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不易流砲術概説:他藩師役との交流 〜佐藤秀堅の書簡〜

勢州津を治めていた藤堂和泉守の家中に於いて、不易流炮術を指南した佐藤秀堅。彼は不易流の元祖武内伊織の直伝を承けた佐藤古仙の曾孫にあたり、家傳の炮術を家業としていた。家禄は十二人扶持、勢州津の松ノ下に住した。
こゝに紹介する書簡の数々は、その佐藤秀堅から姫路藩の三俣義陳に送られたものである。二人は師弟の間柄であった。
そもそも酒井家には、前橋を治めていたころに元祖武内伊織を招聘し導入した不易流炮術が各代の師役によって継承されていた。(三俣義陳は初代古川正光より数えて十代目の師役にあたる)
けれども、その伝承は元祖が諸大名のもとを転々としている中途になされたもので、現代風に云うなれば旧式の教えであった。新式の方は、元祖が後に訪れた勢州津の佐藤家に伝えられていた。
さて、酒井家に於ける旧式の教えに満足出来なかった三俣義陳(その当時は次期師役と目されていた)は、主家に願い勢州津への留学を決行する。天保8年(1837)二ヶ月ほど勢州津に滞在し佐藤謙之介より印可を伝授された。
次いで義陳は、元祖の最後の地、尾州徳川家に着目する。尾州徳川家に伝わる不易流炮術は当然、勢州津の教えよりも最新のものである。勢州津の教えにはない新たな工夫が伝わっているかもしれない。 。そこで同流を指南する柏木主計のもとへ留学することにしたようだ、天保14年(1843)のこと、一ヶ月ほど滞在している。但しこの時に相伝された傳書は見当たらず、滞在中の書留が残るばかりである。尚、元祖以来 存続していた武内家はこの当時五代目頼貴。 勢州津・尾州の両家に留学した義陳は、さらに数年後の嘉永3年(1850)、再び佐藤秀堅のもとを訪れる。このときもやはり一ヶ月余り滞在し、いくつかの傳書を相傳されている。想像するに、師役の立場から生ずる様々な疑問や不安、新たな工夫、積り積った確認したいこと、そういうものを解消するために訪れたのではないだろうか。

三俣義陳と云う人は、普通に師役という立場に甘んじることなく、自己の鍛錬に厳しかった。そもそも天保8年に印可を相傳され、帰国したところで不易流の師役に任命されているから、一般的な師役の在り方を考えれば後の天保14年・嘉永3年(1850)の留学はする必要がない。これを敢えて行うあたり、余ほど熱意をもって流義に取り組んでいたと考えて良いだろう。
義陳が流義に対し真摯な姿勢で取り組んでいた根本はどこにあるのか?
それは、彼の家が鉄炮組を預かる御物頭の身分を世襲したことに起因するのかもしれない。(鉄砲組とは25挺〜30挺の足軽鉄炮隊のこと、戦時は主戦力となる) はじめ勢州津の佐藤家へ留学したのは天保8年(1837)4月のこと、この一ヶ月前に太平の眠りを醒ます出来事があった、大塩平八郎の乱である。義陳は藩の鉄炮組を率いて出陣した(このときは結局、兵庫湊まで進行したところで撤収となった)。 実戦こそ無かったものゝ、いざ戦地に赴くという事態に直面して、一個の鉄炮組を預かる物頭がどれほどの衝撃と重責を感じたことだろうか。この出来事がより一層、流儀の鍛錬と考究に向かわせた可能性は充分に考えられる。

勢州津藩の佐藤秀堅、播州姫路藩の三俣義陳、両者は義陳の留学以来、師弟としての関係がつゞき、晩年に至るまで親交があった。こゝに紹介する書簡の一群はすべて三俣義陳に宛てられたものである。両者のつながりは不易流炮術に限定されてはいるものゝ、この関係を通して江戸時代の流義の在り方が断片的にでも見えてくるのではないかと思う。 加えて、直に会って話せる機会など滅多になかった両者であるから、書簡のなかに意を尽す必要があり、武士の付き合い方、気の使い方、そういった細やかな部分までよく表れているのではないかと思う。

佐藤謙之介 天保13年1月8日「御打留之鴈の羽」

 

[封紙表]
姫路     津
三俣惣太夫様 佐藤謙之介
   別紙流義用

[封紙裏:後筆]
 天保十五年 [書簡の入れ違いか或いは記憶違いか、書面は天保13年]
   辰正月来状


貴札被下忝拝見仕候
然者旧蝋廿八日被為
召御中小姓御組頭御取
次御兼勤被為 仰付候
御義猶御席并流義
御指南是迄之通り被
為蒙 仰目出度御義
奉存候全ク以御精勤故
段々御結構之御事
於      下拙も
扨々御同慶仕候何分
御家内様方へも厚御歓
申上度奉存候

