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三代 星野如雲 1806−1882 熊本藩士 三藝師役

前名 江藤彌内、通称 金左衛門 四郎左衛門、諱 實直。致仕後は如雲と号す。合志郡大津中陣内村の江藤善兵衛直高の四男として生れる。
養父 龍助に伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀を学び免許皆伝。剣術・寳蔵院流鎗術・宇多岳門流炮術などを熊本藩の各師役に学ぶ。

文政11年(1829)星野龍助に入門、天保4年(1833)揚心流薙刀免許皆伝、天保7年伯耆流居合・四天流組討免許皆伝。
天保10年(1839)34歳のとき養父龍助病死、その跡を継ぎ三藝師役となり御擬作高100石、御番方上座となり、安政6年御物頭列(上士)へと進む。
明治3年(1870)老いにより致仕し家禄と師職を子星野九門へ譲る。なお壮健にして門弟を教導した。明治15年(1882)歿、77歳。
長女 千鶴は躰術師範 江口弥左衛門(江口又男の祖父)へ嫁いだ。

掲載史料及び参考資料

『肥後熊本藩星野家文書』私蔵文書
『肥後武道史』熊本県体育協会編纂 青潮社


星野如雲年譜

文化2年(1806)合志郡大津中陣内村の江藤善兵衛直高の四男として生れる
文政3年(1820)4月剣術師範 村上丈右衛門へ入門仕り候 15歳
文政3年(1820)7月宝蔵院流鎗術 杉谷久兵衛へ入門、同5年1月より出榭仕り、杉谷久兵衛病死仕り候につき、跡師役 水足五次郎へ仰せ付けられ直に入門仕り、同10年(1827)2月の頃より中絶仕り候
文政9年(1826)6月剣術三ノ先相傳
文政11年(1828)4月 伯耆流居合 養父 星野龍助へ入門仕り、同年5月より出榭仕り、同年10月中段 代見中より相傳仕り候
四天流組討 養父 星野龍助へ入門仕り、同年5月より出榭仕り、同年10月風身 代見中より相傳仕り候
揚心流薙刀 養父 星野龍助へ入門仕り、同年5月より出榭仕り、同年10月正眼 代見中より相傳仕り候 23歳
文政11年(1828)10月伯耆流居合中段相傳 四天流組討風身相傳 揚心流薙刀正眼相傳
文政12年(1829)1月宇多岳門流炮術師範 畑尾章左衛門の門に入る
文政12年(1829)12月四天流組討空身相傳
文政13年(1830)3月星野龍助の養子となる 25歳
天保1年(1830)4月四天流組討 目録相傳仕り候
天保1年(1830)7月伯耆流居合 目録相傳仕り候
天保1年(1830)9月揚心流薙刀 目録相傳仕り候
天保4年(1833)5月宇多岳門流炮術初目録相傳
天保4年(1833)12月揚心流薙刀免状相傳 28歳
天保6年(1835)10月薙刀・居合・組討・釼術、数年心懸け厚く出精何れも藝術相進み薙刀は免状相済み、且つ炮術も心懸け候段、尊聴に達し候処、心懸け宜しき儀と思し召され候旨、講堂に於いて仰せ出だされ候 30歳
天保7年(1836)3月伯耆流居合 免状相傳仕り候 四天流組討 免状相傳仕り候 剣術師範 財津久左衛門より極意之内一拍子流水二ノ越之打相傳 31歳
天保9年(1838)11月嫡子星野九門生れる 33歳
天保10年(1839)11月4日藝術心懸け宜しきにつき父星野龍助へ下されていた御擬作高(扶持米)100石と家屋敷をそのまま下され、親跡伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀の師役を命ぜられ、御役料米並の通り下され、学校方御奉行に加えられ、御番方の上座となる 34歳
安政6年(1859)三藝の指南多年出精、物頭列仰せ付けられ御擬作高100石地面に直され、九曜章服を賜る 54歳
安政7年(1860)藩主細川家の血筋に連なる一門 長岡内膳が血族・家来共に星野門を離門した一大事件の結末がこの文書である。長岡内膳が権門の立場から横車を押したことに対し、星野四郎左衛門は一歩も譲らず、学校方目付の裁決によって四郎左衛門の意見が認められ長岡内膳一統を離門した。しかし其の後に内膳が非を認めたことから、一旦離門した門弟は引き戻された 55歳
慶応1年(1868)2月嫡子星野金左衛門、三藝抜群出精につき指南方補助を命じられ毎歳銀三枚を下される 63歳
明治3年老いにより致仕し如雲と号す、家禄と師職を子實則へ譲り、退隠したりと雖も弟子の教導に心を注ぐ 65歳
明治4年7月1日学校改正につき星野父子三藝師役を免ぜらる 66歳
明治15年5月31日歿 77歳

