(c) 2014-2017 武術史料拾遺 All rights reserved.

佐藤秀堅の書簡

 〇 佐藤秀堅
佐藤秀堅は伊勢津藩(藤堂家)の士。武内頼重が開いた不易流炮術を家業とする佐藤家の四代目当主です。通称は内蔵・専八郎・謙之介・兵衛と改め、諱は秀堅と云う。高百八十石、外に年々金二十石分を下されます。
佐藤秀堅の履歴は詳らかではありませんが、秀堅より印可を相傳された三俣義陳(姫路藩士)の記録によって、津藩における不易流炮術の盛況を窺い知ることが出来ます。『佐藤先生門人録』という天保八年に執筆された門人録で、藩士二百三十一人、又家来(又者)八十五人、あわあせて三百十五人が名を列ねています。これには佐藤秀堅が指南を始めてから天保八年までの入門者が名を列ねているものと見られ、各人の在所や入門日、没年、傳授の次第などが注記されています。この門人録の筆頭は藤堂出雲(皆傳)であり、ほかにも藤堂内匠、藤堂融々斎、藤堂織部、藤堂勘解由等と云った歴々と思しき藩士が名を列ねており、津藩における不易流炮術は主要な地位を占めていた様子です。

佐藤秀堅書簡 天保八年九月九日付

去る七月二日御認の貴札同月
廿七日相達忝拝見仕候如仰の残
暑稠御座候得共先以御家内様被
成御揃愈御壮堅被成御座候段珍重
奉存候次に當方無異に勤務仕候間
乍憚御安意可被下候然は御子息様にも
當六月十九日都合能御帰國も被成

目出度御事に奉存候乍併右御帰國の
頃より余程の御病証にて尤御發熱等も
不少の旨被仰下扨々驚入奉存候
右に付早速にも御見舞の愚書送り
可得貴意筈の処其節は流義用にて
遠方へ罷越十日斗も留守
にて御座■
心外御無沙汰仕打過申候就ては
帰宅後御尋も可仕筈に候へ共右帰
間もなく伊州へ流用にて永く
参り居候
に付彼是御見舞茂延引
仕候乍併此節秋冷にも相趣候処にて
御座候得共追々御全快にも御趣
被成候哉何分遠路の事故如何
御様子難斗心配仕候況や尊公様にも
一端の処にては定て御心配不少と
遠察仕候猶此節の所にては御様子
是又如何御座候哉乍御面倒為御聞
可被下候様奉存候先は乍延引
御見舞旁々猶随分御養生可被成様
奉存候恐惶謹言

  九月九日  佐藤謙之介
         秀堅 (判)

  三俣惣太夫様

  尚々乍憚御家内様方へも
  宜被仰下候様奉頼候已上


 〇 三俣義陳 天保八年一月十一日、三俣義陳は勢州津藩士佐藤秀堅のもとへ修業に



 〇 伊賀へ流義の用
書中、「帰宅間もなく伊州へ流用にて永く参り居候に付彼是御見舞茂延引仕候」とは、伊勢津の藩士ではなく、伊賀詰の藩士の元へ指南 「其節は流義用にて遠方へ罷越十日斗も留守」とは、



 〇 三俣義武





 〇 執筆年
天保八年四月十六日 「姫路出立、勢州津御家中佐藤謙之介方へ不易流炮術修行に罷越、印可迄傳授相受け、同六月十九日帰着」(『家臣録』)

本書簡の宛名「三俣惣太夫」とは、三俣義陳(当時は惣之進)の実父三俣義武のことです。「御子息様にも當六月十九日都合能御帰國も被成」

佐藤秀堅書簡 天保九年九月七日付

一筆啓上仕候秋冷甚敷候得共
先以其御地御家内様に茂被成御揃
愈御壮栄に可被成御座珍重奉賀寿候
次に            此方
無異儀有罷候間乍憚御休意可被下候
誠に以當春よりも毎々御書中も被下
千万忝奉存候夫々及御答可申筈
の処當春迄より兎角不快にて不得
止御無沙汰仕候右の段大に失敬仕候
扨於御地に御門下衆へも段々御出精
の由被仰下御同前に大慶至極に奉存候
定て追々御傳授事も御免し可被成候事と
奉遠察候
且亦當夏被仰下候
頓速臺を以石火矢仕掛の義

