(c) 2014-2017 武術史料拾遺 All rights reserved.

八代 石川光實 1802−1873 仙臺藩士 五流師範

姓 藤原 氏 石川 通称 八太郎/謙蔵/半平 諱 光實 ミツザネ 號 旭齋
父 仙臺藩士 石川龍之助光則
母 同藩士 豊島長之丞の嫡女 織江
親類 眞影山流正統九世 沼澤一郎左衛門/真極流柔術師範 豊島長之丞

大番士(御廣間)、進退御切米壱両壱歩銀六匁四分御扶持方三人分、但直し高貮貫百貮拾六匁。晩年は御奥方目付を勤め勤仕中八拾石(御省略中ゆえ弐拾石減少)の御役料を下される。
瀧本流書法を朴澤九左衛門に学び皆傳、真影山流居合を高橋善太夫に学び皆傳、渋谷流釼術を丹波柏原藩の士 中川小左衛門に学び免許、種田流槍術を西城運之進に学び免許、運之進歿後は米山佑三郎に学び印可、真極流柔術を父龍之助に学び免許、傳落の分あり追々山崎源太左衛門に学び免許、鈴鹿流薙刀を江馬律之輔に学び目録、中臣流手裏剣を遠藤伊豆介に学び印可、また香取流吹針を同人に学び目録を傳授された。
瀧本流書法・真影山流居合・渋谷流釼術・種田流槍術・真極流柔術、五流を家中の士へ指南し、御覧・御見分度々あり褒美を下された。日々出席の門弟は嘉永7年時150人程、文久元年時100人程と記録されている。
十一代伊達斉義公、十二代伊達斉邦公、十三代伊達慶邦公、十四代伊達宗基公に仕え、都合四十七年の御奉公。
掲載史料及び参考資料
『石川光實記録』個人蔵
『石川家系統譜』個人蔵
『石川家系図』個人蔵
『中臣流手裏釼伝書』個人蔵

* 石川光實は、師である真影山流居合正統十世 高橋善太夫の代りに丹波柏原へ流義のことを尋ねに行き、且つ正統九世 沼澤一郎左衛門の親類でもありました。 ゆえに、石川光實が真影山流居合正統十一世を継承したのではないかと推量しています。しかし、なにぶん該当する史料がなく確かめられていません。