星野如雲関係文書

星野如雲口上書 天保9年11月

[上書]
星野四郎左衛門殿 御勘定方 御奉行中

 口上之覚
私儀養父星野龍助代より山鹿湯町江在宅仕居候処、龍助儀天保十年七月病死仕候ニ付、同年十一月家督被仰付、同年同月九日熊本江引出申候、然處是迄右之段御達仕候儀届兼候次第ハ此節御達申上候通ニ御座候、依之奉願候儀恐留奉存候得共、右年限中在宅手取拝領仕居申候間、只今違目丈ケ候後付様奉願候、此段宜被成御達可被下候以上
十二月 星野四郎左衛門

[附紙]
本文手取違目天保十年より去暮迄四ヶ年分都合米弐石只今一同被渡下候以上
正月十三日 御勘定方 御奉行中

正垣七左衛門 天保10年(1839)8月


病死仕り候星野龍助養子星野四郎左衛門稽古附

・居合
文政11(1828).4 養父 星野龍助へ入門
文政11(1828).5 出榭
文政11(1828).10 中段代見中より相傳
天保1(1830).7 目録相傳
天保7(1836).3 免状相傳

・組討
文政11(1828).4 養父 星野龍助へ入門
文政11(1828).5 出榭
文政11(1828).10 風身代見中より相傳
文政12(1829).12 空身相傳
天保1(1830).4 目録相傳
天保7(1836).3 免状相傳

・薙刀
文政11(1828).4 養父 星野龍助へ入門
文政11(1828).5 出榭
文政11(1828).10 正眼代見中より相傳
天保1(1830).9 目録相傳
天保4(1833).12 免状相傳

・釼術
文政3(1820).4 村上丈右衛門へ入門
文政3(1820).6 出榭
文政9(1826).8 三ノ先相傳
 村上丈右衛門病死後は財津久左衛門へ入門
天保7(1836).3 極意之内一拍子流水二ノ越之打相傳

・炮術
文政12(1829).1 畑尾章左衛門へ入門
文政12(1829).2 出榭
天保4(1833).5 初目録相傳
天保4(1833).11 この頃より中絶

・鎗術
文政3(1820).7 杉谷久兵衛へ入門
文政51822).1 出榭
 杉谷久兵衛病死後は跡師役 水足五次郎へ直に入門
文政10(1827).2 この頃より中絶

天保6(1835).10 薙刀・居合・組討・釼術多年心懸厚く出精、いずれも藝術相進み薙刀は免状相済み、且つ炮術も心懸候段、尊聴に達し候処、心懸宜しき儀と思し召さる旨、猶講堂仰せ出だされ候

右の通り御座候以上

八月 正垣七左衛門

後 佐田右平殿
前 稲津久兵衛殿

通達 天保10年11月4日

 星野四郎左衛門
其方儀藝術心懸宜候付、父星野龍助江被下置候御擬作高百石并家屋敷をも其侭被下置、父跡居合組討長刀師役被仰付、御役料米並之通被下置候、学校方御奉行躅被召加旨被仰出候也
 座席御番方之上席被附置候也