兼て御咄し承り候前々より御試み打形
抔とも又御違候様候て新に御工夫の由
被仰下候委細承知仕候随分面白き
御工夫可成と奉存候扨夫に付此方にても
色々相考候処已前よりも其打形の
工夫は御座候へ共何分私共の薄き
修行殊に以愚安[案]の考にては格
別自由成打形勿論壱両人にして大炮を
手強く打出し尤其進退左右共
手早く自由の打形の考等も何
卒仕候て実に間に合候程の事を考
可申候と當春より色々相考
居候処漸く私心底の七八分通は考
仕申候甚以右等の義を御咄し申にも
如何敷御座候得共
 一百目玉石火矢筒重さ拾六七貫目
  の筒を以たとへ五丁より十丁又は

  迄は自由に打其筒の下り等は
  先五十匁込にて凡堅地にて壱間半
  或は弐間右等の処にて留申候勿論
  進退左右は自由にて右の筒をかた
  手にて臺尻を持少し押せは向へ
  何程成共参り申候又左右も同
  前にて候是は車仕掛にて御座候
 一右同前の仕掛臺にて三百目玉の
  石火矢筒重さ七八十貫目猶且
  臺ともには百十貫目斗御座候
  を以薬は百目込より百五十匁込
  迄打申候処初に五十の幕は
  二放いたし候所壱つは幕入にて壱つは
  幕より六間斗も下り申候尤筒は
  とんと不動百目筒抔とは違
  格別重き事ゆへに漸く二三尺
  斗の下りにて留り申候右の
  大玉筒抔も両人にして自由に打出し
  玉込の早き事小筒の早打
  にも格別不劣事と奉存候たとへ
  五百目玉にて貫目玉の大炮と云へとも
  右の打形其筒臺の仕様を以
  打候とも少しも骨折れ不申候
  夫ゆへ大に一流歓申事に御座候尤
  土臺仕掛にて石火矢を打に大に玉着
  の善悪御座候則右の臺は存外
  玉着あらからす随分幕入も
  多く出来候程の事と打覚
  申候扨前々より頓速臺等多
  御座候へ共其筒を打候へは兎
  角臺より筒は飛落ち候故
  二の玉を又候其臺へ仕掛候事に付
  彼是以込にも手間入たとへ手間

  入不申共不自由にて則百目の凡
  十貫余の筒にて候はゝ二人も三人も
  掛り候て打出し不申候はゝ格
  別手間入申候右申通り舩打申候
  臺は前文の如く百目弐百目
  玉の弐拾貫初三四十貫の筒と
  申候へ共壱人にして込事も早く
  打出す事も早く進退も心の
  まゝに出来申候尊公様の御工夫
  にて新には試み可被成義も至極面
  白く御座候へ共私義は十貫目
  や弐十貫目位の筒に三人も四人も
  人の掛り候をおしみ申候思に
  色々ヶ様の事共を考試み
  申候乍併右申通りの事にて
  候へ共猶十分の物が八九分迄は
  出来候へ共又候今一分の所を折
  々考申事に御座候随分々々
  御考千一に奉存候
兼て國友へ御注文の三十目筒之
 出来仕候事
も被仰下委細承知仕候
 随分々々強薬弱薬抔も重々御試
 可被成候先々三十匁筒にて上薬の十三四
 を慥には打被成候はゝ造玉を込薬を
 増筒の浮雲なき様に是又御試み可被成候
 左も無之にては其業に仍て遠間丈夫の打手とは
 不被申兎角実用のみを御考
 御修行可被成よふ千一に奉存候
一百目玉の石火矢にて巣中壱尺弐寸五分
 筒の重さ十五貫七百目尤上々製の
 金あじ[味]を工夫いたし漸く當四月
 八日に鋳造仕五月下旬に出来いたし
 濱邊へ為持参り
右の筒に一音