一 為御年玉
   金百疋
   御扇子  弐
右之通り遠路之処為
御持被成下忝仕合幾久敷
受納仕候是又御家内様へも
宜御礼被仰上可被下様
奉憚候

一 麁末之至ニ者御座候得共
   時雨蛤  弐箱
  外ニ
   ふた物入 一
右之通り則御使へ上候羽
ふた物ニ入候者此度
主君より御打留之鴈壱羽
拝領仕候ニ付當方一類共へも
少しツゝ遣し申候右者御め
づらしからぬニ者御座候へ共
頂戴之鴈故不■送り
上候尤旧蝋より御野廻り
御鉄砲猟并御鷹ニて
多々御出御座候ニ付其多々
御共仕候殊之外繁多ニて
御座候返々申上度義も
御座候へ共御使相待せ乱
筆相認め上候ニ付何れ
又々跡より重便ニ奉申上候
先者右御礼御歓旁如
此御座候恐惶謹言

正月八日
   佐藤謙之介
      秀

三俣惣太夫様


*三俣義陳 天保12年(1841)12月28日御中小姓組頭御取次兼勤被仰付候

【訳】
貴札下され忝く拝見いたしました。
然らば旧蝋28日召し出されて御中小姓御組頭御取次御兼勤を命じられましたこと、なお御席并びに流義御指南はこれ迄の通り命じられ目出度きことゝ存じまず。全くもって御精勤ゆえに段々御結構のこと、私にとっても扨々喜ばしいです。なにぶん御家内様方へも厚く御歓び申し上げたいと存じます。
一、御年玉として、
   金百疋
   御扇子  弐
右の通り遠路のところ御持たせ下され忝き仕合せです。幾久敷受納します。これまた御家内様へもよろしく御礼申し上げて下さいますよう■奉り候。

一、麁末の至りではありますけれども、
   時雨蛤  弐箱
  外ニ
   ふた物入 一
右の通り御使いへ渡します。羽を蓋物に入れているのは、この度主君[藤堂高猷公]より御打留の鴈壱羽を拝領しましたので、当方一類共へも少しづゝ遣しました。右は珍しくはありませんけれども、頂戴の鴈ゆえに贈ります。尤も旧蝋より御野廻り御鉄砲猟并びに御鷹に多々御出でありましたので、その多くに御供しましたのは殊のほか忙しかったです。
返々申し上げたいこともありますけれども、御使いを待たせていますので乱筆になってしまいました、いずれ又々跡より重便にて申し上げます。
まずは右御礼と御歓び旁このような次第です。恐惶謹言。

正月八日
   佐藤謙之介
      秀

三俣惣太夫様

【解】
三俣義陳が佐藤秀堅のもとを訪れ印可を相伝されたのは天保8年のこと。それから五年を経てなお師弟の間柄はつゞいていた。主に義陳の側から積極的に便りを出し、季節ごとの挨拶や近況の報告などをしていたようだ。
こゝに紹介の書簡もまた、そういった日常的なやりとりのなかで認められたものである。佐藤秀堅の側は度々到来する義陳からの書簡に逐一返事を出すというのではなく、しばらく経ったころに無沙汰を詫びる返事を出していた。
正月八日の本書簡はちょっと背景がある。義陳は年始に必ず代理人に伊勢神宮の参拝と師佐藤秀堅への挨拶をさせる習慣があった。金百疋と扇子弐ツを持参して訪れる使いの者、いつもの事であろうがこの時はたまたま主君より拝領した鴈の羽があったので、土地の名産時雨蛤に加えてこれを使いの者に托した。

佐藤謙之介 天保14年秋「我等ボンベン抔の事は及びも申さず候」

 

[外封紙]
姫路     津
三俣惣太夫様 佐藤謙之介
   要用書

[外封逆:後書]
佐藤先生より来状
 師たる者ニ非されば開封すべからず

[外封紙逆裏:後筆]
 天保十五年辰正月来状


[内封紙]
姫路     津
三俣惣太夫様 佐藤謙之介
 流義用書状在中

[内封紙逆:後書]
佐藤先生よりボンベン之義ニ付来状


追啓仕候、昨年六月時候之
御見舞旁其節内々被仰下候
ニ者阿州之仁御地へ参り其節
阿蘭陀ボンベン等之義相心得居候
ニ付則其術等傳授被請候事
被仰下右ニ付御相談之上流義之
傳授業ニも被成置度候旨御内々
之趣承知いたし候右者たとへ
いか程結構成術ニ而も他ヲヒロイ
流義之業ニ被致候事実ニ
以之外之御事ニ候哉夫等之義
万々一尾州師家へ相聞へ
候義於有之ハ我等示等之
不行届義是又於放術
二心之聞へニ候哉前々より流祖
之直弟ニ夫々之家風ヲ相
建殊ニ尾州より東國者奥
州仙臺之藩伊藤源之助
是則東國之同流之向ニ他
ヲヒロウ者且他之業ヲ流義之
術抔ニいたし候者有之候ハゝ
尾刕師へ記出掟之如く
取扱可申候哉、猶且我等国勢
國より西國ニ至掟ヲ背者有之
候ハゝ其仁ヲ急度示可申候哉
是等之義尾刕へ相聞へ候ハゝ
我等ともニ退門ニ被致可申候事
不及申事ニ候間此度之義者
承り候事誠ニ以聴内々之取
扱ニいたし置可申候間已後者
能御心得可被成候と奉存候他之
術ニ而もよき術御座候ハゝ流外ニ
         ┌内々ニ而も傳授ト申而も弟子入も同之事ニ候
被成可被置と奉存候・我等ボンベン
抔之事者及不申候へ共前々より
他流之業沢山ニ書留御座候
得共流義之傳来物ニいたし不申候
何分一應御心底承度存候
間早々可被仰下候、右之義旁
昨年夏中ニも御返事可申筈之処
何分心底ニ不相叶事ニ付乍
失禮捨置申候偏ニ一應御答
承け度奉存候謹言