星野如雲口上書・奉行所返答 天保10年11月

口上之覚
私養父星野龍助江拝領被仰付候御紋服、別紙之通持傳居申候、恐多奉存候得共私江被遊御免被下候者為冥加、着用仕度奉願候以上
十一月 星野四郎左衛門

[附紙]
父江被下置候九曜御紋附御小袖着用被遊御免旨被仰出候条、此段可被達候以上
十一月十六日 奉行所

佐田右平通達 天保11年11月

[上書]
星野四郎左衛門殿 佐田右平

[端裏書]
天保十一年十一月十六日

其元儀御紋服着用願書ニ被仰出之趣、従御奉行中御附紙を以御達有之候付則差遣候条可被奉得其意候以上
十一月十六日 佐田右平
星野四郎左衛門殿

星野如雲書簡 弘化4年10月1日

8月25日の貴書当9月10日に到着候所拝見仕り候、寒冷の侯御座候得共、弥御勇健成られ御座、珍重の御儀存じ奉り候
次私儀相替らず家業相勤め居り申し候、憚り乍ら左様思し召し下さるべく候
然らば御先代様御遠忌追々御到来、伯耆守様二百回忌来々酉3月7日当られ、伯耆様百五十回御忌来申6月16日当られ、御亡父友猪様三回御忌来申11月13日当られ候に付御取越し御法事御営成られ候段、遠国御知らせ下され忝く冥加の仕合せ存じ奉り候、御亡父様御他界の儀、当時迄承知仕らず吊書も差し出さず失礼仕り候、此段御恕宥下され候様頼み奉り候
惣躰私儀其御表御尋問仕りたき内願に御座候、自然出られ候はば万般御教示頼み奉るべく重畳宜しく托み候、心事有り難く紙上先書答え迄申し上げたく、猶後音の時期し候、恐惶謹言

   星野四郎左衛門
十月朔日 實直

片山金助様 参人々御中

猶々御端書の趣御丁寧仰せ下され千万忝く存じ奉り候、追日寒冷深く相成り御自愛成し下され候様頼み奉り候私儀痛む所御座候而、執筆出来兼ね候に付代筆を以て申し上げ候、以上


片山伯耆守久安の200回忌、片山久成の150回忌、片山久俊の3回忌が営まれる事を知らされた時の返書である。
これらの事から本文書が記されたのは弘化4未年(1847)と推量できる。時に星野實直42歳、三藝師役を継いだ天保10年(1839)の8年後に当る。

通達 安政6年

 星野四郎左衛門
其方儀三藝之指南多年致出精候付座席御物頭列被仰付旨被仰出候也

通達 安政6年

 星野四郎左衛門
其方儀三藝之指南方数十年格別致心労候付、今迄被下置候御擬作高百石地面ニ被下置旨被仰出候也、御知行高今迄之通御蔵米ニ而被下置候也

星野如雲書上 安政7年閏3月

 覚
内膳殿初め兄弟并彼方家来中、三藝共離門仕り候間、此の段御達し仕り候以上
閏三月 星野四郎左衛門

1863.皇都ニ而諸御達扣 文久2年12月

1863.上京道中日記 文久3年9月

1864.小倉御出馬御行列附 元治1年

慶応1年12月

口達
 星野四郎左衛門
貴殿嫡子星野金左衛門儀、居合薙刀組討抜群出精藝術相進、貴殿指南之補助ニ相成候ニ付為心附毎歳銀三枚被下置候条、弥以致出精候様此段金左衛門江可仕申聞候以上
二月廿五日

1864-1867.組討相傳扣 文久4年3月より慶応3年12月


四天流組討の相傳状況について、数か月ごとに星野四郎左衛門から学校御目附へ報告されていた。上掲は四代星野九門が免状を伝授された際の部分、このときは星野四郎左衛門のみの署名ではなく、代見中の総意と四郎左衛門の同意によって免状が相傳された。
此の文書、師役が藩と連携していたことを端的に示している。

学校局通達 明治4年7月1日

貴殿儀学校改正ニ付居合薙刀師役者被免且嫡子星野角右衛門儀右同断ニ付居合薙刀指南差添者被免旨候条可被奉得其意事
七月一日 学校局
星野四郎左衛門殿

星野如雲書上 星野九郎忰 辰之助の身分について

[上書]
星野四郎左衛門殿 選挙方御奉行中

 私育之甥 星野辰之助
右者養父星野龍助忰星野九郎忰ニ而御座候、九郎儀者龍助御中小姓在勤中文政九年三月出奔仕候、然處辰之助身分之儀何程之御取扱ニ而可有御座候哉、且又他家江養子ニ参候ハヽ往々可被召仕身分ニ可有御座哉、此段御内意奉伺候以上
四月 星野四郎左衛門

[附紙]
本行星野辰之助儀、軽輩之御取扱ニ而獨礼以下御切米取之養子取組不苦候以上
七月二日 選挙方 御奉行中 星野四郎左衛門殿

星野如雲書上 星野九郎忰 辰之助を甲斐源八の聟養子にする

[上書]
星野四郎左衛門殿 稲津久兵衛・佐田右平

御内意之覚
私育之甥星野辰之助儀當年二十二歳ニ罷成申候、歩御使番甲斐源八聟養子ニ仕度由ニ付、久兵衛殿右平殿御思召寄茂無御座候ハヽ其通仕度奉存候、此段可然様奉願候以上
八月 星野四郎左衛門