石川光實年譜

享和2年2月石川龍之助の三男として生れる
文化11年真影山流へ入門 13歳
文政4年3月 傳授江馬律之輔より鈴鹿流薙刀目録相傳 20歳
文政4年10月 傳授西城運之進愛雄より種田流槍術初段目録相傳
文政6年11月 傳授父石川龍之助より真極流柔術免許相傳
文政7年1月11日 傳授遠藤伊豆介より中臣流手裏釼印可相傳
文政7年1月〜6月3日師命によって、真影山流居合傳談のため丹波柏原藩の同流師家 久下久助を尋ねる。しかし久助は先年病死し流義は絶傳とのこと。遠国まで来て空しく帰国することは不本意につき、二刀の流義 渋谷流釼術の師家 中川小左衛門に随身し免許を傳授される。6月3日帰国。23歳
文政7年9月26日養賢堂槍術諸士主立仮役
文政8年養賢堂槍術諸士主立(本役)
文政8年6月 傳授西城運之進愛雄より種田流槍術目録相傳
文政8年11月12日 傳授父石川龍之助より心極流柔術免許相傳
文政8年11月29日幼名八太郎を謙蔵と改める
文政9年3月11日養賢堂書学諸生扱
文政9年10月28日 跡式父石川龍之助願いの通り隠居、跡式進退相違無く下される。進退御切米壱両壱歩銀六匁四分御扶持方三人分、但直し高貮貫百貮拾六匁。25歳
文政9年11月28日目録献上、御目見
文政11年2月15日 御見分若老衆の御見分につき、真影山流居合・心極流柔術門弟共を召し連れ罷り出で、滞り無く済む。
文政11年4月6日本役同然御徒目付仮役
文政11年5月20日御目見
文政11年5月23日御徒目付仮役除
文政11年6月3日本役同然御徒目付仮役
文政12年1月 傳授高橋善太夫影次より真影山流居合皆傳
文政12年4月22日御徒目付仮役除
文政12年7月29日養賢堂御締役仮役
文政12年9月20日養賢堂御締役仮役除
文政13年文政九年より自費にて真影山流居合を稽古し免許も相傳され、その上一日千本入身まで執行し、兼ねて指南取扱も出精、藝道に志厚く一段との思召によって褒美として縞紬一反を下される。
文政13年閏3 傳授月朴澤九左衛門行澄より瀧本流書法皆傳
文政13年閏3月15日養賢堂書学指南見習仮役
文政13年7月18日養賢堂書学指南役仮役
天保2年3月28日養賢堂書学指南役
天保3年4月 傳授西城運之進愛雄より種田流槍術免許相傳
天保3年8月15日養賢堂御締役
天保3年閏11月26日養賢堂槍術諸生扱
天保5年2月12日 御見分若老衆の御見分につき、真影山流居合・心極流柔術門弟共を召し連れ罷り出で、滞り無く済む。
天保5年4月18日 御覧御覧につき、御城柳之間へ真影山流居合・心極流柔術門弟共を召し連れ罷り出で、滞り無く済む。御熨斗拝領、御目見。
天保5年5月21日 御見分御見分につき、渋谷流釼術門弟共を召し連れ罷り出で、滞り無く済む。
天保6年6月16日養賢堂槍術諸生扱除
天保7年6月5日 御見分若老衆の御見分につき、真影山流居合・心極流柔術門弟共を召し連れ罷り出で、滞り無く済む。
天保7年9月26日本役同然御徒目付役
天保8年7月15日御徒目付役
天保9年1月14日江戸御留守居番を命ぜられる
天保9年4月15日國元發足、4月22日江戸着
天保10年9月12日番明にて江戸發足、10月1日帰国
天保11年3月 傳授米山佑三郎より種田流槍術印可相傳
天保11年8月1日生駒鍬五郎領分 矢嶋において敵討あり、追手の三人を引き受けるよう命ぜられ、御小人御足軽召し連れ同月4日發足。同9日矢嶋着、同11日同所出立、同17日国許へ着、三人を御町奉行仮役へ引き渡す。
天保11年10月22日矢嶋の一件、御用落不調法にて御役御召放閉門となる。
天保12年3月21日閉門御免、御城番支配を命ぜられる。笠原内記組、御番所御廣間。40歳
天保15年6月4日別段の御吟味を以て御城番支配御免
弘化3年7月8日 御覧御覧につき、御城柳之間へ真影山流居合・心極流柔術門弟共を召し連れ罷り出で、滞り無く済む。御熨斗拝領、御目見。
弘化3年3月14日醫学校所御目付仮役
弘化3年5月4日醫学校所御目付仮役除 弘化5年3月19日出精の褒美として金五十疋を下される。
弘化4年8月20日 傳授山崎源太左衛門より真極流柔術目録相傳
弘化5年2月6日より御城當番
弘化5年4月28日鈴木俊之助の次男 直之進を聟養子とする
嘉永1年8月4日 傳授山崎源太左衛門より真極流柔術免許相傳 47歳
嘉永2年3月12日より御城當番
嘉永2年3月3日南部信濃守の家中 鹿角巴という釼術修行者来り、出會を望むため断ったところ、内々の出會ならばと更に望むため出會。路用も尽きたということで一宿させる。