卯ノ秋  謙之介
      秀

惣太夫様

猶々為念之御咄申置候
東國者伊藤源之助 勢國より
西國者我等之請寄右両人共
師家より之目付同様ニ前々
より蒙師命可申事ニ候
唯々示ニ相成り候事
肝要之義ニ候間左様御心得
可被成候以上


*卯ノ秋 卯年は、佐藤謙之介との接触〜三俣義陳の没年までに限られ、天保14年(1843)・安政2年(1855)のどちらか。
*三俣義陳 天保10年6月阿蘭陀流に誓詞を提出している、そのあとボンベン玉の効力を認識し流派内の高弟らに計り足元を確かめたうえで ボンベン玉の導入を佐藤謙之助に打ち明けたのではないだろうか。包紙に「天保十五年辰正月来状」と書かれている通り、本書簡は阿蘭陀流入門の数年内「卯年=天保14年」の筆と考えられる。

【訳】
追啓仕ります。昨年六月、時候の御見舞い旁(かたがた)その節内々(秘密)に云われるには、阿州の仁が御地(姫路を指す)へ参り、阿蘭陀ボンベンなどのことを心得ていたので、その術などの傳授を請うたと云われましたね。このことについて、私と御相談の上流義の伝授業にも加えたいとの旨、内々の趣は承知いたしました。しかし、これがたとへいかほど結構なる術であっても、他を拾い流義の業にすることは実に以ての外の事ではありませんか。それらのこと、万々一尾州師家へ聞へるようなことがあれば、我ら示しなどの不行届きであり、これまた放術において二心の聞へにもなるのではありませんか。前々より流祖の直弟にそれぞれの家風を建て、殊に尾州より東國では奥州仙臺藩の伊藤源之助、これは東國の同流の向きに他を拾う者、且つ他の業を流義の術などにする者があれば、尾刕師へ記し出し、掟の如く取り扱うはずでしょう。なお且つ我ら国の勢國より西國に至って掟に背く者があれば、その仁を急度示さねばならないでしょう。これ等のことが尾刕へ聞へでもすれば、我ら共に退門にされるべきことは言うに及ばないことです。この度承りました事は、誠に以て内々の取り扱いにしておきますので、已後はよく心得て下さるようにお願いします。他の術でもよき術がありましたら、流外のものとして扱うべきでしょう。内々で傳授する場合も弟子を取るときも同じことです。我らボンベンなどのことは言うには及びません、前々より他流の業を沢山に書き留めてありますけれども、流義の傳来物にはしていません。
なにぶん一応貴方の心底を承りたいと思いますので、早々に手紙を下さい。
右の件旁(かたがた)、昨年の夏中にも返事をするはずのところ、なにぶん私の心底に叶わない内容の手紙でしたから、失禮ながら捨て置いたのです。偏えに一應御答え承りたいです。謹言

卯ノ秋  謙之介
      秀

惣太夫様

猶々、念のため御咄しゝて置きましょう。東國は伊藤源之助、伊勢國より西國は我らの請け寄りです。右の両人は共に師家よりの目付同様に前々より師命を蒙るべきことです。ただただ示しに成ることが肝要ですので、左様に心得てください、以上。

【解】
この書簡を読んだとき、佐藤秀堅の怒りがひしひしと伝わり、あまりの剣幕に驚いたものだ。当時の書簡でこれほど怒りを露わにすることは珍しい。その理由は書中にも書かれている、元祖以来の武内家は尾州徳川家にあり、伊勢から西は佐藤秀堅が流派の秩序を守る立場にあった。そのため直弟子の三俣義陳の勝手な行動をされては示しがつかないのだ。
問題とされているのは、流儀の掟破りとされる他流の工夫を付け足すということ。現代の感覚からすれば、便利なもの、より効率の良いもの、そういう新たな工夫はさっさと取り入れた方が当然良いと思う。
しかし、江戸時代の武藝流派というものはそれを易々と許さない。長年にわたって培われた歴史・秩序・伝統があるからだ。工夫の付け足しを禁じるのは、いくつかの理由が考えられる。たとえば、師範たちが好き勝手に工夫を加える行為は流祖を軽んずる、ひいては流義を蔑ろにする行為と見なされるからである。またそれのみならず、師範たちが銘々で改変してしまうと、それはもはや元来の流儀を逸脱した存在となってしまうからだ。
では、新たな工夫を実践したい場合はどうするのか? その答えがこの書簡にはある。「他之術ニ而もよき術御座候ハゝ流外ニ被成可被置と奉存候、内々ニ而も傳授ト申而も弟子入も同之事ニ候」、流儀と混同せず流外に扱えという。なるほど、当時の認識ではこれはアリらしい。意外である、私はそういう行為は認められないと思っていた。この手の扱いについては、角張った文書に著されることがないので、書中に於いて述べられている点実に有り難い

