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澤浦盛道 1822−1896

伊勢崎藩士 鹿島神傳十四代 直心影流師役
文政5年9月9日(1822)生れ、江戸に出て一圓流剣術を片山義宣に学び、後に直心影流を男谷信友に学び蘊奥を究める。嘉永3年(1850)伊勢崎藩八代藩主酒井忠強公のとき近侍として召され、同藩の士澤浦盛将の跡を継ぐ。 元治元年(1860)天狗党の乱に際しては藩兵を以て隣境を守ったことから、以後も事有るごとに監軍を勤め度々賜物あり。伊勢崎藩九代藩主酒井忠彰公、姫路藩十代藩主酒井忠邦公の剣術指南役も勤めたとされる(『上毛剣術史 下:上毛剣士総覧』) 維新の際は東京市中取締を勤め、程なくしてこれを辞し藩政の改革に尽力して怠らず、伊勢崎藩九代藩主酒井忠彰より"勞"の名を賜った。 門下数百人、後藤一雄・五十嵐来助・畑野連次・鈴木孫八・横堀庄八・大澤要作などの高弟を輩出した。明治29年3月14日(1896)歿、享年75才。
掲載史料及び参考資料
『澤浦翁壽碑拓本』個人蔵
『上毛剣術史』諸田政治著

澤浦翁壽碑拓本

 尚武

澤浦翁壽碑  従四位子爵酒井忠彰篆額
翁名盛道通稱務後改勞本性田島氏後冒澤浦氏
考諱直道妣小久保氏以文政五年九月九日生於
上野國佐位郡保泉村自幼嗜武弱冠遊江戸入片
山義宣門學一圓流剣法後就男谷信友學直心影
流鍛錬數年遂究其蘊奥嘉永三年繼舊伊勢崎藩
士澤浦盛将君家配以其女在江戸邸召為近侍尋
為劒道師範元治元年水藩黨起隣境被害者多翁
以藩兵守世良田免其難爾後毎有事翁為監軍由
是數賜物維新之際為東京市中取締末幾辭之専
釐革藩政盡瘁不懈侯賜名勞盖異數也翁性剛毅
端正進退擧動一以至誠處之是以常蒙殊遇翁無
子養同藩菊池氏男三二配其女家道益隆令也齢
踰古稀矍鑠如壮年鶴髪童顔日夕諷詠點茶以為
樂不復顧世事談偶及武事意氣勃發有馬伏波之
風可謂居治不忘亂者矣頃者親戚及門人等相謀
建壽碑瀧原美次属文於余因叙其概云
明治二十七年一月  東京 佐倉孫三撰
          上毛 瀧原義雄書
               北原信平




翁、名は盛道、通稱は務、後勞と改む。本性は田島氏、後ち澤浦氏を冒す。考[亡父]の諱は直道、妣[亡母]は小久保氏、以て文政五年九月九日上野國佐位郡保泉村に於ひて生る。幼より武を嗜み、弱冠にして江戸に遊ぶ。片山義宣の門に入り一圓流剣法を學び、後ち男谷信友に就き直心影流を學び、鍛錬すること數年、遂に其の蘊奥を究む。
嘉永三年舊伊勢崎藩士 澤浦盛将君の家を繼ぎ、以て其の女を配す。江戸邸に召され近侍として在り、尋いで劒道師範為り。
元治元年水藩黨を起し隣境に害せらるゝ者多し。翁、藩兵を以て世良田を守り其の難を免[まぬが]る。爾後、事有る毎に翁、監軍為る由、是により賜物數あり。
維新の際東京市中取締為り、未だ幾[いくばく]ならず之を辭し、専ら藩政を釐革[りかく]し盡瘁[じんすい]して懈[おこた]らず、侯に勞の名を賜る、盖し異數也。
翁、性は剛毅端正、進退擧動一、至誠を以て之を處す、是を以て常に殊遇を蒙る。
翁、子は無く同藩菊池氏男三二を養ひ、其の女を配す、家道益[ますます]隆令也。齢古稀を踰[こ]へ矍鑠[かくしゃく]として壮年の如し、鶴髪童顔、日夕諷詠、茶を點て以て樂為り。また世事を顧み復せず、談[はなし]偶[たまたま]武事に及ぶや意氣勃發、有馬伏波の風と謂ふべし、治に居りて亂を忘れざる者なり。
頃者[頃日]親戚及び門人等、相謀りて壽碑を建つ。瀧原美次、余に文を属され因りて其の概を叙すと云ふ。




『澤浦翁壽碑』は、鹿島神傳十四代にして伊勢崎藩の剣術師役 澤浦周吉翁の長寿を祝し、明治27年1月(1894)親戚・門人等によって建てられた碑である。ときに澤浦翁73才。古稀を越えてなお矍鑠とした様子が碑文に記されている。文中の有馬伏波之風とは、矍鑠の故事、馬援という後漢の武将になぞらえて云う。こゝに掲載したものは拓本で、澤浦周吉翁の高弟 後藤一雄が所蔵した。
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