[附紙]
存寄無之候条勝手次第可被相心得候以上
八月晦日 稲津久兵衛・佐田右平

星野九郎は先代龍介の嫡子であったが、中小姓在勤中に出奔してしまった。

星野如雲書上 星野九郎娘の士席衣服着用の可否を問う

[上書]
星野四郎左衛門殿 学校方 御奉行中

口上之覚
私養父星野龍助忰星野九郎儀、龍助御中小姓在勤中文政九年三月出奔仕候、然處右九郎娘當時育居候ニ付、士席之衣服着用仕セ候而不苦哉、此段御内意奉伺候以上
十月 星野四郎左衛門

[附紙]
本文星野九市娘士席之衣服着用不苦旨候以上
十一月十日 学校方 御奉行中
星野四郎左衛門殿

星野如雲書上

[上書]
星野四郎左衛門殿 佐田右平・真野源之助

口上之覚
私育之姪今井喜次郎二男今井司馬次江縁組仕せ度内談仕候、右平殿源之助殿被思召寄茂無御座候ハヽ相究申度奉存候、此段可然様奉願候以上
三月 星野四郎左衛門
[附紙]
存寄無之候間願書可被差出候以上
五月七日 佐田右平・真野源之助

星野如雲書上 惣庄屋の忰三隅胤吉の夕榭参加を願う

[上書]
星野四郎左衛門殿 学校 御目附中


御惣庄屋三隅丈八忰 三隅胤彦十歳
右者居合薙刀私門弟ニ而稽古仕候処十五歳未満ニ者御座候得共、壮健ニ有之候ニ付夕榭之出方仕セ度奉願候以上
十一月 星野四郎左衛門

[附紙]
此儀夕榭致出方候之様可有御心得候以上
十二月三日 学校 御目附中

本間治兵衛・井口呈助通達 御城召

[上書]
星野四郎左衛門殿 本間治兵衛・井口呈助

貴殿儀御用有之候、明後廿八日四時分拙者共御同道、御城江罷出可申旨、従御奉行所御達之有之条可被奉得其意候以上
五月廿六日

星野如雲書上 支配浪人の異動願い

[上書]
星野四郎左衛門殿 稲津久兵衛・佐田右平

口上之覚
私支配之浪人田尻革左衛門儀世話届兼候ニ付、猿来角之允支配ニ仕度由ニ付私支配差除申候、此段可然様被成御達可被下候以上
四月 星野四郎左衛門

[附紙]
追而人別帳達之節、其段付札を用可有御達候以上
六月六日 稲津久兵衛・佐田右平


松岡帰楽製作御家流縫延の具足拝領願い

星野如雲書上

[上書]
星野四郎左衛門殿 御郡方 御奉行中


私儀當時所持仕居申候具足乳縄ニ合兼申候間、松岡帰楽製作小物成方御仕入之御家流縫延之具足壱領年賦御取立を以被為拝領奉願候以上
十二月 星野四郎左衛門

[附紙]
此儀代銭十五ヶ年賦御砂場御取立を以被渡下候以上
十二月廿八日 御郡方 御奉行中 星野四郎左衛門

星野如雲書上

[上書]
原又雄様・□貞様・□□三郎様 星野四郎左衛門

拝見仕り候、然らば歳暮御祝儀として金弐朱拝領させられ有り難き仕合せに存じ奉り候、御禮罷り出で申し上ぐべく候得共、御序での砌然るべき様頼み奉り候、右迄書き答え此くの如くに御座候以上
十二月廿八日

成田甚兵衛書簡

私先祖下時掃部頭与申者龍造寺高信家臣ニ而知行壱萬五千石遣置候由嫡子掃部頭与申者より浪人いたし肥前唐津江居住掃部頭子斎宮与申候其子志水甚兵衛与申者後ニ成田清兵衛江与家名相改十七歳之時より日本廻国仕候事
成田甚兵衛


離門一件文書

・人物一覧
先生 星野四郎左衛門(如雲)
子先生 星野金左衛門(九門)
代見衆 志水一学・益田勝熊・廣吉半之丞・宮川豊熊・井場儀兵衛

長岡内膳 一門首座
原一郎右衛門 原又雄の父、長岡内膳の家来
大久保源十郎 原一郎右衛門と離門に関わる話をしたとされる、長岡内膳の家来
原又雄(宗十郎) 離門の当事者、長岡内膳の家来
阿部俊助 自称原又雄の代人として離門を申し入れる、長岡内膳の家来
高井権之助 離門一件の交渉役、長岡内膳の家来