この書簡を受け取った日の日記には、天保15年1月13日「一 夜分勢州代参之者帰着、佐藤氏より元祖画像来ル」とある。つまり、本書簡と共に元祖の肖像を送られていたのだ。流義の教えを見つめ直せと云う戒めを込めてのものだろうか。年始の多忙な時期にもかゝわらず、五日後の18日には「勢州江之手紙昼後相認ル」と早々に返事を出している。

封紙は義陳の後筆であろう、「師たる者ニ非されば開封すべからず」と二重に包まれていた。たしかにこの内容は表立って言うを憚られる微妙な問題である。

佐藤謙之介 弘化2年7月4日「再誓神文の四字之秘文」

[封紙]
姫路御家中  勢州津
三俣惣太夫様 佐藤謙之介
   要用書

[封紙:後筆]
巳七月来状
 誓紙四字秘文之事有之


一筆啓上仕候大暑之砌
御座候処先以御揃被成愈
御安全可被成御座珍重奉存候
次ニ       當方
無難ニ罷有候間乍憚御安
意可被下候、扨春已来より毎々
御書中も被下是より者大ニ
御無音申上候是迄も夫々
御答も可仕候処當夏初より
毎々伊州方へ罷出彼是
物事打交り扨々多用
ニ而自ラ御答段々延引
仕大失敬此段御容捨
可被下候、猶又當夏者結
構ニ被蒙仰其儀も御吹聴
被下千万目出度御事ニ御座候
全ク當流御精勤定而何
歟も厚御勤務被成候事故
次第ニ御吉事打續キ
可申義ト御同慶仕候何分
宜御家内様方へも御歓被
仰上可被下様奉頼上候

一 兼而御頼御座候御肩衣地并
松風之事右も早々御送り
可申上筈ニ候得共當地先頃
迄者兎角雨中打續
遠方送り者甚以不宜候ニ付
相見合し段々延引仕候
是亦厚御断申上候則此
度別紙之通送り上候間
慥ニ御落手可被下候

一 御地も此節者定而放術ノ
はけしくニ付御多用ト遠
察仕候、扨當年ハ當方之
上ニも御在國ニ付放術御世話
是迄トハ大ニ厳ク就而者
来月上旬ヨリ 御覧も
御座候ニ付種々用向打續キ
心配仕候、且亦當春来被仰
下候ニ者皆傳之節再誓
神文之面ニ相見へ候四字之
秘文之事如何と御尋被下
其義も早々御答可致筈之
所何かも大延引失敬仕候
右秘文トハ全ク以知天ヲ知地ヲ
知彼ヲ知ル已所之意味合ニ而
御座候古ヨリ教之通り此四ツ
之事治乱共ニ右ニ外レ候而者
天地人ヲ失フ故ニ唯々示シヲ
相守ラセ候様ニと流書ニ而
深ク示し来り候乍愚考も
無腹意申上候、扨色々申上
度義も候得共又々後便ニ
可申上と奉存候来暑も
厳御座候間随分御加養千
一ニ被成候様奉存候恐惶
謹言

七月四日
   佐藤謙之介
      秀

三俣惣太夫様

尚々鉄砲役共よりも宜
申上候様頼参り候彼等方へ者
毎々御書中も被遣候所
御答不致失敬ニ奉存候已上


*別紙二通同封

【訳】
一筆啓上いたします。大暑の砌ですがまずもって御揃いなられ、いよいよ御安全だと珍重に思います。
次に当方は無難に過しておりますので憚りながら御安意ください。
さて、春已来より毎々御書中も下され、これよりは大いに御無音となりました。これ迄もそれぞれ御答えもいたしていましたが、当夏初より毎々伊州方[伊賀方面]へ出掛け、かれこれ物事に打ち交り、さてさて多用にて自ずから御答えが段々と延引してしまいました。大失敬、このこと御容捨ください。
なおまた、当夏は結構な仰せを蒙り、そのことも御吹聴下され、千万目出度いことでございます。
まったく当流に御精勤ですから、定めし他のことにも厚く御勤務されていることゆえ、次第に御吉事も打ち続いているのだと御同慶いたします。なにぶん宜しく御家内様方へも御歓び申し上げてくださいますよう頼みます。

一、かねて頼まれておりました御肩衣地・松風のこと。これも早々に御送りするはずでしたが、当地は先頃までは兎角雨中打ち続き、遠方送りは甚だもって宜しからざることでしたので見合せ、段々延引となりました。これまた厚く御断り申し上げます。この度別紙の通り送りますので慥かに御落手下さい。

一、御地[姫路]もこのごろは定めて放術[炮術]が激しくなり御多用と遠察いたします。
さて、当年は当方の上[藤堂高猷公]も御在国につき、放術の御世話もこれまでとは違い大いに厳しく、ついては来月上旬より御覧もありますので種々用向き打ち続き心配いたしました。
且つまた当春来、皆伝の節の再誓神文の書面に見られる四字之秘文のこと、いかゞと御尋ね下され、そのことも早々に御答え致すはずのところ、何もかも大延引、失敬いたしました。
右の秘文とは全くもって、天を知り、地を知り、彼を知り、己を知る所の意味合いです。
古より教えの通り、この四ツのことは治乱共に右に外れては、天地人を失うゆえに、ただただ示しを守らせるようにという流書でして深く示し来りしものです。愚考ですけれども腹意なく申し上げます。
さて色々申し上げたいこともありますけれども、またまた後便に申し上げようと思います。来暑も厳しいですので、随分御加養千一になられますよう願います、恐惶謹言。