嘉永2年3月14日先日の鹿角巴が南町において松平薩摩守の家中へ疵を負わせ逃走する。修行帳に謙蔵と門弟の名あり。謙蔵、検使の御糺しの節、不調法あり。
嘉永2年10月10日鹿角巴の件につき、伺いもせず取り計らい出會、路用が尽きたということで一宿させ、修業帳に門弟共々認めたこと不届きの至り、慎みを命ぜられる。
嘉永3年11月14日 御覧御覧につき、御城柳之間へ真影山流居合・渋谷流釼術・心極流柔術門弟共を召し連れ罷り出で、滞り無く済む。御目見。
嘉永6年2月15日養子直之進病身につき親元へ返す
嘉永6年5月18日小野惣右衛門の弟 惣之助貮拾壱歳を聟養子とする
嘉永6年12月20日浦賀表異國舩渡来につき御備御人数として江戸・他国へ出張の準備を命ぜられる。但、海岸方四之手御他領御加勢二之手御備御帳付。52歳
嘉永7年1月16日出張御人数一同御目見
嘉永7年8月1日御座敷番
嘉永7年8月4〜13日御城當番初手泊り 4日暮に當番人出揃いのところ屋形様が入らせられ當番人の藝道等品々を尋ねられる。5日脇番頭へ渋谷流釼術相傳の由来を指し出したところ、早速に門弟たちを書き上げるよう命ぜられる。日々出席の門弟、瀧本流書70人餘、真影山流居合30人前後、渋谷流釼術20人前後、種田流槍術20人前後、真極流柔術10人程。
嘉永7年12月26日 御覧御覧につき、真影山流居合・渋谷流釼術門弟共を召し連れ罷り出で、滞り無く済む。重き手数まで遣い方一段との思召によって御酒・御吸物を下される。
安政2年1月御城御番組一統、所持の甲冑を御覧に入れる
安政2年3月1日五拾四歳という年齢につき駕籠乗證状を下される
安政3年11月7日より御城當番のところ文武藝道指南のこと御聴に達し、この節寒稽古の指南取扱いの励みのため御城當番方御用引とされる。
安政4年3月23日大番頭と同名(同音異字)につき半平と改める
安政4年8月20日米山佑三郎より種田流槍術印可皆傳
安政4年12月1日講武場御締役
安政5年9月23日講武場にて御小姓武藝見分の節、勝負附等のため急遽罷り出で深切に取扱ったことを賞せられ鼻紙二拾帖を下される。
安政6年4月御城御番組一統、所持の甲冑を御覧に入れる
安政6年6月3日 御覧御城柳之間において真影山流居合・渋谷流釼術・種田流槍術・心極流柔術、御覧。
万延2年3月9日御城當番のところ重き風邪にて御用引
万延2年4月14日御道具方横目仮役
文久1年8月25日 御覧山崎駿河門弟御覧につき、罷り出で心極流柔術取方を御覧に入れたところ、老年迄修業し藝道に志厚きこと一段との思召によって御酒・御吸物を下される。同日、筆道并武藝共傳授人・出席の人数を書き上げるよう命ぜられる。日々出席の門弟、瀧本流書50人餘、真影山流居合20人前後、渋谷流釼術20人前後、種田流槍術10人前後、真極流柔術無し。
文久1年10月8日御道具方横目本役同然 同9日御役所山中火薬調合所へ早速罷り出で、同10日同役と交代する。翌年2月15日同役と交代
文久2年3月23日 御覧真影山流居合・渋谷流釼術、御覧。後日、老年迄門弟共深切に取扱い、殊に諸流指南も仕り、藝道に志厚きこと一段との思召によって御酒・御吸物を下される。
文久2年6月13日御器具奉行より山中出村のこと順々に命ぜられる。同17日交代。
文久2年閏8月7日御奥方目付 但、勤仕中八拾石(御省略中ゆえ弐拾石減少)御役料下される。江戸定詰を命ぜられ、同所詰の輩の武藝取扱引切を命ぜられる。當月中出立とのこと。61歳
文久2年9月14日定詰并登共々御免
文久3年8月11日御道具方横目浅布御屋敷役兼役
元治2年2月26日 御覧御覧につき、真影山流居合・渋谷流釼術門弟共を召し連れ罷り出で、滞り無く済む。後日、老年迄門弟共深切に取扱い、兼ねて藝道に志厚きこと一段との思召によって縞紬を下される。
慶應2年4月29日高城寒風澤御石改役に轉役
慶應3年5月16日御奥方目付 但、勤仕中八拾石(御省略中ゆえ弐拾石減少)御役料下される。66歳
慶應3年8月12日養子重松、北越探索方にて復命の折り御不興を蒙り召放閉門を命ぜられる。石川半平、御格の通り遠慮。
明治2年11月12日御奥方目付廃されるにつき御役御免 68歳
明治2年12月10日縁者にて医員無役 渡部玄周へ屋敷を譲る
明治3年2月19日老衰につき願いの通り隠居を許され、跡式御扶助玄米六拾俵を聟養子重松三拾八歳へ下される。
明治6年6月7日世寿七十二歳にして歿する

