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二代 星野龍助 1764−1839 熊本藩士 三藝師役

通称は龍助または龍介、後に角右衛門と改める。諱は實壽。東祥伯(字士雄)の次男。
伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀を能くし、寛政3年(1791)30歳のとき養父角右衛門の跡を継ぎ師役となる。 寛政6年(1794)御切米7石を下され歩小姓、師役一偏を命じられ、以後三藝の指南に専念し度々加増された。
文化1年(1804)43歳のとき周防岩國の片山伯耆守子孫 片山猪之助方を訪問し流儀筋を正し極意判物等を請け取る。
文化5年(1808)獨礼、文化11年(1818)中小姓となり、天保1年(1830)69歳のとき御擬作高100石を下され御番方、天保7年(1836)御番方上座、学校方御奉行觸と累進した。天保8年(1837)歿、76歳。
八代細川斉茲公・九代斉樹公・十代斉護公に仕え、都合四十九年の御奉公。

掲載史料及び参考資料

『肥後熊本藩星野家文書』個人蔵
『肥後武道史』熊本県体育協会編纂 青潮社
『片山家文書『肥後熊本星野龍助修行日記』について』和田哲也著
『埼玉武藝帳 江戸から明治へ』山本邦夫 さきたま出版会


星野龍助年譜

宝暦14年(1764)東祥伯(字士雄)の次男として生れる
寛政3年(1791)2月養父 星野角右衛門、御奉公都合31年相勤め寛政3年2月病死仕り候事
寛政3年(1791)6月養父 星野角右衛門流儀 伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀出精仕り候につき、3人扶持下し置かれ諸役人段召し出され、親跡師役仰せ付けられ、北篠十郎右衛門觸組召し加えられ候旨、御奉行所に於いて仰せ渡され候 28歳
寛政6年(1794)1月数々の藝術皆傳も相済み、指南方心懸けよく出精相勤め候由にて御切米7石下し置かれ、歩小姓仰せ付けられ伊藤又右衛門組召し加えらる、但し並の勤めに及ばず師役一偏仰せ付けられ候事 31歳
享和1年(1801)2月数年指南方心懸け厚く出精相勤め候由にて御足給3石下し置かれ候事 38歳
文化1年(1804)10月願い奉り防州岩國 片山友猪之助方へ居合流儀筋問い合せのため自勘にて罷り越し、それぞれ相正し極意判物等も請け取り、翌年2月罷り帰り申し候事 41歳
文化5年(1808)閏6月三藝の師役数年指南方出精仕り候由にて、獨礼仰せ付けられ今迄下し置かれ候御足給御加増直ぐ下され、学校御目附の支配召し加えられ候 45歳
文化11年(1810)11月御花畑に於いて三藝の指南数年出精仕り候につき、御中小姓仰せ付けられ2人扶持の御足下し置かれ、志水久馬之丞組召し加えられ候旨仰せ出だされ候 47歳
文化11年(1810)12月御花畑に於いて門弟中藝術御覧遊ばされ候につき、門弟引き廻し罷り出で申し候 47歳
文政3年(1820)8月御花畑に於いて大勢の門弟指南方数年出精仕り候につき、御足給5石下し置かれ候事 57歳
文政8年(1825)3月御花畑に於いて三藝の指南方数十年出精仕り候につき、御足給扶持御加増直ぐ下され、猶御足給5石下し置かれ候事 62歳
文政9年(1826)3月忰星野九郎儀、御中小姓在勤中出奔仕り候 63歳
文政13年(1830)3月江藤彌内、星野龍助の養子となる 67歳
天保1年(1830)11月御花畑に於いて三藝の指南方数十年厚く心を用い出精仕り候につき、御擬作高100石下し置かれ、御番方仰せ付けられ、岩越椿十郎組召し加えられ、師役直に仰せ付け置かれ候事 67歳
天保2年(1831)閏11月御花畑に於いて門弟中藝術御覧遊ばされ候につき、門弟引き廻し罷り出で申し候 68歳
天保6年(1835)6月3日三藝の師範仰せ付けられ候につき、出榭料のほか銀2枚宛毎歳増し下し置かれ候旨、仰せ付けられ候 72歳
天保7年(1836)9月御花畑に於いて三藝の指南方数十年厚く心を用い出精致し候につき、御紋附御小袖一ツ拝領仰せ付けられ候 73歳
天保7年(1836)12月御花畑に於いて思し召しの筋を以て座席御番方の上座仰せ付けられ候、学校方御奉行觸召し加えられ候、今迄下し置かれ候出榭料・御役料米直し下し置かれ候旨仰せ渡され候 73歳
天保7年(1836)12月三藝の師役へは格別の御心附として毎歳銀1枚宛渡し下さる旨仰せ付けられ候 73歳
天保10年(1839)7月29日御奉公都合49年相勤め申し候事、當年76歳にて病死仕り候

