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大江先生基業碑銘




『大江先生基業碑銘』個人蔵

大江君義時通呼仙兵衛肥
前佐賀人也善手搏師事關
口柔心勉彊不息殆廢寝食
自命其術曰楊心流肥之鎮
曰阿蘇山其下多乞兒毎遊
阿蘇山齎錢食與之振饑賙
急如恐不及乞兒負携歸者
無數其遊筑之高良山亦如
之君造意死活之術欲試之
者久矣語乞兒曰我有一術
暫死而乍活汝能當我試哉
僉同辭曰微壺餐之賜吾其
土乎願獻身以報徳因試之
居于肥筑通計七年能得其
術後世論死活者以君為祖
弟子四方輻輳至三千人終
身不仕元禄八年三月十一
日以壽卒于家武光重格
余之姉丈也其祖信重師
事君為貫首弟子亦以
搏鳴于天下號曰柳風
軒弟子八千人奕世襲
業至重格亦克纉厥緒
從君之殞歿天時斡旋于
茲百年矣以道之所出将
記其事以碑之武光氏之
先塋在湯島天澤寺乃
建石於其側使予通永銘之

 銘曰

  阿蘇之山  高良之峯

  死乎活乎  覃思維攻

  後世為憲  施而成功

  厥術之精  今聞永隆


     越通永謹識并書

     武光重格謹建
        (印)






余之建碑也弟子為謝受業
之渥恩請償建石之費其志
之款誠不可辭焉因許之記
其名姓以傳諸無窮

 門人名姓

    佐藤十郎左衛門重堅
    山村縫殿介  弘毅
    前波本五郎  長陸
    手塚貞蔵   盛章
    入江栄蔵   直功
    山本直吉   長孝
    關 幸蔵   和暢
    中根蔵太   幸教

    坂本唯五郎  明光
    大岡千蔵   之祥
    交野太右衛門 直由
    越智幸造   通清
    大平信十郎  成與
    福永整五郎  之綱
    清水五助   和候
    伊藤源吾   幸佐
    武光貞之丞  重任
    原田忠四郎  政共
    山村求馬   弘尚
    三村元次郎  茂親
    同 専蔵   延親
    小川彦太郎  美三
    酒井兵五郎  忠正
    三田村辰之助 行貞
    前波鐵蔵   長善
    山崎傳四郎  信之
    山崎政五郎  高情
    藤井岩三郎  久永
    井上源吾   義徳
    佐藤大治郎  重行
    飯島萬蔵   成章
    舟坂圓次郎  利直
    望月貞六   幸保
    中島宦三郎  保武
    下振吉十郎  政豊
    武光新治郎  隆速
    岩崎龜五郎  豊久
    前波亥佐五郎
    磯 源六   貞吉
    關口良蔵   直
    吉野造酒之丞 政春

    小川彌八郎  義孟
    福井七蔵   保定
    上林市五郎  義遵
    佐藤重三郎
    中岸小十郎  堯昭
    田中政太   忠久
    高須九十九  信行
    土居又之丞  清睦
    田中幸悦   喬良
    霜田宇八   保宣
    町田段蔵   為行
    遠藤銀悦   信栄
    霜田文蔵   幸正
    白石又次郎  義虎
    平野尺十郎  吉勝
    入江彌喜太  郷益
    川合源左衛門 長継
    太田平治兵衛
    吉田久兵衛  豊光
    松波仁右衛門 廣房
    杉崎郡治   友教
    中岸小右衛門 昌知
    間下吉右衛門 辰胤
    岡本蔵之進  全門
    中尾九右衛門 義久
    艸野直治   之行
    久保清七   利友
    間下常助   辰常
    岩城徳左衛門 朝睦
    和田橘蔵   是方
    早木庄太夫  則寛
    西村元吾   元通
    山本庄左衛門 元運

    河合久太夫  彛
    廣瀬左仲   益秀
    艸川左登馬  直知
    井上季七   光紹
    溝口恒吾   伊信
    中村金助   常章
    前川栄馬   儀房
    青木儀兵衛  利貞
    納所孫九郎  清幸
    保木政五郎  高豊
    池内為之助  政貫
    岡部有衣之助 元澄
    大野岩衛   政吉
    荒木要助   剛寛
    川杉左次大夫 安通
    山岡幾三郎  尹淳
    小繼傳治   景行
    飯島周馬   勝正
    高槻丹治   苗雅
    丹羽左仲   長池
    目黒彦九郎  孫俊
    山出左門   貞堅
    北野雅樂五郎 直寛
    中山藤右衛門 熈典
    
    
   武光平太左衛門重格
      (印)

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大江先生基業碑銘

 〇 書き下し
大江君、義時、通呼仙兵衛、肥前佐賀人なり、手搏を善くす、關口柔心に師事し勉強息まず、殆ど寝食を廃す、自ら其の術に命して楊心流と曰ふ、肥の鎮阿蘇山と曰ふ其の下に乞兒(こつじ)多し、阿蘇山に遊ぶ毎に錢食を齎(もたら)し之を與(あた)ふ、振饑賙急、恐るゝが如く乞兒に及ばず、負い携へ帰す者無数、其れ筑の高良山に遊ぶことも亦たかくの如し、君が造意の死活の術、之を試さんと欲する者久し、乞兒に語りて曰く、我れに一術有り、暫く死して乍(たちま)ち活きる、汝(なんじ)能く我に當てを試さんや、僉(みな)同じく辞して曰く、壺餐の賜なかりせば、吾其の土、献身報徳を以て願ふ、因りて之を試す、肥筑に居ること通計七年、能く其の術を得、後世死活を論ずる者は、君を以て祖と為す、弟子四方に輻輳し三千人に至る、終身仕えず、元禄八年三月十一日寿を以て家に卒す。
武光重格、余の姉丈なり、其の祖信重、君に師事し貫首弟子為り、亦た以て天下に鳴り搏つ、號して柳風軒と曰ふ、弟子八千人、奕世襲業し重格に至る、亦た克纉厥緒、君の殞歿従(よ)り天時斡旋し茲に百年、以て道の出づ所、将にこの碑を以て其の事を記す、武光氏の先塋(先祖の墓)湯島天澤寺に在り、乃(すなわ)ち其の側に建石し、予通永之を銘せしむ。

余の碑を建つるや、弟子受業の渥恩に謝せんが為償いを請い、建石の費へ其の志の款、誠に辭すべからず、因りて之を許し其の名姓を記し、以て諸(これ)を傳ふること窮り無し。

 〇
大江仙兵衛が歿した元禄八年より百年を経て此の碑を建てた「從君之殞歿天時斡旋于茲百年矣」との文言によれば、『大江先生基業碑銘』が記されたのは寛政七年の頃でありましょうか。

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