(c) 2014-2017 武術史料拾遺 All rights reserved.

林崎甚助流居合の傳書

林崎甚助流居合免巻
万延元年−慶應四年
渡邉量平藤原重綱−[戸田]忠恕

宇都宮藩主戸田忠恕公に傳授される筈であった四巻の内の一巻。
渡邉重綱、文政元年正月元旦生れ、宇都宮藩に住す。講究する所の武技およそ十流、皆な許状を得る。兄重貞が歿し其の子猶幼し。天保九年、藩主は重綱に命じ其の後を承け直心影流及び林崎流抜刀術師範と為す、年二十一。 万延元年藩主忠恕公への教授の命を受く(*1)。維新廃藩の後、武術衰頽することを重綱は深く憂い、明治十三年同志と謀り尊武館を設け徒を集め教習し斯の道振う。 明治十六年宮内省中の済寧館に於いて天下の名手集まり武技を演ず。重綱また召され辱くも天覧を賜る、栄と謂うべし。明治三十四年大日本武徳会栃木県支部挙行発会式に総裁小松宮殿下親臨、重綱八十四、矍鑠として壮者の如く抜刀術を演技し賞を賜る。 重綱、常用する所の刀は長さ三尺二寸、重さ一貫匁と云う。明治三十五年十二月十三日歿。 重綱、氣力人を兼ね門人を教導すること懇々として倦まず、執贄者三千五百余人、平素 敬神愛國の志し存り。大社教少講義に補せらる。

香原又兵衛尉昌貞
 宇都宮藩士、鹿島神伝相伝十二代。赤司郡司兵衛ゟ相伝。
大喜多雅平元信
 宇都宮藩士、鹿島神伝相伝十三代。香原又兵衛尉昌貞ゟ相伝。
渡邉倫平重貞
 宇都宮藩士、鹿島神伝相伝十四代。藤川弥司郎右衛門貞・大喜多雅平元信ゟ相伝。

掲載史料及び参考資料
『林崎甚助流居合免巻』個人蔵
『直心影流目録』個人蔵
『直心影流添状』個人蔵
『直心影流免巻』個人蔵
『野州流派剣術の研究』植田俊夫著

*1 「渡辺先生之碑」の翻刻には誤字が少なからずあり、こゝは「万年元年」と記されている。「万延元年」の誤字か。それに続く「藩主忠烈公年甫十三」の「忠烈公」は「忠恕公」の誤りか、「年甫十三」は「正月十三日」の意では通じず、忠恕公の年齢が十三なのかとも思われるが碑文を実見しなければ答えは出そうにない。

林崎甚助流居合免巻





林崎甚助流居合免巻
 林崎甚助流
拂太刀
矢筈切
切廻
入違
切上
 已上五箇條表也
突倒
飛違
半抜
押太刀
面打太刀
 已上五箇條右脇也
開討
添討
脇坪
押太刀
介錯太刀
 已上五箇條左脇也
 右拾五箇條表太刀也
討太刀
請太刀
 已上二腰向太刀
右柄留
左柄留
前柄留
眉間討太刀
 已上四箇條柄留也
  柄取勝負
扱返
捻返
骨逢
足引
無明當身
大小柄取
 已上六箇條柄取也
  人質小具足之事
横脇差
立脇差
扣脇差
 已上三箇條也
小尻返
前押倒
左半抜
前半抜
後半抜
 左右前後遠物討太刀
  附山越敵討
組合之太刀
柄鞘留
遠鞘留
近鞘留
立會太刀
同柄留
胸柄抜様
太小詰
戸脇之太叓
橋詰細道
詰座敷人込
柄六寸之大叓
貮人詰
三人詰
四人詰
両手之大叓
八人詰極意
 已上口傳
右林崎甚助流居合就御
望五拾三箇條口傳等不残
令相傳也何國而茂執心
之輩於有之者神文之上
御傳授可有之候為親子
兄弟共無神文而御指南
有間敷者也

   元祖
    林崎甚助尉

    飯田嘉右衛門
        政重
   武州岩村
    光明院
        信安
    鈴木貞右衛門
        重利
    篠崎五郎右衛門
        英長
    半田傳八郎
        信重
    篠崎権兵衛

    香原又兵衛尉
        昌貞
    大喜多雅平
        元信
    渡邉倫平
        重貞
    渡邉量平

    藤原重綱


 奉
忠恕公
TOP