 上々製の強薬を七十匁込三[不易流暗号の三]玉を
 堅く打込筒ねかしいたし候所
 無難にて御座候ゆへ日々楽み居申候
 且亦鋳筒を鋳立の時其全つき[継]
 よふの見様もちとゝゝ覚申候て
 初て鋳造いたし申候尤鋳師も同
 前に骨折不申斗の事にて候右の
 鋳師は外の鋳物は殊の外宜
 御座候へ共鉄炮鋳立の事は此度
 初てにて候故當方より傳授に及申事に
 御座候
右等の義も一寸御咄し申上候
 扨物事は心に思ふ三ヶ一ならては出来不申上
 候へ共又其内には思ふ九分迄は出来候
 事もまゝ有之物にて兎角色々
 御考御試み可被成候まつ一方の考出来
 候ては試み被成則は心の程を御手にて
 出来候はゝ又一方の御工夫を可被成候
 併心には余程思候ても次第に年寄候ては
 考は出来候ても手の不自由には扨々
 困り入申候先右等の義は扨置
 鉄砲役共其外御心易く相成候者共より
 宜申上候様頼参り候
間左様御承
 知可被下候先は余り御無沙
 汰に及候に付御尋旁々愚札
 を以為可得貴意如此御座候
 恐惶謹言

      佐藤謙之介
         秀 (判)

 九月七日

 三俣惣之進様


 猶々乍憚御家内様へも宜
 被仰上可被下候様奉頼候已上
 
 
[端裏書]
車臺の事


 〇 執筆年
はじめに、本書簡の執筆年特定のため、三俣義陳の履歴を掲げます。

天保八年四月十六日 「姫路出立、勢州津御家中佐藤謙之介方へ不易流炮術修行に罷越印可迄傳授相受け、同六月十九日帰着」
同 年十一月十八日 「御中小姓三人扶持、炮術指南役」
天保九年二月朔日  「亡父惣太夫跡式高三百石無相違被下置、炮術指南是迄の通被仰付候」
天保十年六月廿九日 「改名願の通被仰付候」[惣之進を惣太夫と改める]
(『家臣録』)

本書簡の時点において、三俣義陳は「惣之進」を名乗っていることから、本書簡が認められたのは改名以前の天保九年と特定されます。
書中「追々御傳授事も御免し可被成候事と奉遠察候」とは勢州留学直後の傳授状況を指し、「鉄砲役共其外御心易く相成候者共より宜申上候様頼参り候」とは勢州で親しくなった人々のことを指しており、どちらも留学直後ならではの記述として頷けます。

なお、本書簡の記述について『三俣義陳日記:天保九年』には、左記の通り符合する記述が見られます。

正月十九日 「江州国友藤兵衛方より専蔵参り候に付、逗留中の御門往来断手紙、大目付太田氏へ差遣候、但三拾匁筒出来候て参り、金子も早速相渡候事」
三月十三日 「清水矢場、昼前百目九寸筒頓速臺にて早打稽古、昼後炮術稽古、終日弁當にて出席」
五月 廿日 「昼後清水稽古早出番、早打臺稽古致候」
九月廿二日 「夕方勢州より便有之」
十月 三日 「勢州への手紙認候」

佐藤秀堅が書中に云う「當夏被仰下候」の書簡は、日記に見当りませんが、おそらく同年六月七日に京都・大坂・江戸方面へ暑気見廻を送るとき認められたものでしょう。

佐藤秀堅書簡 天保十三年正月八日付

 貴札被下忝拝見仕候
 然は旧蝋廿八日被為
 召御中小姓御組頭御取
 次御兼勤被為 仰付候

 御義猶御席并流義
 御指南是迄の通り被
 為蒙 仰目出度御義
 奉存候全く以御精勤故
 段々御結構の御事
 於      下拙も
 扨々御同慶仕候何分
 御家内様方へも厚御歓
 申上度奉存候
一為御年玉
   金百疋
   御扇子  弐
 右の通り遠路の処為
 御持被成下忝仕合幾久敷
 受納仕候是又御家内様へも
 宜御礼被仰上可被下様
 奉憚候
一麁末の至には御座候得共
   時雨蛤  弐箱
  外に
   ふた物入 一
 右の通り則御使へ上候羽
 ふた物に入候は此度
 主君より御打留の鴈壱羽
 拝領仕候に付當方一類共へも
 少しつゝ遣し申候右は御め
 づらしからぬには御座候へ共

 頂戴の鴈故不解送り
 上候尤旧蝋より御野廻り
 御鉄砲猟并御鷹にて
 多々御出御座候に付其多々
 御共仕候殊の外繁多にて
 御座候返々申上度義も
 御座候へ共御使相待せ乱
 筆相認め上候に付何れ
 又々跡より重便に奉申上候
 先は右御礼御歓旁如
 此御座候恐惶謹言