真影山流居合傳談と渋谷流釼術導入の経緯

文政六年、仙臺藩士 石川龍之助の子 八太郎は、丹波柏原へ旅をします。目的は真影山流の師範を尋ね、傳書を引き合わせ、流義の傳落を埋め、且つ流義の筋を糺すことにありました。 ところが柏原に着いてみると、目当ての師範はすでに病死し、流義は絶傳したとのこと。この話しのなかで、八太郎は二刀の流義 渋谷流釼術の存在を聞いたようで、同流の師範を尋ね事情を話し、特別の好意によって指南免許まで相傳され帰国の途につきました。

あらましはこの通りであります。旅をした当人の記録が残されており、その中には旅をした当時の文書の控と、三十年後の下問に答えた文書の控が収録されています。子細なことが分りますので、こゝに掲げます。なお、上の系図の石川謙蔵というのが八太郎です。

      文政六年分

一 拙者儀嗣子同氏八太郎儀来正月より同十二月迄
  壱ヶ年丹波柏原へ御暇被成下度奉願候右
  八太郎義高橋善太夫門人にて真影山流居合稽古
  仕候処師命に付當流師家織田出雲守様御家中
  久下久助方へ罷越傳談為仕度奉存候右流義
  の儀は丹波の住影山善賀入道清重より相始り後年
  関口武左衛門と申浪士御當國へ罷下り指南仕候処
  同人甥関口七郎左衛門へ皆傳仕右七郎左衛門より沼澤
  一郎左衛門へ相伝夫より高橋善太夫と相傳仕候へとも右
  流附屬の六術の内傳落仕候処も有之且流義枝
  葉も相出本末の間も不正候間彼是此度為相登
  奥義太刀数遣方の間迄精緻に傳談為仕度奉存候
  尤傳授行違等も候はゝ何分相糺秘術不相傳所も候はゝ
  於同所に修行仕秘傳不残皆傳仕末〃御用に立候様
  仕度奉存候尤師家善太夫義可罷登義に御座候へ共
  病氣に付名代御奉公申上罷在候に付為名代八太郎
  罷登候様師命に付如是に御座候右八太郎義文化
  十一年より當年迄拾ヶ年引續失歟と修行仕傳授
  相済罷在申候に付如是に奉願候尤自分入料を以罷
  登り申度候間御格の通催合被仰下候様仕度
  奉存候御憐愍を以如願の御暇被成下候様奉存候
  拙者儀進退御切米壱両壱歩銀六匁四分御扶持
  方三人分に御座候已上
                石川龍之助
   文政六年十一月十五日
       大隅殿


一 御手前嗣子同氏八太郎儀高橋善太夫門弟にて
  真影山流居合稽古相済居候処右善太夫
  沼澤一郎左衛門方より傳来に候処流義附屬の内
  傳落有之其他折入為傳談の師家罷登り置候
  難病氣に付右八太郎に罷下り傳来仕候様申聞候間
  同人義流義は師織田出雲守殿御家中丹波柏原
  久下久助方へ来正月より同十二月迄壱ヶ年御暇
  被下置度由願指出置候処如願の御暇被下置候条
  其心得可被申候以上
    尚以御格の通催合被仰下候義も相願候処宜被仰下候
    条其心得可被申候以上

 右の通同月廿八日大隅殿御宅にて被仰渡候事


      同七年分

一 拙者儀嗣子同氏八太郎儀真影山流師家丹波柏原
  織田出雲守様御家中久下久助方へ為傳談の罷登
  度旨去年十一月御暇願申上同月廿八日如願の御暇
  被成下旨被仰渡候に付来る廿八日發足仕候間箱根
  其外所〃上下弐人被相連御通判被仰下候様仕度
  此段相達申候以上
    正月十八日        石川龍之助
   右の通相達通判大隅殿より被相渡候事


