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『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』筆者蔵,
2019.5.6 窪田清音の書簡
今回は,幕末における兵学の権威 窪田清音の書簡を取り上げます,いわゆる史料紹介です,

窪田清音,江戸時代の武藝に少しでも関心をもった人ならば聞いたことぐらいはあると思います,

窪田清音は禄二百五十俵[役高千五百俵,文久三年時]を食む幕府の旗本にて,武藝諸流を極め,なかんずく山鹿流の兵学を以て世に知られた人物です,天保から慶應にかけて活躍し数多くの著書を残しました,

清音が学んだ山鹿流の兵学は,承應明暦のころ在来の軍法流儀を学んだ山鹿素行によって建てられた流儀です,素行はそもそも学者でありましたらから,山鹿流は兵学と経学とを授け,精神面を重視するといった特色がありました,各藩に傳播し広く世に行われ門下末葉数多あり,幕末に至るまで隆盛を誇りました,

山鹿素行のときより時代は下り江戸時代後期になると,山鹿素水という人物が現れます,素水は弘前藩の士にて素行より数えて六代目にあたり,且つ窪田清音の師でありました[窪田清音は黒野義方にも学ぶ],

山鹿素水の山鹿流は,素行以来の流法を固守していたわけではなく,当時の外寇の影響を受けて流法を改革していた様子です,
嘉永二年十一月,山鹿素水は幕閣へ海防の儀につき『外寇御守衛之儀ニ付乍恐謹而愚意之趣奉申上候』という献策をしており,こゝに当時の素水の考えが示されていますので一部を引用します,
此の度海備の儀に付きても諸家様御備向より総ての軍議は其の藩の門人共へ仰せ付けられ候事に付き,私儀は實に以て晝夜寝食も安からず,甚だ以て心熟仕り候, 其の故流祖の時代よりは二百年余に相成り時勢も大變化仕来り候得共,末流の者兎角固陋に相成り,偏に流法の規律を守り百戦凶悍の變夷に對し候ても中古本朝の手詰の剛戦を主と仕り候て足軽・長柄・騎馬の三兵を定法通り組合備は必ず五行座備に仕り候事と固り相心得候て,時勢の變化相當を辨へ申さず,一向に運用御用考弁之れ無く候故, 萬一の時節奇巧熟練の火炮に打ち砕かれ一戦に大敗を引き出だし天下国家の御大事に及ぶべき哉と如何にも心痛仕り候事,」と,
このようにペリー来航以前,山鹿流の正流を汲む山鹿素水本人が,素行より二百年余を経た今,流法が既に時代遅れとなっていることを明確に意識しており,各藩に仕える山鹿流の門弟たちが流法の規律ばかりに拘泥するさまを歎き,国の行く末を憂慮しています,
またこの献策の中で素水は,異国の情勢・考え方を踏まえ,こちらから異国に仕掛けて戦端を開かせる口実を与えるのは得策でない,しかし穏当に済ませるため薪水を給与していることが異国の侮りを招いており,日本が異国の武威に屈したと認知されていることを改めねばならない,また異国が江戸周辺の海岸から上陸して陸路を攻めてくる場合に備えて要地々々へ諸大名を配置すべき等といったことを提言しています,

山鹿素水の傳を承けた窪田清音もまた,祖山鹿素行以来の流法に泥んではおらず,たとえば嘉永二年十一月に窪田清音が著した『練兵新書巻』を見ますと,
近年西洋の砲術いさゝか世に行はれ,異國の大砲を鋳造しカノン(迦礟)・ホーイッスル(忽礟)・モルチイル(臼礟)類を貯へ,又はカラヘイン(重手銃)・ケフヱトル(火槍)等を製し試習する者あり,いまだ其の数多からずと雖も,古へに無きものを嗜みて其の業をならはして要器とし,又類品の弾丸を用ゆ, 近年西洋の國々には争戦止む時なしと聞き,又清國にも鴉片焼亡を起原として英異と戦ふに異賊の頼みとする所は専ら巨礟と軍艦の堅固なるとなり,其の争戦今年に至る迄清人全き勝を得ず,清國に於ても御國と同じく昇平既に二百年に及べり,故に武事に怠り不虞の備へ薄く,且つ奢侈を事として文弱の風専らに行はれ,兵を練磨することなし,故に防禦すると雖も礟臺を砕かれて大砲を奪はれ,又城塁を破られとらるゝに至る,」と,
近年の清國の例を引き合いに出し,日本は直ちに火砲に重きを置く武備を為すべきと説いています,[『練兵新書巻』は弟子のために記したものです,]