   正月八日
      佐藤謙之介
         秀(判)

 三俣惣太夫様

 

[封紙表]
姫路     津
三俣惣太夫様 佐藤謙之介
   別紙流義用

[封紙裏:後筆]
 天保十五年
   辰正月来状

[書簡の入れ違いか或いは記憶違いか、書面は天保十三年と推定される]


 〇 執筆年
「旧蝋廿八日被為召、御中小姓御組頭御取次御兼勤被為 仰付候御義」との言は、姫路藩の『家臣録』と照らし合わせて天保十二年十二月廿八日の出来事と分り、本書簡はその翌年の天保十三年に認められたと特定できます。

天保十二年十二月廿八日 「御中小姓組頭御取次兼勤被仰付候、力丸五左衛門組の組頭被仰付候、御近習席并不易流炮術指南是迄の通被仰付候」(『家臣録』)

 〇 伊勢参宮と勢州先生

佐藤秀堅書簡追啓 天保十四年秋付

追啓仕候、昨年六月時候の
御見舞旁其節内々被仰下候
には阿州の仁御地へ参り其節
阿蘭陀ボンベン等の義相心得居候
に付則其術等傳授被請候事
被仰下右に付御相談の上流義の
傳授業にも被成置度候旨御内々
の趣承知いたし候右はたとへ
いか程結構成術にても他をひろい
流義の業に被致候事実に
以の外の御事に候哉夫等の義
万々一尾州師家へ相聞へ
候義於有之は我等示等の
不行届義是又於放術
二心の聞へに候哉前々より流祖
の直弟に夫々の家風を相
建殊に尾州より東國は奥
州仙臺の藩伊藤源之助
是則東國の同流の向に他
をひろうは且他の業を流義の
術抔にいたし候者有之候はゝ
尾刕師へ記出掟の如く
取扱可申候哉、猶且我等国勢
國より西國に至掟を背者有之
候はゝ其仁を急度示可申候哉
是等の義尾刕へ相聞へ候はゝ
我等ともに退門に被致可申候事
不及申事に候間此度の義は
承り候事誠に以聴内々の取
扱にいたし置可申候間已後は
能御心得可被成候と奉存候他の

術にてもよき術御座候はゝ流外に
         ┌内々にても傳授と申ても弟子入も同之事に候
被成可被置と奉存候・我等ボンベン
抔の事は及不申候へ共前々より
他流の業沢山に書留御座候
得共流義の傳来物にいたし不申候
何分一應御心底承度存候
間早々可被仰下候、右の義旁
昨年夏中にも御返事可申筈の処
何分心底に不相叶事に付乍
失禮捨置申候偏に一應御答
承け度奉存候謹言

 卯の秋    謙之介
         秀(判)

 惣太夫様

 猶々為念の御咄申置候
 東國は伊藤源之助 勢國より
 西國は我等の請寄右両人共
 師家よりの目付同様に前々
 より蒙師命可申事に候
 唯々示に相成り候事
 肝要の義に候間左様御心得
 可被成候以上

 

[外封紙]
姫路     津
三俣惣太夫様 佐藤謙之介
   要用書

[外封紙逆:後書]
佐藤先生より来状
 師たる者に非されば開封すべからず

[外封紙逆裏:後筆]
 天保十五年辰正月来状



[内封紙]
姫路     津
三俣惣太夫様 佐藤謙之介
 流義用書状在中

[内封紙逆:後書]
佐藤先生よりボンベンの義に付来状


 〇 執筆年
三俣義陳がはじめて佐藤秀堅のもとを訪れたのは天保八年のこと、そして三俣義陳が病歿したのは安政六年のこと。したがって書中の日付「卯ノ秋」の卯年に該当するのは、天保十四年と安政二年です。
どちらの年かと云えば天保十四年です。なぜなら、『三俣義陳日記:天保十四年』の五月末、三俣義陳の元へ「尾州様御家中柏木主計」と名乗る人物が訪れ、半月ほど此の人物に師事したことが記録されているからです。 且つ、この時に師へ差し出した『阿蘭陀流盟文下書(天保十四癸卯年六月付)』が現存しており、本書簡は天保十四年と見て間違いないでしょう。