一 拙者儀嗣子同氏八太郎儀高橋善太夫門人にて真影山流
  居合稽古免許已上に御座候処師命に付御暇願申上
  丹刕柏原織田出雲守様御家中久下久助相尋罷登
  柏原にて右久助相尋候処相知不申候同御藩中中川
  小左衛門と申者渋谷流釼術指南仕尤二刀の流義の由
  承り申候間右小左衛門方へ罷越早〃承り合申せ候処
  相尋候流義は絶傳に罷成候由同人申聞候に付
  遠國迄罷登り徒に歸國仕候も不本意の事に有
  之幸渋谷流の義は御國元にて不承九流義に
  御座候間直に右小左衛門へ随身渋谷流稽古仕
  免許相受罷下り昨三日着仕候間御暇返上
  仕度此段相達申候以上
    六月四日         石川龍之助
      嘉永七年分

一 八月四日より同十三日迄
  御城當番初手泊りに付相勤候事

  右當番四日暮出當番出揃候に付
  屋形様御間所へ被為
  入當番人藝道等品〃御尋の上脇番頭
  岡本清音を以先年修行に相出候節の儀
  道中筋の儀等相達候処
  御意に付翌日左に相達候事

一 真影山流居合の儀は常州瀧ヶ崎の産
  關口武左衛門と申者御国許へ罷越指南
  仕候より相傳り候流義に御座候処近年傳談
  等仕度義も候はゝ水戸様御藩中へ
  極意の傳書同筆にて残し置候間流義
  紛乱の事も候はゝ罷登傳書引合可申尤
  流義元祖影山善賀入道清重生國は
  丹波八木の産の由申傳候に付同所にも
  右流可有之候間流義執心の者相出候はゝ
  罷登相尋傳書引合置可申候申置候由に付
  師匠高橋善太夫義罷登度心懸罷在候
  得共病身に罷成候に付拙者儀為修行罷登候
  様兼〃談し御座候間罷登度心懸罷在申候
  然に安房殿内滝川河内と申陰陽師陰陽
  道にて諸國偏歴中丹刕柏原織田出雲守
  様御藩中久下久助と申者真影山流指南
  仕居候を見候由咄候に付折入承り申候処手数
  遣方入身構等迄同流に相違無之様子に候間
  右の趣師匠善太夫へ為申聞候処元祖生国と云
  關口武左衛門申置候事も候間定て同流師家に
  可有之候間罷登傳書引合傳落等も候はゝ随身
  稽古仕傳来仕候様右善太夫談に付文政六年十一月
  御暇願申上如願御暇被成下候に付同七年正月
  丹波柏原へ罷登右久助相尋申候処久助義は
  先年病死流義及絶傳候由に付尚委敷
  相尋申候処中川小左衛門と申者渋谷流と申
  二刀の流義指南罷在候由に付遠國迄罷登
  相尋候流義絶傳仕候上徒に罷下り候も本意に
  無御座候渋谷流と申釼術御國元にて承り
  不申候流義に御座候間随身稽古仕傳来
  相受候はゝ空敷罷下り候には相増可申と勘
  弁仕右小左衛門相尋委細に咄随身仕候自然
  其節の出雲守様には御老躰にて多年
  の勤功に付紅裏御免御詰所御昇進
  被成置候節於 営中
  英山様御手厚に御世話御取扱被遊候義
  有之由出雲守様御帰殿の上今日於
  営中奥刕様御手厚に御取扱被成下為夫か
  営中の都合甚宜敷小身の家等へ御懇意
  の世話被成下候義身に餘り難有事に覚候
  右の御恩其方共迄も難有奉存候旨御意
  有之候由右小左衛門申聞其節迄は出雲守様
  御藩中にて加州様薩刕様とは申候得共
  仙臺様と申上候者無之一統 太守様と斗
  唱上候由右様の所に御座候間拙者儀相尋候
  に付ても聊疎意無之取扱已に一流傳授
  相済候上の儀別て修行仕候には及不申候間
  流義手数趣意さへ心得仕候はゝ傳授仕候由
  永〃外邦に相出居候は不宜事に候間帰国の上
  流義の趣意不相失様工夫修行可仕由
  品〃教訓の上免許傳授仕當方は小家
  の儀にて失歟と藝道へ取懸り居候者も無之
  絶傳等の儀も難斗候處御大藩へ
  流義相傳候上は絶傳等の心遣無之本快
  不過候由にて何分廣く指南仕候様呉〃被
  申談候に付傳来相済候上は永〃滞留
  可仕筋に無御座候間直に同所出立六月中
  帰宅仕候然に右道中筋にて御高名の輩
  相尋候所も無御座候遠刕掛川在に匂坂
  浅右衛門と申者槍術の師西城運之進偏
  歴中の門人の由にて同人より添書御座候に付
  相尋申候処右浅右衛門忰卯兵衛義其節
  直新陰流釼術達人の由に付二三日
  逗留中遣合申候処相應の遣人に候へ共
  達人と申唱候程には無御座候右の外仕合
  等仕候義無御座候其節は拙者儀
  弐拾三歳の時分に御座候処當五拾三歳に
  罷成三拾年前の事に御座候拙者儀
  御番所御廣間進退御切米壱両壱歩
  銀六匁四分御扶持方三人分に御座候
  已上
   八月五日       石川謙蔵

  右の通出勤の上脇番頭岡本清音へ
  指出候処右同人直に奥へ持参相達候処平日
  取扱の門人日〃出席并傳受已上の者等
  流義を分早速書出候様に
  仰出候間書出候様右清音より被申談候に付
  左に書出候事

原文のまゝでは読みづらいと思い、若干現代風に書き改めたものを下記に掲げて置きます。詳細な嘉永七年の分です。当時の文躰を元にしていますから、文の組み立てがおかしいのはご容赦。要は、旅をした石川謙蔵本人が、三十年前の武藝に関する話をしています。

【訳】
一真影山流居合は、常州瀧ヶ崎の産 關口武左衛門という者が御国許へ来て指南してより傳った流義です。
近年、流義に紛乱の事もあり、傳談したいこともあるという状況でした。
水戸様の御藩中へ極意の傳書同筆[自筆のことか]にて残されているので、尋ねに行き傳書を引き合わせたいと思っていました。
それに流義の元祖 影山善賀入道清重の生国は丹波八木と傳えれており、同所にも流義が伝承しているのではないか、流義に執心の者がいれば尋ねに行き傳書を引き合わせたい思っていました。
師匠 高橋善太夫が尋ねに行こうと思っていたのですが病身に成ってしまい、拙者が代わりに修行のため尋ねに行こうと、兼〃話しておりました。
そんなところに、安房殿の内 滝川河内という陰陽師が、陰陽道にて諸国を偏歴中、丹波柏原 織田出雲守様の御藩中で久下久助という者が真影山流を指南
しているのを見たと咄しますので、折り入って話しを聞いたところ、手数・遣方・入身・構えなどまで同流に相違無い様子でした。このことを師匠 善太夫へ聞かせたところ、元祖の生国と云い關口武左衛門が伝えたこともあり、定めし同流の師家であろう、尋ねに行き傳書を引き合わせて、傳落等もあれば随身して稽古し傳来するように、と師 善太夫が話しました。
文政六年十一月、藩に御暇を願ったところその通り御暇を下されたので、同七年正月、丹波柏原へ行き陰陽師に聞いた久下久助を尋ねました。ところが、久下久助は先年病死し流義は絶傳したとのこと。さらに詳しく尋ねてみると、中川小左衛門という者が渋谷流という二刀の流義を指南しているとのこと。せっかく遠國まで来て、尋ねた流義が絶傳している上、徒らに帰国するのも本意ではない。渋谷流という釼術は御国元では聞かない流義だから随身し稽古して傳来を承ければ、空しく帰国するよりは増しと勘弁し、その中川小左衛門を尋ねくわしく事情を咄し、随身しました。

