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岡田十松の書簡

羽前村山郡に於ける岡田十松の活動は、平川新著『庶民剣士と農兵』に拠れば文化六年(1809)と文久年間の二度が確認されています。
これを年代よって見れば、文化六年(1809)の岡田十松は初代十松吉利、文久年間の岡田十松は四代十松利惇が該当するでしょう。すなわち、初代と四代の活動は確認されているわけですが、その間の活動は確認されていません。
はたして初代と四代の間、空白の期間を埋める岡田十松の書簡三通が羽前村山郡太田家に所蔵されていました。私が所蔵する岡田十松書簡は四通あり、太田直二郎という人に宛てられたものです。太田[幾右衛門]家は羽前村山郡後澤村の名主を勤めた家柄で、太田直二郎はその太田幾右衛門の弟かと推測されます。
つまり土地の有力者の縁辺というわけで、同地において活動する岡田十松が頼りとしていた人物なのでしょう。そういったことが書簡から伺えます。
あらゆる条件を考慮し、この岡田十松が何代目なのかを推し量るに、おそらくは三代十松利章ではないかと思います。いずれも同一人の筆跡です。弘化から嘉永の頃に認められたものでしょう。然れども史料が無いため確たることは分っていません。

掲載史料及び参考資料
『羽前太田家文書』個人蔵
『庶民剣士と農兵』平川新著
『全国諸藩剣豪人名事典』間島勲著

岡田十松書簡 3月21日

一翰呈啓仕候、日増ニ
長閑相成候處、愈
御安泰被成御座候由
珍重不斜奉存候、扨
先般与りハ永々
不成一片御懇命
相成候段、誠ニ以
難有仕合奉存候、右御厚
禮申述候、且
尊兄様ニも此程者
御用御他行之處
無滞近頃御帰之趣
奉畏候、速時御禮
参上可仕候處、拙者山形
山邊方江少々相談
罷越漸々昨夜帰宿
仕候、彼是御無沙汰
相成奉恐入候、且谷地方へ
引移り之義も先方ニ
少々差支候間、其間
集會為仕度、先般
申合セ當節者天童
山形處々与り出席
致度趣申越候間、何卒
見二初此方ニ拙者
止宿相成候内かならすゝゝ
御出席被下度、是与り
相願度候、尤
尊兄様ニも御多用
ニ者候得とも一両日内ニ
御足路相願度希所候
余者御禮旁乍略筆低
御免可被下候、如斯頓首

三月廿一日 十松拝

太田直二郎様

尚々乍憚
御親様御初へも宜様
御序ニ被仰上被下度奉願上候
此一封拙者兄与り
乍略御筆御禮迄ニ
申上候、是又宜様願入候
先者早々不備

岡田十松書簡 4月30日

一翰呈啓仕候、向暑
相成候處、愈御安泰
被成御座候由、珍重ニ不斜
奉存候、扨過日迄者永々
御懇命罷成居候段
誠ニ以難有仕合奉存候
右厚く御禮申述候、且
出先福嶋方も追々
稽古も盛ニ有之、拙者も
右方へ相尋候處大キニ
門弟一統与り暫くも
稽古致暮候様申聞候、誠ニ
當惑至極奉存候、乍然
五日六日之滞留者可致様
承知いたし候間、尚後便
之節御礼状可申述与
先者取急キ御礼旁
申述候、早々如斯頓首

四月毎日 岡田十松

太田直二郎様

尚々乍憚
御親様御初門弟御一統様
へも宜様御序ニ御風聴被下度
奉願上候、早々以上

以前お世話になっていたお礼にはじまり、「福嶋方も追々稽古も盛んにこれ有り、拙者も右方へ相尋ね候處大きに門弟一統より暫くも稽古致し暮れ候様申し聞き候」と、福嶋地域においても稽古が盛んに行われはじめた様子を伝えています。 「誠に當惑至極に存じ奉り候」とはいえども、岡田十松の満更でもない雰囲気が感じられます。 書面に見られる岡田十松という人は嬉しがらぬ性格なのか、6月17日付の書簡でも「天童方より罷越度与申聞候へとも是と申も格別本望ニも無御座候」と他所の門生のことを云っています。 というのも、太田家の勢力をより信頼していたからこそ、そこは別地域の扱いを一段低く、太田家を一段高く扱い親密さを表わしていたのかとも察せられますが、さて実際はどういう積りだったのでしょうか。

