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加賀藩射手の文書

ここでは、加賀藩の射手 矢嶋新平に関する古文書数点を紹介する。各文書については後述するとして、先ずは射手というものに触れておこう。
射手(ヰテ)とは字義の表わすまゝ、平士中より弓の操練を専修とする者を定めたのが始りである。
元和・寛永のころは18〜19人、100〜500石の士分で構成されていた。時代が下り寛文のころには足軽の増員にあわせて射手も44人に増員、延宝のころは49人となった。しかしその後は補充がなく文久のころには32人にまで減少、知行の分布も減り100〜200石の士に変化した。
この射手を加賀藩の身分制度に見ると、平士 三階層の三番目の層「三品の士」に位置し、また射手を指揮する射手裁許は平士の二番目の層「物頭」に位置した。
また「三品の士」の大半は小姓・馬廻で構成されており、その中の射手は少数であった。

射手という存在が戦時に担う役割については容易に想像できようが、平時にはどのような勤務であったろうか?
これを知るために、前田利常の射手を勤めた毛利隼之助詮益の著書『拾纂名言記』(天和2年)を手掛かりとする。多くは射手と関係のない主要な出来事についての記録ではあるが、その中に射手に関する記述が一件ある。「御射手は昔より御供・御使・御式臺取次抔、御小将並に仕也。夫迄御射手高知にて馬持数多有し也」。
この事から、射手の平時勤務は「三品の士」に多くいた小姓(小将)と同様であったことが知れる。亦、以前は射手の者が高禄であり馬持も数多いたと付言している。
続いて「右四組(御手廻・御射手・御異風・御小姓)之内にて、射手の内に出頭人多し。御加増・弓の御褒美惣て被下物格別也」とも述べられており、平時においても狩りなどで成果をあげやすい射手が格・禄上昇に有利であったものと推察される。

矢嶋新平の家系は、前田利家公のとき高三百五十石の禄を食んだ矢嶋左次内に始まる。次代平左衛門のとき御射手となり高四百石に加増され、以後御射手を世襲した。しかしその間禄は減らされ、八代目矢嶋新平のときは高百石、九代目矢嶋善左衛門完全もまた高百石を下された。 九代目矢嶋善左衛門は文久のころ、高百石の御射手、御近習番小頭であったことが『加賀藩組分侍帳』に見られ、三之丸の稽古日に於いて吉田流を指南し、弓料五十石も附されていた。

掲載史料及び参考資料
『加賀藩矢嶋家文書』個人蔵
『金沢市史』金沢市史編纂委員会
『石川県史』石川県
『石川県史史料 諸士系譜』津田信成著/石川史書刊行会
『加賀藩組分侍帳』金沢文化協会

   矢嶋新平
安永九年庚子七月八日朝
五半頃松に居り申す大さぎ
雛親同事成るを九間半
斗り、只一筋の御矢にて
首元をおつとりのふしまで
御射通し、此の鷺活鳥に相
成り至て堅固に候、かやうに
活鳥に射留め申すべく候、尤も右の通り
矢箆ぶかに射通し、扨て活鳥に
相成る心得専らに考え射
申すべく候事

文月八日朝

矢嶋新平、安永9年(1780)7月8日朝9時頃、松に居る大鷺の雛親を約17mの距離から只一矢で首元を射通した。そして鷺は活鳥であったことから、このように特に書付を頂戴したものと見られる。
内容から察するに、藩主の御意を伝達したものだろう。
次項の上書に、此の書付を頂戴した経緯が記されている。

安永九年七月七日、御鷹野御供罷り出で御帰りの
時、金谷御殿へ罷り出で候様、竹田喜左衛門殿御申し渡し
扨て金谷へ参り此の御書立、佐々木孫兵衛殿御渡し

時の藩主は前田重教公、直前に狩りの記録があり「6月18日初めて鵜を射留めたるを以て、翌日鵜飼の舞囃子を行わしむ」「6月27日越中高岡附近に放鷹す」「6月晦日於越中中将様鶴御射留、并太鵜親只一筋に御射留」と続く。
『加賀藩史料』を参照したが、本文書の月日に該当する記録は見当らなかった。小規模な狩りであったのかもしれない。

   矢嶋新平へ
御前には三十間にて大
鷺雛親鳥同事成るを
膽先御射通し御矢五寸斗り
入る、又同日二十六間にて鷺の
左の眼を箆中の節まで
御射貫きに候、何れもすなを成る
射前に候間、三十間ちかき
鳥、以後毎度仰せ付けらるべく
手きわよく射留め
御覧に入るべく候事

七月六日夕

矢嶋新平、御前において54.5mの距離から大鷺の雛親の膽先を射通し15cmばかり入る、また同じ日、47mの距離から鷺の左の眼を箆中の節まで射貫き、どちらも素直な射前であることを称揚され以後54.5m内の鳥を手際よく射留め、御覧に入れるよう命じられる。
これが射手にとって非常な名誉であったことは想像に難くない。前項の文書とあわせて、矢嶋新平の手練が並々ならぬものであったことを示している。

   掟
一 弓御執心の方これ有るに於いては、起請文させられ御指南有るべき事
一 師に對し疎略これ無き義は、最前誓詞の趣其の意を得らるべく候事
一 印可遣わさゞる内は、免(ゆるし)御望みの方これ有る共、拙者方御談合これ有るべき事

弓御執心に付き数年相傳仕り候趣、其の意を得られ候条、初めから今に指南せしむ所の
弓道七十一ヶ条の趣免(ゆるし)申し候、深く稽古遂げられ候はