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四代 星野九門 1835−1916
 熊本縣士族 柔道範士 居合術範士 三藝師範

通称 要太郎 右八郎 金左衛門 角右衛門、諱 實則、号 九門。熊本藩士 星野四郎左衛門實直の長男として生れる、母はマチ。妻は一村鞆負の三女 理歌。
父 四郎左衛門に伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀を学び免許皆伝。新陰流剣術を岐部弥三左衛門・渡邊遊水・岐部太郎に学び免許皆伝。片山流剣術を片山本蔵に学び奥儀の傳を授けらる。寳蔵院流鎗術・大坪流馬術・宇多岳門流炮術などを熊本藩の各師役に学ぶ。
慶應元年(1865)31歳のとき父四郎左衛門の指南方補助の藩命あり、明治3年家督を継ぎ跡師役となる。明治4年廃藩置県により師役を免ぜらるゝも指南を継続する。 明治10年(1877)西南の役では自宅道場が焼失し一時指南が中止されるものゝ明治15年道場を再興、この再興から大正5年2月までに四天流組討3,362名、伯耆流居合539名、揚心流薙刀218名の子弟が入門したと伝えられる。 明治15年(1882)熊本藩の各流武術師範と協議し振武會を設立、柔術・剣術の二道場を建築、縣士続々と入會し武道再興の端緒を開く。後にその会頭となった。 明治21年(1888)周防岩國の伯耆流家元片山本蔵を訪問し奥儀の傳を授けられる。明治26年(1893)三斎流茶道の師範となり武道教授の傍ら教授した。明治29年(1896)武徳會熊本支部設立に伴い振武會はこれに合流する。明治31年(1898)岐部太郎より新陰流免許皆傳。明治32年大日本武徳會総裁 彰仁親王より精錬證を賜る。 明治35年(1902)武道の将来を鑑み維持方法を協定して肥後七流の合併を成立させ、”肥後流躰術”と名称し合併新形十手を制定する。 明治36年(1903)大日本武徳會総裁 貞愛親王より武徳會初の”柔道範士”の称号を授与され、明治43年是もまた武徳會初の”居合術範士”の称号を授与された。大正5年(1916)歿、79歳。
長男 星野龍太が三藝師範を継ぐ。長女は堀内藤太に嫁し、三女は吉田廉太に、四女は青木彛蔵に嫁した。