しかし、こゝで幾つかの矛盾があることに気付くと思います。書中の「昨年六月時候の御見舞旁其節内々被仰下候には」「右の義旁昨年夏中にも御返事可申筈の処何分心底に不相叶事に付乍失禮捨置申候」との記述に従うと、「卯年」と「阿蘭陀流」の出来事に一年のズレが生じます。
推察するに、弟子の相談に対して怒りを覚えた佐藤秀堅は返事を保留し、翌年の年始に返事を認めたのでしょう。普段は「〜月〜日」と書くところ、本書簡に限っては「卯の秋」と記すのもそういった事情ゆえと思われます。

整理すると、本書簡が実際に認められたのは天保十五年正月、しかし日付は天保十四年秋と云う訳です。

 〇 もう一つの矛盾点
三俣義陳が師事した阿蘭陀流師範の肩書です。佐藤秀堅は「阿州の仁御地へ参り其節阿蘭陀ボンベン等の義相心得居候に付」と云うように「阿州の仁」と聞いていたようですが、三俣義陳の元を訪れたのは「尾州様御家中」と『三俣義陳日記:天保十四年』に記録されており、また『家臣録』においても「尾張様御家中」と記録されています。 不易流の家元が尾州藩士であることを遠慮して、三俣義陳が来訪者の所属藩を敢えて偽ったか。単に佐藤秀堅の勘違いだったのか、或いは「尾州様御家中」と云うのが偽称で本当は「阿州の仁」(徳島藩士)だと云うことか、実際の事情を知る術はありません。

阿蘭陀流を三俣義陳に傳授した柏木主計と云う人物は、「尾州様御家中」と名乗ってはいましたが、その身元を姫路藩が照会しところ判然としなかったのです。 不審に思った姫路藩は直ちに退去させるよう三俣義陳へ内々に命じました。この経緯からすると、三俣義陳は柏木主計の身元が本当は「阿州の仁」であることを知っていたのかもしれません。将又、不易流の家元が尾州藩士であることを遠慮して、敢えて「阿州の仁」と云ったのか、これらはあくまで憶測です。

 〇 佐藤秀堅の逆鱗に触れる


 〇 阿蘭陀流、柏木主計

「再誓神文の四字の秘文」

佐藤秀堅書簡 [嘉永四年?]七月四日付

 一筆啓上仕候大暑の砌
 御座候処先以御揃被成愈
 御安全可被成御座珍重奉存候
 次に       當方
 無難に罷有候間乍憚御安
 意可被下候扨春已来より毎々
 御書中も被下是よりは大に
 御無音申上候是迄も夫々
 御答も可仕候処當夏初より
 毎々伊州方へ罷出
彼是
 物事打交り扨々多用
 にて自ら御答段々延引
 仕大失敬此段御容捨
 可被下候猶又當夏は結
 構に被蒙仰其儀も御吹聴
 被下千万目出度御事
に御座候
 全く當流御精勤定て何
 歟も厚御勤務被成候事故
 次第に御吉事打續き
 可申義と御同慶仕候何分
 宜御家内様方へも御歓被
 仰上可被下様奉頼上候
一兼て御頼御座候御肩衣地并
 松風の事
右も早々御送り
 可申上筈に候得共當地先頃
 迄は兎角雨中打續
 遠方送りは甚以不宜候に付
 相見合し段々延引仕候
 是亦厚御断申上候則此
 度別紙の通送り上候間

 慥に御落手可被下候
一御地も此節は定て放術の
 はけしくに付御多用と遠
 察仕候扨當年は當方の
 上にも御在國に付放術御世話
 是迄とは大に厳く就ては
 来月上旬より 御覧も
 御座候
に付種々用向打續き
 心配仕候且亦當春来被仰
 下候には皆傳の節再誓
 神文の面に相見へ候四字の
 秘文の事
如何と御尋被下
 其義も早々御答可致筈の
 所何かも大延引失敬仕候
 右秘文とは全く以知天を知地を
 知彼を知る已所の意味合にて
 御座候古より教の通り此四つ
 の事治乱共に右に外れ候ては
 天地人を失ふ故に唯々示しを
 相守らせ候様にと流書にて
 深く示し来り候乍愚考も
 無腹意申上候扨色々申上
 度義も候得共又々後便に
 可申上と奉存候来暑も
 厳御座候間随分御加養千
 一に被成候様奉存候恐惶
 謹言

