跡が明らかなのは尾張徳川家である。

一、竹内から武内に改めたのは藤堂家に落ち着いた頃。

6.流祖、尾張徳川家に仕える
武内十郎左衛門は、正徳3年(1707)7月に尾州徳川家へ仕官が叶い知行三百石を下され、家中の士に不易流を指南したと伝えられている。仕官した正徳3年(1707)は徳川継友公が藩主の座についた年である。徳川継友公の知遇を得たということだろうか。
享保10年9月9日歿、享年89歳、法名天眞軒 。禅寺町含笑寺に葬られた。

『武内十郎左衛門伝記』には、「尾州様へ被 召出候て名古屋ニ住居致候病死候由」の加筆あり。

酒井家不易流師家の『不易流系圖』には、「后仕尾州家号伊織」と記されている。

酒井家不易流師家に伝わったもう一つの『武内十郎左衛門伝記』には、「晩年尾州家に仕食禄三百石寛永十四年ニ生、享保十乙卯年九月九日没、享年八十九歳法名天眞軒、于禅寺町含笑寺」

『増補大改訂 武芸流派大事典』には「正徳三年七月に尾州に至って召し抱えられた。」とあるが、論拠は明らかでない。
『藤堂藩の年々記録』の註釈には「正徳五年、十郎左衛門から藤堂内匠に「不易流放銃正蒨功尽六戦之巻」が授けられている」との記述あり。

一、藤堂家を去り尾張徳川家に仕え、この頃に十郎左衛門を伊織と改めた。名乗りの変遷。
  陸奥本多家 竹内勘兵衛
  前橋酒井家 〜竹内十郎左衛門
  伊勢藤堂家 〜武内十郎左衛門
  尾張徳川家 〜武内伊織

7.流祖の子孫
不易流の道統は子孫に継承された。尾州不易流師範家という記録には卯可の者一人、免許の者三人が記録されている。履歴の判明した免許の人物で、澤父子は高百五十石、父の族は御書院番締役、子の三十郎は大御番組。同じく免許の山岡多門・同鍵次郎は成瀬隼人の用人。

七代目武内頼春は明治二年に隠居し、翌年には自分の宰領にて農兵を組織した。

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