両榭における三藝の指南

ここに参考として『肥後武道史』に所収の嘉永2年(1849)に記された「師範榭日之覚」から星野氏を抜粋すると下記の通り。(記事から察するに文政・天保の頃かと思われる)

5の日 四天流組討 5日,15日迄 西榭 星野四郎左衛門
6の日 四天流組討 26日迄 西榭 星野四郎左衛門
7の日 伯耆流居合 東榭 星野四郎左衛門
8の日 揚心流薙刀 28日迄 東榭 星野龍助
10日,20日 伯耆流居合・四天流組討・揚心流薙刀 西榭 星野龍助

・別格 夕榭日
10日 居合 星野四郎左衛門
22日 居合 西五間 星野四郎左衛門
26日 組討 西五間 星野四郎左衛門
28日 長刀 星野四郎左衛門
28日 西八間 星野龍助

尚、榭とは別に自宅でも指南していた。
星野龍助没年時は京町に家屋敷を下されており稽古場は「一稽古場2間(3.64m) 梁4間(7.27m) 茅葺」であった。
稽古場の広さについては、例えば山本邦夫氏著『埼玉武藝帳』にいくつか道場の広さが提示されており、4.5x9m、5.4x7m、5.4x9m辺りが主なところで、星野家の稽古場はやや手狭であったかもしれないが当時としては標準的な道場と云える。

伯耆流居合の系

先代星野角右衛門は在来の伯耆流居合を江口喜内に学び、延享4年(1747)免許を相傳された。
 1. 片山伯耆守久安
 2. 浅鬼一無斎
 3. 薗田九左衛門
 4. 小五左衛門
 5. 下田角兵衛
 6. 田代與五郎
 7. 粟津権兵衛
 8. 久布代喜郎左衛門
 9. 江口喜内
 10.星野角右衛門

その後の安永6年(1777)岩国の片山利介久義を訪問”流儀筋相正”し、僅かな滞在期間に”御入門、居合・太刀筋を少々”を引き渡され帰国した。
 1. 片山伯耆守
 2. 片山伯耆
 3. 片山数馬
 4. 片山利介
 5. 星野角右衛門
これによって在来の伯耆流の系から片山流の系に切り替えられたものと見られ、二代星野龍助は伯耆流居合目録に片山系を示している。

二代星野龍助は文化1,2年(1804.05)に片山友猪之介方を訪問”流儀筋それぞれ相正し極意判物等も請け取り”帰国した。
 1. 片山伯耆守
 2. 片山伯耆
 3. 片山数馬
 4. 片山利介
 5. 片山猿之助
 6. 片山友猪之介
 7. 星野龍介 文化8年居合兵法歌之書

 1. 片山伯耆守
 2. 片山伯耆
 3. 片山数馬
 4. 片山利介
 5. 片山猿之助
 6. 片山友猪之介
 7. 星野龍介 文政7年伯耆流居合免状

二十五年後の伯耆流居合目録では此のように記されている。
 1. 片山伯耆守
 2. 片山伯耆
 3. 片山数馬
 4. 片山利介
 5. 星野角右衛門
 6. 関郡馬
 7. 星野龍介 天保7年伯耆流居合目録

伯耆流居合目録は後代星野氏も此の系に従い、片山友猪之介以来の系を用いない。しかし、居合兵法歌之書・伯耆流居合免状には片山友猪之介以来の系を用い、自臨巻も同様と予想される。
すなわち岩国訪問已後にもかゝわらず、星野龍助が門人に伝授する伝書は、先代角右衛門−関郡馬の系と片山友猪之介系の両者が存在する。