  七月四日
     佐藤謙之介
        秀(判)

 三俣惣太夫様


 尚々鉄砲役共よりも宜
 申上候様頼参り候
彼等方へは
 毎々御書中も被遣候所
 御答不致失敬に奉存候已上


*別紙二通同封

[封紙]
姫路御家中  勢州津
三俣惣太夫様 佐藤謙之介
   要用書

[封紙:後筆]
巳七月来状
 誓紙四字秘文の事有之


 〇 執筆年
三俣義陳がはじめて佐藤秀堅のもとを訪れたのは天保八年のこと、そして三俣義陳が病歿したのは安政六年のこと。封紙の「巳七月来状」の巳年に該当するのは、弘化二年と安政四年です。
弘化4年(1847)4月22日世忰惣之進(義章)御在城中御小姓御雇被仰付候 嘉永4年(1851)5月18日世忰惣之進(義章)御在城中御小姓供番御雇被仰付候 安政3年(1856)6月11日不易流炮術御用ニ付江戸在番被仰付候 6月15日願之趣も有之候ニ付當秋御参府之節御道中格外御供番代御供被仰付候
三俣義陳は安政三年六月頃から安政四年七月十九日まで江戸在番でありました。 「皆伝の節の再誓神文の書面に見られる四字の秘文のこと」にある。義陳はすでに天保8年(1837)三名の者へ印可を伝授しており、その際に再誓神文を使用した。その後、種々の書類を検討するうちに再誓神文の文言が気に掛ったのだろう。
 〇 四字の秘文
『慎申再誓之事』の五箇條目「一酒色専して矣今日行無用致費矣忠孝遺身矣四字の秘文可成基由逐一致承知候」。

佐藤秀堅覚書 七月四日付

  覚

 浅黄色
一 もじ肩衣地一巻 代十五匁九分
 黒

一 同  壱巻 代七匁

一 松風 壱箱 代七匁

 三口〆代三十八匁七分
   此金弐分弐朱と
        一匁弐分
右の通り納申上候間慥に
御落手可被下候以上

 七月四日  佐藤

 三俣様

いせや新右衛門覚書 十一月廿日付

  覚

一銀札三拾八匁  玉椿
     四分  数四十八

一同  三匁   杉箱壱つ
     八分  且又かば〆

 〆同 四拾弐匁
       二分

  此金弐歩弐朱
       壱匁弐分

霜月廿日   いせや新右衛門

三俣様
  御用

佐藤秀堅書簡 十二月十一日

貴札忝拝見仕候如
尊命の甚寒の節に候得共
被成御揃愈御壮栄可被
成御勤精珍重の御義
奉存候次に  當方
無異儀罷在候間乍憚
御休意可被下候先は寒中
御見舞御答迄如此御座候恐惶
謹言
        佐藤謙之介
 十二月十一日   秀(判)

 三俣惣太夫様
    人々御中


猶々時候御見舞として
      家族共へも
被為入御念千万忝奉存候猶
御家内様方へも宜被仰上
可被下候以上


 〇 執筆年
年紀を特定し得る記述は無く、天保八年より安政五年迄の二十一年間の内。

封紙

[封紙表]
播州姫路御家中 勢州津
三俣惣太夫様  佐藤謙之介
  流義用書

[封紙裏]
  二月廿九日出す

佐藤秀堅書簡 安政六年正月七日付

為年甫の御祝詞貴札被下忝奉存候
被仰の御慶御同意目出度申納候
先以被成御揃弥御清栄可被成御迎春
珍重の御義奉存候随て    私方
無異に超歳仕候間乍憚貴意易く
思召可被下候右貴答御祝詞旁
如是御座候猶期永陽の時候
恐惶謹言

   佐藤兵衛
     

 正月七日  秀堅(判)