七月四日
   佐藤謙之介
      秀

三俣惣太夫様

尚々、鉄砲役共よりも宜しく申し上げてくれるよう頼まれています。彼ら方へは貴方から毎々御書中も遣わされていますが、御答え致さず失敬いたしました、已上。

【解】
書中「巳七月」とある。これによって此の手紙がいつのものかと推考するに、「巳年」は佐藤謙之介との接触から三俣義陳の没年までに限定され、弘化2年(1845)7月または安政4年(1857)7月のどちらかに絞られる。 しかし、義陳は安政3年6月頃から安政4年7月19日まで江戸在番であったから、書中「春已来より毎々御書中も被下是より者大ニ御無音申上候」、「御地も此節者定而放術ノはけしくニ付御多用ト遠察仕候」と云う条件に当て嵌まらない。 もし義陳が安政4年の春已来より毎々書簡を出していたとすれば、すでに江戸在番であることは確実に佐藤謙之介の知る所であり、「御地も此節者定而放術ノはけしく」とは云わないはずだ。よって此の手紙は弘化2年(1845)7月4日のものと推定される。
さて、この手紙の用件の一つは「皆伝の節の再誓神文の書面に見られる四字之秘文のこと」にある。義陳はすでに天保8年(1837)三名の者へ印可を伝授しており、その際に再誓神文を使用した。その後、種々の書類を検討するうちに再誓神文の文言が気に掛ったのだろう。 師範・師役という指導者の立場は、弟子たちから尋ねられたとき分りませんでは済まないので、このような疑問を常に解消しておく必要があったと察せられる。あるいは尋ねられたので、調べて置くと云いその場を凌ぎ、佐藤秀堅に尋ねたのかもしれない。
天保14年の西洋流問題で両者の関係が悪化するように見えたが、この通り師弟の関係は良好であった。

佐藤謙之介 弘化2年7月4日「領収書」

  覚

 浅黄色
一 もじ肩衣地一巻 代十五匁九分
 黒

一 同  壱巻 代七匁

一 松風 壱箱 代七匁

 三口〆代三十八匁七分
   此金弐分弐朱与
        一匁弐分
右之通り納申上候間慥ニ
御落手可被下候以上

 七月四日  佐藤

 三俣様

いせや新右衛門 11月20日「領収書」

  覚

一 銀札三拾八匁  玉椿
      四分  数四十八

一 同  三匁   杉箱壱ツ
     八分   且又かば〆

 〆同 四拾弐匁
       二分

  此金弐歩弐朱
       壱匁弐分

霜月廿日   いせや新右衛門

三俣様
  御用

佐藤兵衛 安政5年1月7日「大炮合一、七流之臺御持出」

 

[封紙表]
姫路御藩中  津藩
三俣惣太夫様 佐藤兵衛
  要用書    平安

[封紙裏]
  正月七日認メ


為年甫之御祝詞貴札被下忝奉存候
被仰之御慶御同意目出度申納候
先以被成御揃弥御清栄可被成御迎■
珍重之御義奉存候随而    私方
無異ニ超歳仕候間乍憚貴意易く
思召可被下候右貴答御祝詞旁
如是御座候猶期永陽之時候
恐惶謹言

   佐藤兵衛
     秀堅

正月七日

三俣惣之進様
  参人々御中

猶々如命之春寒甚敷奉存候誠ニ昨冬よりも
打續キ寒氣厳敷御地者如何御座候、當方ハ
近年不覚の寒氣御座候随分御加養千一ニ奉存候
乍憚御家内様方ニも御祝詞宜被仰上
被下度奉頼上候、猶又不相替御干肴料
   金 弐朱
為歳首ニ御祝義被懸貴意不浅忝幾久
敷受納仕候      愚妻よりも
厚く御礼申上候様申出候
    桑名製
   一 時雨蛤   一箱
右者麁末之至ニ候へ共進上仕候間是又幾
久敷御受納可被下候伊勢海老弐疋
仕度候へ共御使之御人取急キ尤當地ニ而者
一宿無之候ゆへ手ニ入不申心外麁末之品
懸御目候、扨従是も折々書面ヲ以御尋
可申上筈之処兎角万事ニ取紛大成失
敬背本意候段御仁免可被下候、且又昨
春より大炮合一之事ニ而七流之臺御持
出被成五町場ニ而之御試放、又弐貫目玉ニ而
遠町打抔夫々委細ニ被仰下上々之御出
来扨々御うらやましく奉存候太火筒
ニ而之諸業其余盛石込■■遠砂炮ト
御唱是等も大ニ成ル至極之御作まひ大悦
いたし申候人しらぬ事共ハ随分々々作まひも
宜ものニ而御座候、御地ハ和銃も能々御用ひ
被成是また御うらやましく事ニ御座候
夫々御細書之趣承り祝ひ入之義御座候
間精々當流之意味ヲ御盡シ被成候
様祈事ニ御座候従是も色々申上度
事繁多御座候へ共長文ニ相成失敬之至
答書之旨御仁免可被下候、猶永陽ニ
万々可申上候謹言