また,砲の重要性について清音がよく認識していたことは, 同書の「軽卒弓矢を廢して即今より砲のみを練磨なさしむべきこと専要ならん,此の先見は学者宜しく考へ察すべし,西洋の諸異は既に砲を以て神器とし其の業を練磨し近年精熟に至れりと聞く,」や, 「必ず一度は砲多き方は勝,砲少き方は敗するが如きの形勢とならん,」といった将来を予見した記述からも明らかです,これらは旧来の山鹿流の流法を脱却した考え方です,

以上のごとく『練兵新書巻』を見るかぎり,窪田清音は異国の情勢を知り,軍艦や火砲の重要性を充分に理解していました, そして日本が危機的状況に陥っているにも関わらず,幕令が行き届かず,士卒は頽廃を極めている現状をいかにして改めるべきか,直ちに為すべき軍備とは何かについて一見識を持っていました,
嘉永二年当時,既に斯くの如き先進的考え方を持っていたことから,その後の情勢にも充分に対応し,異国への備えを講究したものと思われます,


以上,窪田清音が外寇・海防に対してどれほど見識があったのか明らかにしなければ,今回取り上げる書簡の意味も今一つ伝わらないため,長々と前置き致しました,

さて,今回取り上げる窪田清音の書簡は,松代藩の士 飯島勝休へ宛てゝ認められたものです,それでは読んでみましょう,
『維新史料綱要』維新史料編纂会
『幕末海防史の研究』原剛著
『勝海舟全集』勝部真長・松本三之介・大口勇次郎編
『日本兵法全集5:山鹿流兵法』石岡久夫編/有馬成甫監修
『大日本近世史料:柳営補任』東京大学史料編纂所
『新訂寛政重修諸家譜』続群書類従完成会
『江戸幕臣人名事典』熊井保編
『寛政譜以降旗本家百科事典』小川恭一編
『日本史籍協會叢書134:鈴木大雜集』
『練兵新書巻』窪田清音著/依田秀實写 筆者蔵
『東京市史外編:講武所』安藤直方著
 
 
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』部分,筆者蔵,
1.年代比定
初めに,この書簡はいつ書かれたものか?,という点を明らかにせねばなりません,

書中に「追々年とり近来七十七才に相成り,」と記されているから簡単,寛政三年の生年に照らして「慶應二年」と推定できそうです,

しかし,そうでしょうか?,
仮に「七十七歳=慶応二年」として書面を見ると,「御用多の本勤御持筒頭勤の義,泊り斗り相勤め,」という点に引っ掛ります,
というのも,窪田清音が「御持筒頭」を勤めていた時期は,『柳営補任』によれば文久三年正月十三日から元治元年九月廿日の間,すなわち慶應二年は「御持筒頭」ではないため,「七十七歳=慶応二年」という仮定は崩れます,

そこで『江戸幕臣人名事典』に目を通すと,「亥七十六歳」という記述を見出せます,「亥年=文久三年=七十六歳」,これは生年でなく官年というものです,
官年に基づいて,仮に「文久四年=七十七歳」とすれば,先ほどの「御持筒頭」を勤めた期間に該当します,また「御本丸二丸炎上,」や「御上洛被仰出,」といった記述も文久三年の出来事として符合します,表向きは官年で通していたということでしょう,

以上の事から,本書簡は「文久四年」に認められたと推定できます,
さらに,書中の「當正月廿八日初めて佛参に出で候斗り,」という文言を考慮しますと,実際に書簡が認められた日付は「文久四年正月廿八日」以降と考えられますが,書簡自体は「文久四年正月三日付」にて認められたということです,

前置きはこの辺にして,いよいよ文面について見てみましょう,
 
 
左:『浦賀猿島上総房州台場絵図』国立国会図書館蔵,臺場筆者註,/右:Google地図,筆者註,
2.御備場の見分御用
上に掲げた『浦賀猿島上総房州台場絵図』には,「近海御備場見分御用」によって窪田清音が見分した場所を書き込んであります,左=北です,「鋸山」と「浦山」はもっと南にあります[「Google地図」参照],