三俣惣之進様
  参人々御中

猶々如命の春寒甚敷奉存候誠に昨冬よりも
打續き寒氣厳敷御地は如何御座候當方は
近年不覚の寒氣御座候随分御加養千一に奉存候
乍憚御家内様方にも御祝詞宜被仰上
被下度奉頼上候猶又不相替御干肴料
   金 弐朱
為歳首に御祝義被懸貴意不浅忝幾久
敷受納仕候      愚妻よりも
厚く御礼申上候様申出候
    桑名製
   一 時雨蛤   一箱
右は麁末の至に候へ共進上仕候間是又幾
久敷御受納可被下候伊勢海老弐疋
仕度候へ共御使の御人取急き尤當地にては
一宿無之候ゆへ手に入不申心外麁末の品
 懸御目候扨従是も折々書面を以御尋
 可申上筈の処兎角万事に取紛大成失
 敬背本意候段御仁免可被下候且又
 春より大炮合一の事にて七流の臺御持
 出被成
五町場にての御試放又弐貫目玉にて
 遠町打抔夫々委細に被仰下上々の御出
 来扨々御うらやましく奉存候太火筒
 にての諸業其余盛石込と候て遠砂炮と
 御唱是等も大に成る至極の御作まひ大悦
 いたし申候人しらぬ事共は随分々々作まひも
 宜ものにて御座候御地は和銃も能々御用ひ
 被成是また御うらやましく事に御座候
 夫々御細書の趣承り祝ひ入の義御座候
 間精々當流の意味を御盡し被成候
 様祈事に御座候従是も色々申上度
 事繁多御座候へ共長文に相成失敬の至
 答書の旨御仁免可被下候猶永陽に
 万々可申上候謹言

[封紙表]
姫路御藩中  津藩
三俣惣太夫様 佐藤兵衛
  要用書    平安

[封紙裏]
  正月七日認め


 〇 執筆年
姫路藩に於いて「大炮合一」が通達されたのは安政四年閏五月十一日のこと。書中「昨春より大炮合一の事にて七流の臺御持出被成」とは、安政五年四月十八日大日河原に於いて行われた砲術の合同演習を指すと考えられ、本書簡は翌年の安政六年に認められたと推定されます。猶、安政四年の春は大炮合一の直後にて、未だ「七流の臺御持出」は行われておらず、又三俣義陳は安政六年七月九日に病歿するため、安政七年以降は除外されます。
本書簡を安政六年と特定する根拠が他にあり、次項の別紙を参照。

三俣義陳、安政六年七月九日辰上刻病死。 「昨春より大炮合一の事にて七流の臺御持出被成五町場にての御試放又弐貫目玉にて遠町打抔夫々委細に被仰下上々の御出来扨々御うらやましく奉存候」 「御地は和銃も能々御用ひ被成是また御うらやましく事に御座候」

佐藤秀堅書簡別紙 安政六年正月七日付

御別紙の趣忝拝見仕候然は
旧蝋廿五日の夜水沼外衛御地
止宿にて其砌は御對顔被成
  私よりの
傳聲も御承知被下忝奉存候兼て申上候通
              私
大に老衰に及兎角行歩に心苦を
仕尤行歩さへ出来ましく候はゝ外に
格別の痛も無之如何とも仕方も無御座候
併今より一應願置度義御座候
別儀にては無御座候江戸表に又候
御出府被成候事御座候はゝ三四日も
前廣に被仰下右は関宿
にて答礼いたし度其節には
假令関宿にて一両日前より出張
にても不苦候間重ては御出府の節
前文の如く御承知可被下候ヶ様に
老衰仕候ては弥御むつかしく
奉存候乍憚御推察可被下候
且又今般例年の如く南勢へ
御代参の御人御立被成乍憚
毎年の事能も御志神の段
難盡筆紙奉存候私共は太神の近くに居
乍申中々以三年に一度も得参
詣不仕候何事も又候永日に可申上候
恐惶謹言

 正月七日
         佐藤兵衛

 三俣惣太夫様
      几下

[裏書]
別紙


 〇 執筆年
前項折紙の別紙にて安政六年。

「旧蝋廿五日の夜、水沼外衛御地止宿にて其砌は御對顔被成」の件は、『三俣義陳日記:安政五年』の十二月廿五日の項に記録されています。 「一、津藩水沼外衛、米清へ泊り手紙旁菓子差越候付、夜分福中宿へ罷越出會、大坂御屋敷水上権太夫方への封の物頼越候付、都筑若黨にて罷越候、御水主磯吉へ頼」


 〇 佐藤秀堅、老衰

TOP