星野龍介の岩国訪問

先代角右衛門の”流儀筋相正”が僅かであったのに対し、星野龍助の”流儀筋を正”はもっと踏み込んだ内容であった。
その伝授の詳細は『肥州熊本星野角右衛門藝州広島岸源蔵参着記』(岩国徴古館蔵)を研究された和田哲也氏の『片山家文書『肥後熊本星野龍助修行日記』について』が詳細である。ここから要点をまとめると「時の当主片山猪之助は15歳であったことから、星野龍助は後見人と高弟達に迎えられ11月12日入門式に臨む。11月20日頃「居合八極変」「外之物表」、その後日「居合中段・上段」「応変八極之裏」「外之物遣ひ替弁二六箇之訳」へと進み、続いて「二刀崩」「小木刀」の形を伝授された。そして2月4日には「片山流剣術序目録(中略)」を授与され、翌日奥儀業前を一通り拝見し、2月11日帰国の途についた」と云う。


星野龍助関係文書

星野龍助名乗判鑑

藩へ提出した名乗判鑑の控。これは公の文書に用いる實名+花押を意味する。

1803.星野龍助奉公附 享和3年11月

自身の履歴を藩へ提出する際に作成された草稿。奉公附などの履歴書は推敲を重ねることが多い。

1805.居合兵法歌之書 片山友猪之助久豊 文化2年2月


「防州岩國 片山友猪之助方へ居合流儀筋問い合せのため自勘にて罷り越し、それぞれ相正し極意判物等も請け取り」と記録された極意判物の内の一つ。

1805.自臨巻目録 片山友猪之助久豊 文化2年2月


「防州岩國 片山友猪之助方へ居合流儀筋問い合せのため自勘にて罷り越し、それぞれ相正し極意判物等も請け取り」と記録された極意判物の内の一つ。

1811.居合兵法歌之書 星野龍介實壽 文化8年5月

欠損激しく大部分は開くことさえ出来ない。宛名の大野金吉は同藩士、御番方 高200石。星野家に返納された後、保管されていたのだろう。様式は片山友猪之助久豊より伝授された「居合兵法歌之書」と同一。系譜が従来の伯耆流のものから切り替わったことを確認できる。

1827.星野龍助實壽副簡 文政10年6月24日

石山寺に”星野龍助”の名で額が掲げられているのを聞きつけた星野龍助、門弟に調べさせたところ、”京同心 星野龍之助”であることを知り、 もしや先祖のときに分かれた一族ではないかと問い合わせた際の副簡。
星野龍助自身が家傳の三藝について述べており、対外的にどのような説明を為したのかが知れる。
抜粋「六代目星野龍助、則ち私相勤め居り申し候親代々の三藝共に相傳仕り師範仕り居り申し候、尤も居合劒術は元祖防州岩國にて片山伯耆守子孫代々師範仕り其の末流にて御座候、尤も文化元年、右元祖片山方に罷り越し流儀筋相糺し、流儀の極意判物迄も受け取り罷り帰り申し候、組打の儀は元祖 冨田勢源末流にて四天流と号し指南仕り居り申し候、薙刀の儀は元祖肥前國 秋山四郎兵衛末流にて、是又指南仕り相勤め居り申し候」

稲津久兵衛・依田右平書簡 1月26日

「其元養子星野四郎左衛門儀、明後廿八日五半時揃にて御目見御受け遊ばさる旨仰せ出だされ候、其元御禮もこれ有り候間、父子共麻上下着、右刻限前遅滞無く御花畑へ罷り出で候様達に及ぶべき由、御小姓頭より申し来り候条、其の意を得らるべく候、若し故障にて罷り出でられ難く候はゞ、其の段早々相達せらるべく候、尤も其元御礼は病中等にて罷り出でられず候得ば、流れに相成り候条左様相心得らるべく候以上 正月廿六日」

1831.星野龍助宗門覚書 天保2年3月

公儀より出された切支丹改の通達に基づき、熊本藩においても慣例的な取り締りが行われていた。次に掲げる『親類縁者附』と後出の『従類附』も同時に提出されるものである。

1831.星野龍助親類縁者附 天保2年3月

1831.星野龍助先祖附部分 天保2年

1833.星野龍助武具附 天保4年10月

1833.星野龍助宗門覚書 天保4年10月

1833.星野龍助従類附 天保4年10月

1833.甲立物幕之紋附 天保4年10月

1839.星野龍助御奉公附 天保10年7月

この御奉公附を作成した正垣七左衛門は、星野龍助病歿後の遺跡相続について手続きを担当したものと見られ、星野龍助の役附や星野龍助病死時の家屋敷目録の控、次代 四郎左衛門の年齢を問い質した書簡などが現存している。

1839.星野龍助病死時の家屋敷目録 天保10年7月

先述の「星野龍助御奉公附」と同様に正垣七左衛門の作成。

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