事件は、安政6年(1860)1月25.26日頃、星野門の代見衆の一人 志水一学のもとへ原又雄の離門を申し入れるため代人 阿部俊助が訪れたことから始まる。
離門の申し入れに対して志水一学は、離門とは容易ならざる事であり、その主意(主たる理由)を聞かずして星野先生へは申し上げられないことを伝える。また代見の立場から、離門の原因が喧嘩や男色の心配であれば、稽古の途次で挫折することは気の毒であるからと諭した。

代人 阿部俊助が再び訪れたのは4月1日頃であった、原又雄が云うには、離門の主意は稽古場における星野先生の門人御取分にあると。
その事を星野先生へ申し上げても良いと阿部俊助が云うので、志水一学は星野先生に取り次いだところ、星野先生も身に覚えがなくより詳しい離門の主意を問い質すことになった。

4月8日、志水一学宅において代見衆は門人御取分とは如何なることかと、代人 阿部俊助に問い質すも要領を得なかった。阿部俊助が云うには、原一郎右衛門と大久保源十郎が隣部屋で話しているのを聞き、その内容から推し量って自分の判断で原又雄の離門を申し入れに来たのだと。
阿部俊助を相手にしていても埒が明かないことを悟った代見衆は、原父子に直接会って相談すべしと屋敷へ押し寄せたが職務で留守のため、明後日に原一郎右衛門を同道して来るよう阿部俊助へ手紙を出した。

同日、長岡内膳の内命を以て高井権之助が星野四郎左衛門の宅を訪れ、離門の件については荒立てないようにと内膳の意を伝えた。
これに対し、星野四郎左衛門は離門の主意を聞かずしては収まらないと応酬した。

ここからは各人の書簡と覚書を引用して出来事を辿る。

1860.安政6年4月9日 阿部俊助書簡

[上書]
星野先生 御代見中様 貴答 阿部俊助

昨夕は御紙面成し下され忝々拝読仕り候、然らば御咄し合い仕り候一条に付き、原一郎右衛門へ御面談成られ度きに依て、明十日八ツ頃より志水様御宅へ同人同道にて罷り出で候様仰せ下され候趣承知仕り候、然る處右一件既に内膳方聴に相達し昨夕高井権之助を先生御宅へ差し立てられ事柄決着仕り候迄は旦那方存念に任せ置き候様、尤も御模様は一々聴に達し候様申し付け置かれ候に付き、御紙面の趣も申し達し候処、折角内膳方取り扱い居られ候事に付き先ず暫く相對の御咄し合いは仕る間敷、各様方へは失禮も相當り申すべく候得共、右の趣を以て宜しく御断りに及び候様申し付けられ候、此の段貴答是くの如く御座候以上
四月九日

阿部俊助→代見衆へ手紙:昨日、星野四郎左衛門へ高井権之助を以て主人の意向を伝えた、ゆえにこの件はしばらく上に任せるべし、それとこの一件は逐一主人に報告しており、明日の面談も断るべしと云われている、ゆえに面談はお断り
→重き事柄ゆえ差し控えよと云うが、師弟のことゆえ聊かも放ってはおけない、一刻も早く離門の理由を聞きたく、四郎左衛門は役務ゆえ息金左衛門が代りに高井権之助方へ行き手紙の趣を断った

1860.安政6年4月10日 高井権之助書簡

心覚
昨朝小先生を以て御離門一件の儀原一郎右衛門より御返答仕らず候ては御安心成られず、御代見衆も御同様の由仰せ聞かれ候間、夫れにては折角内膳方より御懇談仕り候様申し付けられ候詮は御座無く候段、小先生へは御噂仕り候、併し御返答の趣に付き申し達し候處一郎右衛門へ御尋ね成られ候由の一件は●斗御聞き取り成られ候事にて御座無く候、夫れ故御尋ね成られ候との趣に御座候得共、全く俊助を以て一郎右衛門より申し達し候儀にてはこれ無く陰事にて押し立て候処は、御離門一条の儀にて御座候、勿論陰事と取り揚げ申さざる儀は世間一統の事歟と存じられ候、主人取り扱いの所に何事も任せられ相済み候様御取り斗らい成られ度く、此の段御様子猶承知仕り候分申し付け候事
四月十日 高井権之助