近海御備場見分御用」とはどういった御用でしょうか?,そのまゝ読むと「[江戸]近海の御備場を見分する御用」です, 何を見分したのでしょうか,具体的史料は見当たりませんが,ペリー来航以前,幕府は「近海御備向見分御用」という名目にて,勘定奉行・目付・老中・鉄炮方・浦賀奉行・代官等を度々派遣しており, このときの御用向きから推測すると,「近海御備場見分御用」とは外寇に備えて防禦の要地をを固めるため兵士を置く場所「御固向」,その人数の配分「御固人数割」,異国舩を砲撃するための「御臺場」,その火砲火力の配分「御筒配り等然るべき場所」等を見分していたと考えられます, 今回の窪田清音の場合は,従来の「御備向」を見直すことに眼目があったと見るべきでしょう,そしておそらくは二〜三人がこの任に当ったと思われます,

『浦賀猿島上総房州台場絵図』中「籏山」の直ぐ右に「観音崎臺場」があります,この辺りと向う岸の「冨津 ふっつ」辺とを結ぶ線は,江戸湾防禦上,最も重要と認識されてきた要害の地です,
すなわち,「近海御備場見分御用」を仰せ付かった窪田清音は,江戸湾防禦の要「観音崎〜冨津」の臺場群辺りとそれより南の臺場とを視察する任を与えられたわけです,このことから幕閣は彼の兵学の知識と経験とに期待していたものと察せられます,

これ以前,湾口には多数の臺場が築造され,異国舩に備えていました,しかし通商條約締結後,「観音崎〜冨津」の線より南はほとんど顧みられなくなり,かわって内海の品川辺の臺場が重要視され活発に築造されるようになりました,

文久三年三月廿日,窪田清音は「近海御備場見分御用」を仰せ付かり,同月晦日昼頃に御朱印を渡され直ちに見分のため出立しました,
「相模の浦賀西・東」を初め,「猿嶌邊の海陸」「上総の竹か岡」へ廻り,「冨津邊の出洲・隠し洲左右舟路の前後」を廻り,それから「安房の海岸」と「房総の境,鋸山前後」,さらに「浦山」へ乗り戻って、再び「旗山邊」「猿嶌」を一周して「浦賀」へ立ち帰り,一泊して取り調べ,そして四月十八日江戸に到着,十九日には登城して届けをし御朱印を返納しました,御朱印はどうやら身元証明と通行証を兼ねたものだったようです,

御朱印を返納した後は,調査結果をまとめ「進達書・繪圖面等」を提出しました,これによって清音は後日「海陸御備向御用掛」を仰せ付かります,

清音が見分御用を勤めたこの時期,幕閣は江戸湾防禦の見直しを計っていたようで,文久三年五月,それまで熊本藩が警衛を担当していた「西岸(観音崎辺)」の警衛を佐賀藩・松本藩・佐倉藩に替え,「品川臺場」の警衛についても同年八月〜十月に四ヶ所の担当藩を替え,「神奈川・横浜」の警衛も担当藩を大幅に替えるなどしています,

窪田清音が幕府へ提出した調査結果がどのようなものだったのか?,明らかでありませんが,報告の後ち「海陸御備向御用掛」に任じられていることからして,幕閣に認められる内容だったと考えて良さそうです,

然れども,窪田清音の本勤は「御持筒頭」でしたから,「海陸御備向御用掛」と兼勤ということになります,これによって本勤の方は泊り番を専らすることになり,朝から夕方までは「海陸御備向御用掛」を勤めることになりました,これがよほど忙しかったらしく,「昨三月廿日前文近海見分仰せ付けられ候後,いまたに手透之れ無き次第に付き,」や「去三月廿二日後は書籍も壱枚見候寸暇も之れ無く,困労斗りいたし申し候,」と,當時の繁忙ぶりを伝えています,
臺場とは,異国舩を砲撃するため沿岸に設けられた砲臺場を指します,臺場は地形に応じて設計され,敵船からの砲撃を防ぐ外壁を回らし,周辺に火薬庫や人足寄場などが併設されました,
 
