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『放銃不易流大目録:貞享五年六月吉日付』筆者蔵
2019.4.5 放銃不易流の序
今回は「草書」で書かれた「序」を取り上げたかったのですが見付かりませんでした,というわけで「放銃不易流」の「序」を取り上げます,
不易流とは,稲富流や井上流といった古い流義よりも時代は下って,延宝頃に成立した炮術の一派です,

「放銃不易流」について,『増補大改訂 武芸流派大事典』(*01)の中に「延宝ごろ、仙臺の人、楽山人閑斎が流祖であるがひろまったのはその伝をうけた武内十郎左衛門頼重からである。」との説明がなされています,
この説明はいかゞなものでしょうか,結論から申しますとこれは明らかな誤解であります,

誤解たる所以は,楽山人閑斎という人物は『不易流大目録』の「序」を記した人物であって,流義を開いた人物ではないということです,
同書の「序」において,楽山人閑斎は己の郷に客としてきた竹内頼重の炮術を実見し驚嘆したこと,目録の序を依頼されたことを述べています,

つまり,どのように読んでみても,楽山人閑斎が「放銃不易流」の流祖である筈がなく,また各時代における同流の指南役の記録を見ても,竹内頼重[後に武内と改める]を流祖としており,楽山人閑斎が流祖であるといった記述は一つとして見当りません,

考えるに,『武芸流派大事典』の編集は広汎の資料や文献を慌ただしく編んだものですから,裏付け調査をする暇がなく,こういった誤解も看過され掲載されたのでしょう,
  
それでは楽山人閑斎とは何者なのか?,
『銃砲史研究』(*02)の不易流の項に仙臺地方の系図が掲げられており,竹内頼重の門弟の列に「上野景元(号閑斎)」の名が認められます,
性急に判断すれば,この者こそ「序」を記した楽山人閑斎かと思ってしまいそうです,

ところが,同じく仙臺の家中に,楽山と閑斎,この両方の号をもつ内藤以貫と云う人物がおります,
内藤以貫は伊達忠宗[仙臺藩二代]に招聘され三百石を賜った学者にて,忠宗・綱宗・綱宗の三君に仕え,元禄五年に歿しました,

『不易流大目録序』は,前者の不易流門弟にして仙臺家中の「上野景元(号閑斎)」か?,後者の仙臺家中にして高名なる学者「内藤以貫(号楽山・閑斎)」か?,
竹内頼重がわざわざ流儀の「序」を依頼するということは,学者であり楽山・閑斎両方の号をもつ内藤以貫であったと考えるのが妥当かもしれません,


さて,こゝからは本題の『不易流大目録』の「序」を取り上げ,放銃不易流の始まりについて読み解きます,
*01 『増補大改訂 武芸流派大事典』綿谷雪・山田忠史共編 1978
*02 『銃砲史研究』日本銃砲史学会編 1968〜
 

『放銃不易流大目録:貞享五年六月吉日付』部分 筆者蔵
以前取り上げた「日下開山武蔵守流兵法の序」や「夢想次源流兵法の序」にくらべて格段に具体的な内容が書かれていると思います,
そして何より,古典を引用したと思しき難解な表現が多くみられます,迂生ごときでは歯が立たないところも多くありました,そこはおかしな読解になっている筈です,
もっとも『銃砲史研究』に掲げられた訓読においてもずいぶんと不自然な読み方をしており,半端な者に読み解くことが難しい文体なのかもしれません,

上に訓読を掲げてあります「序」のあらましは,
「銃者近世之器也,」から「於今爲尤盛矣,」までに,「銃」というものゝ沿革が掲げられており,
次いで「竹内頼重者奥白河人,」から「亦固兒戯而已矣,」の間に,竹内頼重が不易流を開いた経緯,竹内頼重より聞き取った流儀の主旨などが明らかにされ,その素晴らしさについても説かれています,こゝが流儀にとってもっとも大事な部分です,
そこから一転して「然而猶且盡心於工夫,」からは,「楽山人閑斎」が語り手となります(*03),
白河を去った竹内頼重が郷に来て流儀を披露して人々を驚かせた,仙臺の太守が家来を弟子入りさせるほどの評判であった,また自分は目録の序を依頼されたので病をおして執筆した,
といったことが書かれています,