岡田十松書簡 6月17日

三伯申上候、過日見二殿より
道具之處御申聞候義如何
可差上哉、此段伺候

一別以来打絶不得
貴顔候得共、日増ニ暑氣
相強り候處、被為揃愈
御安清被成御座候由
珍重不斜奉存候、扨
先般ハ永々不成一片
御厄介罷成り其上
發足之節も遠方御見立
御送別被下誠ニ以難有
奉恐縮入候、右厚く
御禮申述候、且此度ハ
急ニ又々御當國相越
何角御世話可相成此段
奉願上候、尤心差候處ハ兼而
下●發行仕度心懸ケ
相越候處実ハ何を申も
大暑ニ相成り其内ハ
當門家ニ而養育可相成与
罷在候、尚八月上旬ニ者一ト先
出立可申候、就夫も
尊兄ニも拝覧之上右之趣
申上度日々相待申候へとも
一向御来臨不相成定而
御繁用与察入候、此段
乍略義書中を以て
御様子相伺申上候、且節も
未タ普請ニて兎角
連中も不楚く是与りハ
天童方与り罷越度与
申聞候へとも是与申も
格別本もふニも無御座候
何分此段格別之御心慮
を以て御申越之段願入候
余者拝覧之上萬々
御禮御物語可仕と如斯不備

六月十七日 岡田十松拝

太田直二郎様

尚々乍憚
御両親様御初へも御序ニ
宜様被仰上被下度奉願上候、且
過日道具之様子見二殿へ
委細申述候、御承知相成候哉
奉伺度候、以上

岡田十松書簡 6月22日

鬱陶敷御同前困入申候
被為揃、愈御安健被成
御座、珍重不斜奉恐悦候、扨
過日者御多用之御中
御来臨被成下、誠ニ奉大慶候
右厚く御禮申述候、乍憚
御親様御初へも宜様被仰上
奉願上候、次ニ天童吉田大八初
多人数相越、然處當方
門生之上達を誠ニ恐連を
奈し、是与りハ日々随身
ニて出席可仕間、尚見二殿
御初御出席被下度願入候
尤尊宅へ推参之義も
いつ頃被出哉、是又御様子
相伺度候、且此品如何敷
候得とも呈上仕度御笑留
被下候ハゝ大奉大慶候、尚廿四日
天童家中罷越候間
見二殿御出席を待上候、余者
略義筆低御高免可被下候
早々頓首

六月廿二日 岡田十松拝

太田直二郎様

尚々見二ニ御ゆすり候
道具、御序ニ有之候得ハ、御しん上
申上候、以上

岡田十松書簡封紙

太田直二郎様  後澤ニ而
小山田理兵衛様 岡田十松
        當用平安

壬月十一日夜認メル
 封

[以下異筆]
上山
 篠崎先生より書状
江戸
 岡田十松先生

意助書簡 6月6日

一翰啓上仕候、暑氣
遂且相進候処、益御安泰
被為御厚厭奉南山候、野生
無異之条御放念可被下候
然者岡 先生御儀、過日三日
拙宅江御光来被遊候ニ付
疾々可申上候処、取込ニ紛延引
不悪思召可被下候、先者
右之段申上度、早々以上