そのころの織田出雲守様[織田信憑公]のことです。御老躰にて、多年の勤功によって紅裏御免・御詰所に御昇進なされていましたとき、営中において英山様[伊達斉宗公]より御手厚に御世話され御取扱い遊ばされたとのこと、出雲守様が御帰殿の上、その営中での出来事を家臣に話しました。
奥州様が御手厚に御取扱いなされ、その御蔭で営中の都合甚だ宜しく、小身の家[織田家]などへ御懇意の世話をなさってくれるのは身に餘る有りがたきことだと思う。この御恩を、その方共までも有り難く思うように、と御意があったとのこと。中川小左衛門の話しです。
そのころの織田出雲守様の御藩中では、加州様・薩州様とは言いましたが、仙臺様と言う者は無く、皆が太守様とばかり唱えていたそうです。
このような所ですから、拙者が尋ねたときも、いさゝかも疎意無く取り扱われ、且つすでに拙者は一流の傳授が済んでいましたから、特別に修行するには及ばず、流義の手数・趣意さえ心得られゝば傳授するとのことでした。中川小左衛門が云うには、長々と他藩に居ては宜しくないでしょうから、帰国の上流義の趣意を失わないよう工夫し修行するようにとのこと。このほか種々教訓の上、免許を傳授されました。また中川小左衛門が、当方は小藩だからしっかと藝道へ取り組む者が居らず、絶傳等の恐れもあったところ、御大藩へ流義が傳われば絶傳等の心遣いも無くなり本快これに過ぎず、なにぶん広く指南するようにと、呉々云いました。
傳来が済んだ以上、長々と滞留する筋ではないので、拙者は直ぐに同所を出立し六月中に帰宅しました。

その帰国の道中で、高名の輩を尋ねたということもありませんでした。遠州掛川に匂坂浅右衛門という者が在り、拙者の槍術の師 西城運之進が偏歴中の門人とのことで、師の添書もあったので尋ねたところ、その匂坂浅右衛門の忰 卯兵衛が直新陰流釼術の達人とのことでした。それで二,三日逗留して遣い合ったところ、噂相応の遣人ではありましたが、達人と称するほどではありませんでした。この外に仕合等はしていません。
そのころの拙者は弐拾三歳の時分で、今は五拾三歳に成りましたから、三拾年も前の事です。

中川小左衛門より傳授された渋谷流釼術の傳書は現存しています。立派な装幀からは、当時の仙臺藩への好意が感じられます。

中臣流手裏釼と香取流吹針






石川光實が丹波柏原へと旅立つ直前のこと、遠藤伊豆介より中臣流手裏釼の印可を相傳されます。遠藤伊豆介は同藩の大番士にして俳人として知られた人で、手裏釼の流派を開いたことは知られていません。中臣とは伊豆介の旧姓にて、中臣流手裏釼と云いました。この流義が知られなかった理由は、おそらく伝書中に書かれてる此の記述です。曰く「人前にてなぐさみには一本も打べからず、名を発するが油断なり、あの人手裏釼打などゝ云われては人用心をなすなり、人に何とも知られぬが秘事云々也、人に知られざるを以上手とす、人に業を見せぬが傳授なり」と。
また、伝書の記述によれば、伊豆介は幼少のころ上遠野伊豆の門弟 凌勘右衛門より獨鈷流手裏釼の坐右釼を教わり、後に針を打つ白圭山人より三鈷流を教わり、さらに大槻五郎輔より釼徳流の皮筒手裏を教わりました。一方、石懸正朝と云う武藝者の兵術所(南部大槻領)に五十日ばかり次宿し密かに手裏釼を教わります。しかし、これら諸流はいずれも損多くして益不足なりと、諸流を合交して一家を建立しました。これが中臣流手裏釼です。
石川光實が傳授を承けた当時、伊豆介は六十七歳、光實は二十三歳でありました。あまり門弟をとらなかったものか、記述は丁寧ながら伝書の体裁は整っていません。石川光實を二代目としています。

伊豆介は、ものゝ本に下記のごとく紹介されています。
「性傲岸不屈、多能で鈴鹿流の長刀をよくし、経史を志村五城に学び、書画の筆法は雅淡逸気が紙上に溢れ独自の風格があった。特に俳諧に秀れ遂にこれをもって名をなし、その門下は千人を越した。」『三百藩家臣人名事典』

石川光實関係文書

石川光實記録

石川光實自筆の記録。家督を相続する前年から隠居後までが記録されている。

石川家系統譜

昭和のころに記された石川家の系譜。

石川家系図

石川光實自筆とされる家系図。嘉永2年迄記録されている。

TOP