不易流草創期に成ったこの「序」は,流儀の基本傳書の一つ『大目録』に収められ,以降流儀の滅亡まで各時代各地の門弟たちへ傳授され続けました,
*03 楽山人閑斎の視点へと変る分岐点が今一つ判然としませんでした,竹内頼重が自ら謂うところの不易流の話が一体どこまで続くか明確にし得なかったゝめです, 「亦固兒戯而已矣,」と言い切るところまでが竹内頼重の話だと見えます,そして「是故有非常之人非常之藝,,,」と言うのは楽山人閑斎でしょう, とすればその間の「然而猶且盡心於工夫,,,」はどっちつかずな文句です,尤も竹内頼重の情況を俯瞰した視点ですから,迂生は楽山人閑斎の視点として扱うべきかと思います,
つらつらおもんみるに,「序」というものは客観的な事実を記録するためというより,その流義の素晴らしさを主張するといったことに重きが置かれていると感じられます,今さらな話しですみませんが,
「序」の性質とは元来そういうもので,現実的なところが曖昧でも良いじゃないかという風習があったと思います,

と言ってこのまゝ記事を書き終えると,今一つ不易流のことが分らずじまいです,
幸いなことに,迂生は酒井雅楽頭家の不易流師役文書(*04)をよく読み,不易流のことは少なからず知っておりますので,せっかくですからこゝに若干の捕捉を書き足して置きます,

竹内頼重とは何者か?,
竹内頼重はもともと奥州白河の藩主 本田家の家来にて,弱冠のころより鉄炮巧者の父に手ほどきを受けました,
また,父に学ぶだけでなく八流を研究しその奥秘を会得したと伝えられています,このころ本多家を致仕して白河に引き籠り,さらなる研鑽を積んだとのことです,
そして,炮術と兵学の両術を組み合わせて独自の工夫を加え不易流を創始しました,その噂を聞いた仙臺の太守が良士三人を派遣し,同流を学ばせます,
それからさほどの年月を経ずして,三十九歳の時,『不易流大目録』の「序」を楽山人閑斎へ依頼しました,

「序」が出来るまでの過程を簡単に触れると,こんな経緯がありました,

さらにその後の竹内頼重についても少し丈け触れて置きます,
竹内頼重は幕閣へ仕官を働きかけ,その間伊達家より仕官の誘いをうけるもこれを断り,時の将軍が薨去するや仕官を諦め,折りしも招かれていた酒井家の客となり不易流の奥儀を傳えます,次いで藤堂家に招かれこゝでも奥儀を傳え,その後尾張徳川家に仕官し天壽を全うしました,

後世の不易流は,尾張徳川家においては子孫の武内氏が伝統を守り,譜代筆頭の酒井家においては歴代の師役が盛り立て御流義の扱いをうけるほどの地位となり,また津・久居 藤堂家においては隆盛し家老に至るまで同流を学ぶほどでした,
このほか流祖が草創期に流義を伝えた仙臺伊達家や,後に伝播した松代真田家においても同流は相伝されております,


今回読解した『放銃不易流大目録』の「序」は,具体的な内容を含むものゝ,そこはやはり傳書の「序」という性質からして,粉飾に重きを置くという姿勢が見て取れます,
「序」の内容をできるかぎり正確に読み解くことは,これ単独では為し難く,やはり何らかの史料によって情報を捕う合う必要がありそうです,
*04 酒井雅楽頭に招かれ客となった竹内頼重は,同家の士古川正光へ不易流を傳授し,奥儀を傳えました,これ以降,酒井家においては連綿と不易流が行われ,歴代の師役は家祖古川以来の文書を師役送りの扱いで受け継ぎました,