高井権之助→星野金左衛門へ覚書を持って来る:主人取扱のことゆえ手を引きなさい
星野金左衛門→高井権之助へ:否、理由を問い質す
高井権之助→星野金左衛門へ:主人取扱のことゆえ手を引きなさい
星野金左衛門→高井権之助へ:否、理由を問い質す
 その後、金左衛門と代見衆相談:理由の分らない離門をそのまま許しては体面に関わる、ましてや内膳様が承知のことであれば猶更問題である、是非とも理由を問い質さねば離門は許されない

高井権之助→代見衆へ:原一郎右衛門は主人の重役を勤めている、志水方へ呼びつけるのは如何なものか?
代見衆→高井権之助へ:そもそもの根元はそちらが離門を申し込んだのであるから、その理由を話しに来るのは当然である

1860.安政6年4月12日 離門の原因は道場に於ける呼び捨ての所為と判明する

高井権之助→星野四郎左衛門宅に来り口上:着座衆の家来と屋敷の家来では訳も違う事なので、稽古場で御侍衆より呼び捨てにされるのは良いが、先生に呼び捨てにされるのはちょっと、と(原が)云っている
星野四郎左衛門→高井権之助へ返答:その事は常に注意している、屋敷の家来は着座衆の家来の次にする仕来りである
 ここで御用御達があり、話は中断

代見衆→高井権之助宅へ:内膳様に曲直を聞きたし
高井権之助→代見衆へ伝言:原一郎右衛門が云うには、御取分とは御門人御あしらいの事と
代見衆→高井権之助へ問う:御門人御あしらいとは如何なる事か
高井権之助→代見衆へ答え:先生より軽輩同様に呼び捨てにされた事と、先生はその身分なので良いが、小先生はその身分ではないのに呼び捨てにすると
代見衆→高井権之助へ:それは当然である、たとえ小先生が士席ではなくても、門弟の年齢により呼び捨てにする、門人の身でありながらそのようなことに不快を差し挟むべきでない、小先生の身分云々なら上へ問い合わせよ、稽古場においては夕榭の輩同様に取り扱ってきた、もし士席同様に取り扱うよう上から達があればそのようにする、しかし総体稽古場の作法では、士席の者といえども幼少であれな長者が呼び捨てにし、幼少の者は長者に何某様と唱えるのが師弟の有り様である

高井権之助→代見衆へ答え:いやいや御侍衆同様に扱われよと云うのではない、着座衆の家来であるから、それなりの扱いにしてほしい
代見衆→高井権之助へ:稽古場にそのような仕来りはない、もし不服なら離門して差支えない(そういう不心得な門弟は要らないということ)、星野四郎左衛門も同意である
高井権之助→代見衆へ答え:阿部俊助が島原へ入湯に行っており、しばらく延引、帰ったのち話し合う

高井権之助→星野四郎左衛門へ手紙:代見衆が言ったことで間違いないか?
星野四郎左衛門→高井権之助へ手紙:その通り、相違なし

1860.安政6年4月22日 高井権之助書簡

昨日は御名代として御代見衆御揃い御出で成られ仰せ聞かれ候趣承知仕り、大久保源十郎へ申し開き置き候、右御噂の内御稽古場にて御取り扱い振りの事に付きては御離門と申す儀に御座候得ば、原宗十郎に限り申さず何人御離門仕り候義苦しからず御取り切り成られ候と御噂成られ候由、尤も先生よりの思し召しの義其の通りに御座候段仰せ聞かれ候
右は私聞き取り相違仕るべき共存じ奉らず候得共、念の為御問い合わせ仕り候様申し聞き候間、御様子仰せ知られ下さるべく候、此の段態と書中を以て貴慮に従い申し候以上
四月廿二日 高井権之助
星野四郎左衛門様
尚々頃日は罷り出で御馳走成し下され忝々存じられ候、未だ御禮にも罷り出で申さず失敬仕り候以上

1860.安政6年11月9日

高井権之助→星野四郎左衛門へ内膳の使いとして問う:代見衆が原一郎右衛門を呼び寄せるのは如何なるわけか?
星野四郎左衛門→高井権之助へ答え:阿部俊助の云うことは原一郎右衛門の意向と齟齬があると思われ話にならないから
高井権之助→星野四郎左衛門へ内膳の使いとして問う:軽輩として取り扱うのは如何なるわけか?
星野四郎左衛門→高井権之助へ答え:軽輩の取扱いは両御末家様の家来として扱っている

1860.安政6年12月8日夕

内膳の使者小川定→星野四郎左衛門(四郎は不快のため金左衛門代理)へ伝言:内膳を初めとして二男、三男離門、家来一統も離門する
星野金右衛門→使者へ答え:同苗の者と相談する