掲載史料及び参考資料

『肥後熊本藩星野家文書』個人蔵
『肥後武道史』熊本県体育協会編纂 青潮社

星野九門年譜

天保9(1835).11星野如雲の長男として生れる
弘化2(1845).1三藝師役 星野四郎左衛門の門に入る 11歳
嘉永2(1849).1新陰流剣術師範 岐部弥三左衛門の門に入る
嘉永2(1849).4岐部弥三左衛門一明より新陰流剣術目録(猿飛・八組・三學・位詰)相傳
嘉永5.2寳蔵院流松崎流槍術師範 池邊藤平の門に入る
嘉永5.2宇多岳門流炮術師範 畑尾章左衛門の門に入る
嘉永5.3大坪流馬術師範 村松藤八の門に入る
嘉永6(1853).6.1岐部弥三左衛門義明より新陰流剣術目録(八種目)相傳
嘉永7(1854).9.1岐部弥三左衛門義明より新陰流剣術中極意相傳
安政2(1855).3伯耆流居合目録相傳 21歳
安政3(1856).9四天流組討目録相傳
安政3.9揚心流薙刀目録相傳
安政4(1857).2大坪流馬術師範 村松藤八より目録相傳
安政5.3寳蔵院流松崎流槍術継続師範 松原傳右衛門より目録相傳
安政5.5新陰流剣術師範継続 渡辺遊水より目録相傳
安政5.7宇多岳門流炮術継続師範 永嶺雲七より目録相傳
元治1(1864).10伯耆流居合免許皆傳 30歳
慶應1(1865).12父星野四郎左衛門指南方補助の藩命あり、毎年心付として白銀若干を賜る 31歳
慶應2.3四天流組討免許皆傳
慶應2.3揚心流薙刀免許皆傳
明治3.12父星野四郎左衛門退隠、家督相續、同時に父跡師役の藩命あり 36歳
明治4廃藩置縣の際職務を解かる、然れども宅隅の隙地に習武堂を築き子弟を教授し、又同志を集める 37歳
明治10.2熊本城下悉く兵火に罹り自宅道場をも焼失するにより教授中止 43歳
明治10.2熊本戦乱の際第5大隊区第10小区副戸長申し付けらる
明治10.2.17第5大隊区第10小区戸長申し付けらる
明治15.1細川三斎流茶匠師範 市内浄光寺町養徳寺住職 桃井一路の門に入り茶匠を修む
明治15.8再興自宅へ道場を再築し専ら青年を教導継続す「再興以来大正5年2月末迄入門の子弟、四天流組討3,362名、伯耆流居合539名、揚心流薙刀218名、父如雲の門人と明治3-9年迄の入門者名簿は焼失せるに依り人員不明」
明治15.10熊本藩各武術師範と協議し”振武會”を設立、発起人委員となり、柔術・剣術の二道場を建築す、縣士続々入會し武道再興の端緒を開く、後幹事の嘱託あり続いて幹事長となる 48歳
明治15.10熊本縣属拝命
明治16.1振武會道場開場式を執行、当時山縣大将臨場せられたるにより柔道形を演ず
明治19.3熊本縣属のところ非職となる
明治21.7居合師範家元周防岩國片山伯耆守の子孫継続するに依り形及び流儀の意義等調査の為め訪問す、當時の師範 片山本蔵より奥儀の傳を授けられ帰国す 54歳
明治26.11茶匠師範 桃井一路病死につき茶匠師範内人の推薦により師範となり自宅に於て武道教授の傍ら茶匠を教授す、入門者300餘人ありたり
明治29.3.15大日本武徳會地方委員
明治29.12武徳會熊本支部設立により振武會を解き同所柔術道場を武徳會支部武術講習所へ移すに当り地方委員として盡力せり
明治30.9.29大日本武徳會 改良武術研究取締
明治31.4.30大日本武徳會熊本支部常議員
明治31.9熊本陸軍地方幼年学校柔術指南を嘱託せらる
明治31.12新陰流剣術師範継続 岐部太郎より免許皆傳 64歳
明治32.4.26武徳會特別會員に撰定せらる
明治32.5第4回武徳會柔術審判員を嘱託せらる
明治32.12.25四天流組討演武衆中に就てその術の精錬を認められ総裁宮殿下より”精錬證”を賜る 65歳
明治33.5第5回武徳會柔術審判員を嘱託せられ、及び居合・薙刀・棒審判員を嘱託せらる
明治33.12.8大日本武徳會佐賀縣支部 第3回武徳會演武審判
明治34.5第6回武徳會柔術及び第9部(居合・薙刀・棒・槍術)審判員を嘱託せらる
明治34.6.17大日本武徳會熊本支部常議員
明治35.4武道将来を鑑み維持方法を協定し肥後七流合併を企て成立せしめ”肥後流躰術”と名称す、更に合併新形十手を制定せり 68歳
明治35.8.5本會の事業擴張に盡力し今日の隆盛を観るに至る、その功労尠からず依て二等有功章を大日本武徳會総裁殿下より賜る
明治36.5.3大日本武徳會 第8回武徳祭大演武會第9部審判員
明治36.10.11大日本武徳会佐賀縣支部 第6回総会柔術審判員
明治36.10.24大日本武徳會福岡支部 第4回柔術審判委員
明治36.11.19大日本武徳會武術家優遇例の規定及び銓衡委員會の推薦により”柔道教士”の称号を授与せらる
明治36.11.19本會武術家優遇例の規定及び銓衡委員會の推薦により”柔道範士”の称号及び、終身年金25円を大日本武徳會総裁宮殿下より賜る 69歳
明治37.7.8大日本武徳會熊本支部常議員
明治39.4.1明治37.38年戦役の功に依り金80円を賞勲局総裁より賜る
明治39.5.3大日本武徳會 第11回武徳祭大演武會第9部審判員
明治40.1.13門弟等、古稀の祝典を挙行せり
明治40.4.24大日本武徳會熊本支部 武術講習所柔術名誉教師
明治40.5.3大日本武徳會 第12回武徳祭大演武會柔術審判員
明治42.6.4大日本武徳會熊本支部 柔術名誉教授
明治43.3大日本武徳會福岡支部 第10回演武総會柔道審判員
明治43.8.30本會武術家優遇例の規定及び銓衡委員會の推薦により”居合術範士”の称号を総裁宮殿下より賜る 76歳
明治44.5.2大日本武徳 第16回武徳祭大演武會各種武術審判員
明治44.5.4大日本武徳 第16回武徳祭大演武會柔術審判員
大正2.5.4大日本武徳會 第18回武徳祭大演武會各種武術審判員
大正2.5.4大日本武徳會 第18回武徳祭大演武會柔道審判員
大正5.3.3歿 79歳 市外出町 往生院に葬られる
大正10.5.29星野九門翁の建碑除幕式、往生院において挙行せり