*姫路藩 安政4年(1857)閏5月11日大炮合一

【訳】
猶々、貴方の云うように春寒甚しく思います。誠に昨冬よりも打ち続き寒気厳しく、御地[姫路]はいかゞでしょう、当方は近年不覚の寒気です。すいぶん御加養千一に思います。
憚りながら御家内様方にも御祝詞を宜しくお伝えくださいますよう頼みます。
なおまた、相替らず御干肴料
   金 弐朱
歳首に御祝義として貴意を懸けられ、浅からず忝く幾久しく受納致します。
愚妻よりも厚く御礼申し上げてほしいと云っております。
    桑名製
   一 時雨蛤   一箱
右は麁末の至りではありますけれども進上致しますので、これまた幾久しく御受納下さい。
伊勢海老弐疋を返礼としたかったのですが、御使いの御人が急いでいましたので、尤も当地には一宿も無いゆえ手には入らず、心外麁末の品を御目に懸けます。
さて、これよりも折々書面をもって御尋ね申し上げるはずのところ、兎角万事に取り紛れ大いなる失敬、本意に背くことです、御仁免ください。
且つまた、昨春より大炮合一の事にて七流の臺を御持出しなられ五町場にての御試放[試射]。また、弐貫目玉にて遠町打など、それぞれ細かにお知らせ下され上々の御出来とのこと、さてさて御うらやましく思います。
大火筒にての諸の業[わざ]、その余盛石込■■遠砂炮と御唱え、これ等も大いに成る至極の御作まひと大悦いたしました。人しらぬ事共はずいぶんずいぶん作まひも宜しきものでしょう。
御地[姫路藩]は和銃もよくよく御用いなられ、これまた御うらやましいことです。
それぞれ御細書の趣承り、祝ひ入りのこともありますので、精々当流の意味を御尽しなられますよう祈っております。
これよりも色々申し上げたいことは繁多にありますけれども、長文になっては失敬の至り、答書の旨は御仁免下さい。
なお永陽に万々申し上げましょう、謹言。

【解】
此の手紙で云うところの「七流之臺御持出被成五町場ニ而之御試放」とは、安政5年4月18日大日河原に於いて行われた合同軍事演習の予行を指すと思われる。 大炮合一とは、炮術各流が秘密をなくして統一基準を設けようという藩上層の思惑であったが、各流は一応の動きこそ見せたものゝ独自路線を追求していたようだ。 「自得流:■臺 荻野流:行軍臺 井上流:双輪車 武衛流:三輪臺 不易流:応変臺 井上流:神機車」などゝ、各流がそれぞれ工夫した臺を用いた。(あと関流)
勢州津藩においてはすでに西洋流への移行が進んでいたのだろうか、「御地ハ和銃も能々御用ひ被成是また御うらやましく事ニ御座候」と感想を述べている。

佐藤兵衛 安政5年1月7日「老衰に及び、出府の節」

[裏書]
別紙


御別紙之趣忝拝見仕候、然者
旧蝋廿五日之夜水沼外衛御地
止宿ニ而其砌者御對顔被成  私よりの
傳聲も御承知被下忝奉存候兼而申上候通
              私
大ニ老衰ニ及兎角行歩ニ心苦ヲ
仕尤行歩さへ出来ましく候ハゝ外ニ
格別之痛も無之如何とも仕方も無御座候
併今より一應願置度義御座候
別儀ニ而者無御座候、江戸表ニ又候
御出府被成候事御座候ハゝ三四日も
前廣ニ被仰下、右者関宿
ニ而答礼いたし度其節ニ者
假令関宿ニ而一両日前より出張
ニ而も不苦候間重而者御出府之節
前文之如く御承知可被下候ヶ様ニ
老衰仕候而者弥御むつかしく
奉存候乍憚御推察可被下候
且又今般例年之如く南勢へ
御代参之御人御立被成乍憚
毎年之事能も御志神之段
難盡筆紙奉存候私共者太神之近くニ居
乍申中々以三年ニ一度も得参
詣不仕候何事も又候永日ニ可申上候
恐惶謹言

正月七日
   佐藤兵衛

三俣惣太夫様
     几下

【訳】
御別紙の趣、忝く拝見致しました。 然らば旧蝋廿五日の夜、水沼外衛が御地[姫路]に止宿、その砌は御対顔成られ、私よりの伝声も御承知下され忝く思います。 兼て申し上げていた通り、私は大いに老衰に及び兎角行歩することに心苦を致しております。 尤も行歩さへ出来ないとはいえ、外に格別の痛みも無く、如何とも仕方もありません。 それと、今より一応頼んで置きたいことがあります、特別なことではありません。 江戸表にまた御出府成られましたらば、三,四日も前もって知らせてください。関宿にて答礼致したく、その節には仮令関宿にて一両日前より出張となっても良いので、重ねて御出府の節は前文の如く御承知下さい。 ヶ様に老衰致しては、いよいよ御むつかしく存じます。憚り乍ら御推察下さい。
且つ又、今般例年の如く南勢[伊勢神宮]へ御代参の御人を御立て成られ、憚り乍ら毎年の事、よくも御志神の段は筆紙に尽し難く存じます。 私共は太神の近くに住んでいるとは申し乍ら、なかなか以て三年に一度も参詣していません。 何事もまた永日申し上げます、恐惶謹言。