1860.安政6年12月14日 星野四郎左衛門書簡扣

 覚
頃日御用人衆を以て御離門の儀仰せ聞かれ候趣に付きては、不安意に存じ奉り候に付き、得と勘考仕り候て御請け申し上ぐべく候、依て延引仕り候段、御断りのため罷り出で申し候、御序での節然るべき様頼み奉り候以上
十二月十四日 星野四郎左衛門

[端裏]
内膳殿方に遣わし置き候扣

1860.安政7年2月 星野四郎左衛門書簡扣

 袖扣
御離門の御主意覚書に御座候通り師範より苗字呼び捨てに致し候儀を不足に存じ候族は離門支(つか)え申さざる段、御噂仕り置き候通りに付き、其の御主意にて御離門在らせられ候段御申し向きの様、田中理右衛門より申す通り委細承知仕り候、併し原又雄儀は身分當前の取り扱いいたし候を不足に存じ候に付き追々巨細咄し合い候ても承知これ無く候得ば、最早致すべき様これ無く候処より離門支え申さずとは申し向きたる儀に御座候得共、御主人様御初め其の事に付きて御離門と申す儀は重畳不安意に存じ奉り候、子細は御家来を士席同様の取り扱い致さざるを不當の儀と思し召され候ての御儀と存じ奉り候
併し右取り扱い振りの儀は両御末家様御家来の見合を以て夕榭の取り扱いいたし候様との儀は相分り居り候事に付き、其の通り相心得居り申し候処、其の儀思し召しに叶わせられざる處より、右の通りの御模様に相成り、第一尊貴成る御方様の御離門と申す儀は何分安心仕り難く存じ奉り候
且又刑部殿家来も稽古に参り候事に付き、以後の心得にも相成り申すべく旁以て●難き事柄に付き如何相心得申すべき哉の段、伺書差し出し申し候筈に御座候、此の段左様御承知下さるべく候
二月 星野四郎左衛門

原又雄の離門については、これ以上の説得は仕方なく、差し支えないことを確認、しかしそれに伴って長岡内膳一統まで離門とは、その尊貴な立場からも穏やかならざることであり、この件に関しては学校方に伺いを立てると申し入れた。

1860.安政7年閏3月14日 星野四郎左衛門書簡・学校御奉行通達


内膳殿家来原一郎右衛門忰原宗十郎儀、私門弟にて御座候処、稽古場に於いて私より苗字呼び捨てにいたし候を不足に存じ離門申し出で候
未だ内膳殿存じ寄らる儀これ有る旨にて、内膳殿始め家来一統離門申し入れられ候一条に付きては、委細別紙覚書の通りに御座候
右存じ寄らると申す子細は前条苗字呼び捨てにいたし候を不當の儀と存じらる趣にて申し入れられ候由、跡達て同家来高井権之助より代見の内へ申し向き候に付き、離門の主意初めて承知仕り候
然る処私共に於いては両御一門方の家来は両御末家様の御家来に准じ、夕榭の面々同様苗字呼び捨てに仕来り申し候処、此の節内膳殿故障差し起し候儀に付きては、以後取り扱い方如何相心得申すべき哉
刑部殿家来も同様の儀に御座候処、彼方は矢張名字呼び捨ていたし、内膳殿家来のみ取り扱い改革仕り候ては不對に相成り、相済み難き儀に御座候間、旁以て取り扱い方伺い奉り候間、御差圖成られ下され候様願い奉り候
前条原宗十郎離門の儀は、其の分の事に御座候得共、其の末内膳殿離門と申し候ては尊貴の衆に對し不容易事柄に付き御差圖を以て安心の場に到り申し度く、此の段然るべき様願い奉り候以上
三月 星野四郎左衛門

[附紙]
本行離門の儀は四郎左衛門存じ寄り次第にいたし候様、尤も苗字呼び捨ての儀は不當の筋にこれ無き段、御通達有るべく候以上
閏三月十四日 学校方 御奉行中
学校 御目附衆中

星野四郎左衛門が離門一件について学校方に当てた伺書、そして学校御目附衆に対し学校方御奉行が与えた裁決の結果が附紙されている。この裁決によって、原宗十郎(又雄)離門の離門と長岡内膳の離門両件について星野四郎左衛門の意見が認められた。