平生の嗜みとして

茶匠師範として武道教授の傍ら茶道の教授をなし、尚茶道に用ふる茶杓の調製をなせり。竹を以て作る茶合の新調、是に書画を自在に彫刻せり。
差物(掛軸を入れる箱及家具を入れる小箱)
金物細工
漆器細工
刀剣の鑑定
酒量は極小量なるも、煎茶に至りては人一倍の嗜みあり。
武道に就ての遺書としては別に残りあらざるも、武道に関する座談に対しては何人にても悦んで応対し、問う人の質疑は氷解し満足せられる迄は夜の明るも厭わざるの気質なり。

星野九門関係文書

明治15.1〜仝24.12 四天流組討入門者

明治25.1〜仝34.12 四天流組討入門者

明治35.1〜仝39.12 四天流組討入門者

明治16.1〜仝39.6 伯耆流居合入門者

明治16.1.14 三藝習武所創立趣意書

明治31.12.15 岐部太郎常養 新陰流免翰 星野九門宛

明治32.12.15 三斎公御流御茶道 證文 矢野亀宛

明治32.12.25 大日本武徳會総裁 彰仁親王 其術之精錬ナルヲ證ス 星野九門宛

明治36.11.19 大日本武徳會総裁 貞愛親王 柔道教士ノ稱號ヲ授與ス 星野九門宛

明治36.11.19 大日本武徳會総裁 貞愛親王 柔道範士ノ稱號ヲ授與ス 星野九門宛

第一回柔道範士の称号を授与されたのは、星野九門翁と戸塚英美翁の二名であった。

明治43.8.30 大日本武徳會総裁 貞愛親王 居合術範士ノ稱號ヲ授與ス 星野九門宛

あまり知られていないが初めて居合術範士の称号を授与されたのは誰あろう星野九門翁である。
次いで大正3年8月4日居合術範士となったのが新田宮流の片山高義翁、次いで大正7年9月21日の伯耆流 河野高廣翁、そして大正9年5月の中山博道翁。

明治35.4.20 肥後流躰術協定書

― 協定書
武道ノ将来に鑑ミ今般維持ノ方法ヲ協定スル事左ノ如シ

第一條(イロハ順)揚心流柔術、竹内三統流柔術、扱心流體術、天下無雙流捕手、四天流組討、鹽田流小具足
右七流合併シ肥後流體術と改稱シ形若選定ス
形ノ名稱
一、體ノ先
一、水月
一、蹴上ケ返
一、負投
一、腰投
一、越シ返シ
一、折腰
一、折倒
一、打返シ
ー、脇詰
  但仕手相手卜稱ス
第二條(イロハ順)肥後體術−星野派、仝−除野派、仝−高岡派、仝−野々口派、仝−江口派、仝−山東派ト稱シ各
 派ノ形ハ従来ノ通保存スルモノトス。
第三條 七派合併ニ拘ラズズ従来ノ形保存スル以上ハ各派ノ教師ハ勿論従来ノ儘其派ノ教師タルモノトス
第四條 各派ノ教師ハ場合ニ由レバ其派ノ門弟ト否トニ係ハラズ指導スルコトアルベシ
第五條 各派ハ互ニ私立ヲ去リ親睦ヲ旨トシ藝術眞理ヲ研究シ斯道ノ發達ヲ圖リ兼テ万事ニ應用スルヲカムベシ
第六條 各派ノ門弟ハ互ニ競フテ藝術ヲ練磨スルもちろんナルモ派ト派トノ競争ハ力メヲ避クルモノトス
第七條 肥後流躰術門弟ニハ各派ノ教師協同試験ノ上一二三四ノ等級ヲ附與スルモノトス
第八條 各派入門ノ手続及藝術ノ相傳ハ従来ノ通
第九條 各派ノ門弟ニシテ其派ヲ離レ他派ノ藝術ヲ學ハント欲スル者ハ前教師ノ許可ヲ受クベシ
第十條 前件ノ協定ニシテ万一実施に差支ヲ生ズルトキハ協議ノ上改正加除スル事アルベシ
  協定書七通ヲ製シ各自記名捺印ノ上一通宛保存スルモノトス

明洽三十五年四月

元四天流組討   星野九門
仝流       除野熊雄
元天下無雙流捕手 高岡一太郎
元鹽田院小具足  野々口常人
元竹内三統流柔術 矢野廣次
元扱心流体術   江口彌三
元揚心流柔術   山東清武

星野九門墓碑銘

大正7.2 星野九門墓碑銘

碑は古城貞吉撰、菊池直人書。

大正10.5.29 星野翁の建碑除幕式

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