左:『御城御玄関より大下馬迄之圖』国立国会図書館蔵,筆者註,/右:Google地図,筆者註,
3.御持筒頭の本勤
上に掲げた『御城御玄関より大下馬迄之圖』には窪田清音が本勤として勤めていた「大手三の御門」を,「Google地図」には「大手三の御門」と「新規下乗所[場所不明,推測地,]」を書き込んであります,

窪田清音は昼から夕まで「海陸御備向御用掛」を勤め,暮れ六つ[午後五時から七時]から朝四つ半[午前十時半から十一時]までは「御持筒頭の本勤」,すなわち門番に従事していました,

「御持筒頭」の勤めは,同役が七人いたと記されています,
推測するに,「御持弓頭」「御持筒頭」の七人が該当するかと思われます,
  御持弓頭 内藤矩正[63歳] 市橋長賢[45歳] 水野勝賢[60歳]
  御持筒頭 門奈直知     松前廣茂[78歳] 和田惟明[55歳]
       窪田清音[76歳]
窪田清音は高齢ですが,さらに高齢の人物もいました,「頭」という職分ゆえ高齢の人物が多かったのかもしれません,

文久三年十二月までは「大手三の御門」の当番をこの七人で勤めていました,おそらく二人から三人が交代で休みをとったものと思われます,

同年十二月廿一日になると,将軍上洛の御供として当番七人の内四人が旅立つことになります,
またその上,残された江戸勤め三人の内一人が病氣のため引っ込み,たった二人で当番を勤めることになってしまいます,
このため余程忙しかったらしく,二日続きの泊り番にて帰宅の間が半日も無いほどだった,と清音は記しています,

そのような忙しい勤務状況を上役が考慮したものか,火事の後に新設されたと思しき「新規植溜御屋敷下下乗の方」の勤めは御免となり,隔日の勤めとなったところ,病氣の一人も復帰しようやく三番勤めとなり,やゝ忙しさも緩和したかに思われましたが, 清音は御供で旅立ったあとの留守組を二組与り「御切米御扶持家事万事引き受け」世話もしていたゝめ,「十二月廿一日より御城に斗り詰め切り,」という勤務の状況でした,

結局,文久三年三月廿日「近海御備場見分御用」を仰せ付かって以来,繁忙のまゝ日々を送り,文久四年正月廿八日に初めて佛参に行ったきり,ほかには何の余暇も無いほど勤めが忙しく,書簡を差し出すことさえ出来なかったと事情を説明し,遅れに遅れた非礼を詫びるなどして,この書簡を締め括っています,
御持筒頭とは,平たく言えば将軍直属の鉄炮隊の隊長であり,平時は江戸城本丸の「中之門」と西丸の「中仕切門」,二丸の「銅門」などの警備に当りました,およそ四組で固定されていて,窪田清音の場合は「與力十騎,同心五十五人,」を預かる頭職でした,

窪田清音の書簡を読んでみて,いかゞだったでしょうか?,
武藝者としての面ばかり注目されてきた人物ですが,その一方幕府の海防に携わり,高齢にもかゝわらず繁忙な日々を送っていた,知られざる一面を知ってもらえたなら嬉しい限りです,
 

『伊勢貞丈書付:宝暦辛巳秋九月望日付』筆者蔵,
4.貞丈師の真筆
『窪田清音書簡:文久四年正月三日付』に記されていた「貞丈師の真筆,又々かきすて物のはし」とは,上に掲げた書付のことです,
窪田清音と飯島勝休は同じ故実家同士,なにか伊勢貞丈の筆跡が欲しいと頼まれていたのでしょう,

佐橋佳栄,この人は村上正直の次男,
村上正直は徳川家宣公に仕え,御家人の身分から累進し千五百五十石を知行した旗本です,
次男として生れた佳栄は,同じく幕府の旗本 佐橋佳周の遺跡を継ぎ,御小姓組に列なりました,『伊勢貞丈書付:宝暦辛巳秋九月望日付』には「同僚」と記されています,

佐橋佳栄はある日,先祖伝来の馬鎧馬面のことを伊勢貞丈に語り,これを聞いた貞丈は是非とも見たいと佳栄に乞いました,
願いが叶って馬鎧馬面を実見し作図して,後日この通りの物を作って馬に装着し騎乗したいものだ,と貞丈は記しています,

この書付,元は馬鎧馬面の図に附属したものと思われます,