1860.安政7年閏3月14日 学校御目附通達

別紙付紙の通り申し来り候条、左様御心得有らるべく候以上
閏三月十四日 学校 御目附中
星野四郎左衛門殿

1860.安政7年閏3月 星野四郎左衛門書簡


内膳殿初め兄弟并彼方家来中、三藝共離門仕り候間、此の段御達し仕り候以上
閏三月 星野四郎左衛門

上に掲げた学校御目附通達の別紙かと思われる。

1860.安政7年閏3月15日 通達

 舌代
内膳殿并彼方家来中、星野四郎左衛門へ離門申し入れ一件に付きては、四郎左衛門伺いの書付に付札を以て申し達し候通りに候處、万一四郎左衛門より熟和の取り扱い等これ有り候ては、弥以て師範の権威に拘り候に付き、勿論左様の存念有るべき様はこれ無く候得共、何と無く御心を附けられ候様、且又右躰申し分差し發し候儀、畢竟師範の威厳薄き処よりの儀にはこれ有る間敷哉、左候へば相済み難き事に付き、門弟称呼等の儀一躰丁寧に過ぎ申さざる様、武藝師範一統へ折々に御噺し合いこれ有り度く候事
閏三月十五日

学校方の裁決によって内膳一家の離門が決定したので、師範たる星野四郎左衛門に対し”門弟称呼等の儀一躰丁寧に過ぎ申さざる様”にと指示している。

1860.安政7年

去冬御使者を以て御申し入れに相成り候御離門の儀に付きては、伺書差し出し置き候処、御家来苗字呼び捨ての儀は不當の筋にこれ無く、御離門の儀は私存じ寄り次第にいたし候様、学校方御奉行中より御付紙を以て御達しに相成り安心の場に至り申し候真、仰せ入れられ置き候通り、御離門仕るべく候、此の段書付を以て申し上げ候
−−−
尚々本行の趣に付き、御家来中離門の儀も苦しからず候間、此の段も申し上げ候以上

1860.安政7年6月9日 星野四郎左衛門書簡扣

 覚
内膳方上下御離門相済み致され安心候、然る処家中心得方の儀師弟の際は格別其の外程々に應じ不遜の躰これ無く、禮譲専らに致すべき旨、兼ねて示し置かれ候、尤も今般学校方御奉行衆よりの付紙に依て、此方家来苗字の呼び捨てと申す儀に付きては、此方にも御先代様御定め下され候格合弥以て堅く相守り、席々に依て扱い様相用いられ候得ば、自是も扱い様相用い候、従来仕来りの移りを以て先格の主意規度相貫き候様、應答に及ぶべき旨申し付けられ候、此の段先日の御返答方々申し入れられ候以上
六月九日

星野四郎左衛門から長岡内膳方へ、門弟の扱いについて学校方御奉行衆の意見と自身の意見を伝えた。

1860.安政7年頃

此の表沼田殿取り扱いに付きて内膳殿より使者を以て申さる向き口上左の通り
原又雄離門一条に付きては、高井権之助より追々御咄し合い申し候事柄の内、家来取り扱い振りの儀、諸事着座の家来同様の御あしらひと申すものに組み取り候に付き、主人も不安意に存じられ候処より、内膳初め家来中も御離門申し入れ置かれ候事に候処、此の節沼田小兵衛殿より咄し合われ候趣にては、着座の家来同様と申す處は名字御呼び捨て迄の処にて御應接等の御振り合いは兼ねて御取り分け御心持も御座候段、委細承り届けられ候
必竟権之助儀御咄し組み取り違い致し候処より、主人不安意の様も差し起り候儀に候得ば、前条の通り間違い相分り候ては外に申し分候儀これ無く候間、御離門の儀は引き戻し候、尤も家来中も同様の事に御座候、此の段左様御承知成らるべく候事

先生より御返答
仰せ入れ置かれ候御離門、此の節御引き戻しに相成り候御口上書の趣、委細承知仕り候、仰せ聞かれ候通り御家来取り扱いの儀、心持共致し候事に御座候間、猶左様仰せ上げられ下さるべく候以上

長岡内膳が高井権之助から聞き取った状況について取り違いがあったこと、沼田小兵衛の仲介によって判明したためその非を認め、離門の儀は引き戻しとなった。
学校方目付の裁決後は、星野四郎左衛門の立場が正しいこと吹聴されたため、形勢の不利を悟った長岡内膳から事態を丸く収める運動がなされたか、あるいは沼田小兵衛の仲介によって長岡内膳の誤解が全く解けたものか。兎も角、これにて内膳離門一件は解決した。

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