正月七日
   佐藤兵衛

三俣惣太夫様
     几下

【解】
佐藤謙之介改め佐藤兵衛、すでに家督を譲り隠居の身であるらしい。老衰が進み歩行も出来兼ねる有様を伝えている。 そのことを敢えて伝えているのは、生きている内にどうしても三俣義陳と会って話しがしたかった為だろう。 しかし、この面会は叶わなかった、三俣義陳に出府の機が訪れないまゝ翌年7月9日に病死してしまうからだ。

佐藤謙之介 9月9日「御無沙汰の御詫び」

去ル七月二日御認之貴札同月
廿七日相達忝拝見仕候如仰之残
暑稠御座候得共先以御家内様被
成御揃愈御壮堅被成御座候段珍重
奉存候次ニ 當方無異ニ勤務仕候間
乍憚御安意可被下候、然者御子息様ニも
當六月十九日都合能御帰國茂被成
目出度御事ニ奉存候乍併右御帰國之
頃より余程之御病証ニ而尤御發熱等も
不少之旨被仰下扨々驚入奉存候
右ニ付早速ニも御見舞之愚書送り
可得貴意筈之処其節者流義用ニ而
遠方へ罷越十日斗も留守ニ而御座■
心外御無沙汰仕打過申候就而者
帰宅後御尋も可仕筈ニ候へ共右帰
宅間もなく伊州へ流用ニ而永く
参り居候ニ付彼是御見舞茂延引
仕候乍併此節秋冷ニも相趣候処に而
御座候得共追々御全快ニも御趣
被成候哉何分遠路之事故如何
御様子難斗心配仕候況ヤ尊公様ニも
一端之処ニ而者定而御心配不少与
遠察仕候猶此節之所ニ而者御様子
是又如何御座候哉乍御面倒為御聞
可被下候様奉存候先者乍延引
御見舞旁々猶随分御養生可被成様
奉存候恐惶謹言

九月九日
   佐藤謙之介
     秀堅 (判)

三俣惣太夫様

尚々乍憚御家内様方へも
宜被仰下候様奉頼候已上

【解】
 三俣義陳の息子が江戸より帰国してから病気にかゝったので、佐藤秀堅は御見舞すべきところ流義の用事が立て込み出来なかった。これを詫び、且つ病状を気遣ったのが本書簡である。
 注目すべきは「流義用ニ而遠方へ罷越十日斗も留守」「伊州へ流用ニ而永く参り居候」の文言、これによって佐藤秀堅は不易流炮術の用事が他所でもあったのだと知れる。おそらくは『三俣家文書』の中に関連する史料があるように思われるが、未だ調べが行き届かず、この件は後に加筆する。

佐藤謙之介 9月7日「新工夫の車臺」

[裏書]
車臺之事


一筆啓上仕候秋冷甚敷候得共
先以其御地御家内様ニ茂被成御揃
愈御壮栄ニ可被成御座珍重奉賀寿候
次ニ            此方
無異儀有罷候間乍憚御休意可被下候
誠ニ以當春よりも毎々御書中も被下
千万忝奉存候、夫々及御答可申筈
之処當春迄より兎角不快ニて不得
止御無沙汰仕候、右之段大ニ失敬仕候
扨於御地ニ御門下衆へも段々御出精
之由被仰下御同前ニ大慶至極ニ奉存候
定而追々御傳授事も御免し可被成候事と
奉遠察候、且亦當夏被仰下候
頓速臺ヲ以石火矢仕掛之義も
兼而御咄し承り候、前々より御試ミ打形
抔とも又御違候様之新ニ御工夫之由
被仰下候委細承知仕候、随分面白キ
御工夫可成ト奉存候、扨夫ニ付此方ニても
色々相考候処已前よりも其打形之
工夫ハ御座候へ共何分私共之薄キ
修行殊ニ以愚安[案]之考ニてハ格
別自由成打形勿論壱両人ニして大炮ヲ
手強く打出し尤其進退左右共
手早く自由之打形之考等も何
卒仕候而実ニ間ニ合候程之事ヲ考
可申候与當春より色々相考
居候処漸く私心底之七八分通者考
仕申候甚以右等之義ヲ御咄し申ニも
如何敷御座候得共

一 百目玉石火矢筒重サ拾六七貫目
之筒ヲ以たとへ五丁より十丁又ハ
迄ハ自由ニ打其筒之下り等ハ
先五十匁込ニて凡堅地ニて壱間半
或ハ弐間右等之処ニて留申候勿論
進退左右ハ自由ニて右之筒ヲかた
手ニて臺尻ヲ持少し押セハ向へ
何程成共参り申候、又左右も同
前ニて候是ハ車仕掛ニて御座候