六月六日 意助

太田様
  貴下

東根會所差紙 2月29日

[端裏]
戌二月廿八日野試合、夜寒檀原ニ●こと
東根御役所より内々沙汰ニ付参り書付

沢渡後澤辺ニおゐて多
人数打寄物騒ヶ敷儀有之趣
風聞被及御聞、今日御沙汰
之儀有之、右ニ付御談し申度
儀御座候間、此書付御披見
次第御越し可被成候、以上

戌     東根
二月廿九日  會所

沢渡村
 御名主
  米蔵殿

後澤村
 御名主
  幾右衛門殿

神道無念流関係者書簡 文久2年5月

[前切れ]
御一統
奉恐入候、右厚く御禮可申述候

一 當表之御役人向並ニ
京都之散乱一条、誠ニ以
をたやかならぬ事ニ御座候

一 此節御殿山異人住所
普請相成候處、上方さつま
浪人、毛利か有馬か
鍋島か其外拾六人大名
太守公之しりもちニ而
有之由、都合八百人余
の事ニ御座候、さつま家老
大キニ不都合之由、右浪人
与何んそ義論之由ニて
早々帰國之事ニ御座候、此外
當十九日ニ久世大和守殿御出立
ニて昨年御姫様御
御禮としてそれ迄ニ浪人
之一条も兼而御出立ニ相成候
就夫江戸師範之ものとも
御願ニ相成此節私共方江も
御内々御願々ニ相成候處、御断
申上候、然處八丁堀桃井ハ
御供致心得大キニ評ばん
あしく候、此説候儀も成程
尤之次第ニ有之候

一 御大名此節ハ馬上御壱人
ニて御登城ニ有之候、此段も
悪しく候、且異人通行
馬上ニて壱人ニ付御旗本
拾人ツゝ御かためニて町中
通行致し候、此段誠ニ目も
當られぬ次第なかゝゝ
且小野殿ハ誠ニ評ばん宜候
尾張様一ツ橋様越前様
御隠居之處、御免んニ相成候
いつれとも上方大名申合され
異國相嫌ひ相願上候
追々公邊ニも御手當ニて有之由
御三家江も極内々申聞セ候

久世様初而之上京金二拾枚
御時服二拾重ツゝ御拝領、十五日被●出候
十九日出立之處、廿一日ニ相成候、江戸も
今般久世様御上京ニて、弐ツ一ツニ
相定而候由ニ御座候
御油断無之御稽古被成候与奉存候

當表四五日之滞留
誠ニ取込、申上度事ハ
山々御座候得とも、右之
次第故左様御承知之程
希所候、以上

何者が差し出したとも分らない書簡ではあありますが、時事について述べられている点が面白いと思います。
巻頭「當表の御役人向並に京都の散乱一条」とは、安政6年2月の安政の大獄を指し、「島津石見も上京之處」は文久2年5月藩兵約200人を率いて島津石見が上京したこと。 また「當十九日ニ久世大和守殿御出立」は、文久2年5月17日の老中久世大和守広周上京予定を指します。 この老中久世大和守広周の記事に注目すると、本書簡が認められた年代は文久2年5月15日〜18日の三日間に絞られます。
一、拝領云々のことは文久2年5月15日「一 御手自御羽織 金二十枚 時服十 御馬被下 御暇 久世大和守」という『續徳川実紀4 p.314』の記事と一致し、書中上京の延引について触れてはいるが中止のことには触れていないので上京中止の命が下った同月26日以前、更に19日出立の予定が21日になったと述べていることから19日以前であることが明らかとなります。

さて、本書簡で最も注目すべきは、桃井春蔵について述べた「就夫江戸師範之ものとも御願ニ相成此節私共方江も御内々御願ニ相成候處御断申上候然處八丁堀桃井ハ御供致心得大キニ評ばんあしく候」という記事です。
桃井春蔵は、文久2年(1862)12月12日幕府から与力格二百俵で登用され幕臣となり、翌年には講武所剣術教授方出役に任じられました。
書簡が認められたのは文久2年5月ですから、幕臣となる七か月前の出来事です。神道無念流側が断った御供の件を桃井春蔵は承諾したゝめ評判が悪くなったと云うのです。
この件については資料が見当たらず何ら裏付けることは出来ませんが、そういった風聞があったとしても不思議ではありません。

謎の差出人について。
前記のことゝ、「御油断無之御稽古被成候与奉存候」と述べている点などからして、差出人は神道無念流の師範と考えるのが妥当でしょう。さらに『羽前太田家文書』の性格と照らし合わせれば、四代十松利惇が太田氏に宛てたという可能性もあります。

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