一 右同前之仕掛臺ニ而三百目玉之
石火矢筒重サ七八十貫目猶且
臺ともニハ百十貫目斗御座候
ヲ以薬ハ百目込より百五十匁込
迄打申候処初ニ五十之幕者
二放いたし候所壱ツハ幕入ニて壱ツハ
幕より六間斗も下り申候尤筒ハ
とんと不動百目筒抔トハ違
格別重キ事ゆへニ漸く二三尺
斗之下りニて留り申候、右之
大玉筒抔も両人ニして自由ニ打出し
玉込之早キ事小筒之早打
ニも格別不劣事と奉存候たとへ
五百目玉ニて貫目玉之大炮ト云へトモ
右之打形其筒臺之仕様ヲ以
打候とも少しも骨折レ不申候
夫ゆへ大ニ一流歓申事ニ御座候尤
土臺仕掛ニて石火矢ヲ打ニ大ニ玉着
之善悪御座候、則右之臺ハ存外
玉着あらからす随分幕入も
多く出来候程之事と打覚
申候、扨前々より頓速臺等多
御座候へ共其筒ヲ打候へハ兎
角臺より筒ハ飛落チ候故
二之玉ヲ又候其臺へ仕掛候事ニ付
彼是以込ニも手間入たとへ手間
入不申共不自由ニて則百目之凡
十貫余之筒ニ而候ハゝ二人も三人も
掛り候而打出し不申候ハゝ格
別手間入申候、右申通り舩打申候
臺ハ前文之如く百目弐百目
玉之弐拾貫初三四十貫之筒ト
申候へ共壱人ニして込事も早く
打出ス事も早く進退も心之
まゝニ出来申候、尊公様之御工夫
ニて新ニハ試ミ可被成義も至極面
白ク御座候へ共私義ハ十貫目
や弐十貫目位之筒ニ三人も四人も
人之掛り候ヲおしみ申候思ニ
色々ヶ様之事共ヲ考試ミ
申候乍併右申通り之事ニて
候へ共猶十分之物が八九分迄ハ
出来候へ共又候今一分之所ヲ折
々考申事ニ御座候随分々々
御考千一ニ奉存候

一 兼而國友へ御注文之三十目筒之
出来仕候事も被仰下委細承知仕候
随分々々強薬弱薬抔も重々御試
可被成候先々三十匁筒ニて上薬之十三四
ヲ慥ニハ打被成候ハゝ造玉ヲ込薬ヲ
増筒之浮雲ナキ様ニ是又御試ミ可被成候
左も無之ニ而者其業ニ仍而遠間丈夫之打手トハ
不被申、兎角実用のミヲ御考
御修行可被成よふ千一ニ奉存候

一 百目玉之石火矢ニて巣中壱尺弐寸五分
筒之重サ十五貫七百目尤上々製之
金アジ[味]ヲ工夫いたし漸く當四月
八日ニ鋳造仕五月下旬ニ出来いたし
濱邊へ為持参り右之筒ニ一音
上々製之強薬ヲ七十匁込三[不易流暗号の三]玉ヲ
堅く打込筒ねかしいたし候所
無難ニて御座候ゆへ日々楽ミ居申候
且亦鋳筒ヲ鋳立之時其全ツキ[継]
よふ之見様もちとゝゝ覚申候而
初而鋳造いたし申候尤鋳師も同
前ニ骨折不申斗之事ニて候、右之
鋳師ハ外之鋳物ハ殊之外宜
御座候へ共鉄炮鋳立之事ハ此度
初而ニて候故當方より傳授ニ及申事ニ
御座候右等之義も一寸御咄し申上候
扨物事ハ心ニ思ふ三ヶ一ならてハ出来不申上
候へ共又其内ニハ思ふ九分迄ハ出来候
事もまゝ有之物ニて兎角色々
御考御試ミ可被成候まつ一方之考出来
候てハ試ミ被成則ハ心之程ヲ御手ニて
出来候ハゝ又一方之御工夫ヲ可被成候
併心ニハ余程思候而も次第ニ年寄候而ハ
考ハ出来候而も手之不自由ニハ扨々
困り入申候、先右等之義ハ扨置
鉄砲役共其外御心易ク相成候者共より
宜申上候様頼参り候間左様御承
知可被下候先者余り御無沙
汰ニ及候ニ付御尋旁々愚札
ヲ以為可得貴意如此御座候
恐惶謹言

   佐藤謙之介
      秀 (判)

九月七日

三俣惣之進様

猶々乍憚御家内様へも宜
被仰上可被下候様奉頼候已上

【解】
 車臺というものは大筒の運用効率を上げるために車臺と組み合わせたもので、姫路藩中の炮術諸流派が工夫を凝らしていた。
 安政5年4月18日大日河原に於いて行われた合同軍事演習では、「自得流:■臺 荻野流:行軍臺 井上流:双輪車 武衛流:三輪臺 不易流:応変臺 井上流:神機車」などの名が挙げられている。これは前年の大炮合一の命を受けてのものだが、各流銘々で工夫を凝らしている様子は、合一とは程遠い流派の在り様を表わしている。

佐藤謙之介 12月11日「節季礼状」

貴札忝拝見仕候如
尊命之甚寒之節ニ候得共
被成御揃愈御壮栄可被
成御勤精珍重之御義
奉存候次ニ  當方
無異儀罷在候間乍憚
御休意可被下候先者寒中
御見舞御答迄如此御座候恐惶
謹言

十二月十一日
   佐藤謙之介
      秀

三俣惣太夫様
   人々御中

猶々時候御見舞与して家族共へも
被為入御念千万忝奉存候、猶
御家内様方へも宜被仰上
可被下候以上

封紙

[封紙表]
播州姫路御家中 勢州津
三俣惣太夫様  佐藤謙之介
  流義用書

[封紙裏]
  二月廿九日出ス

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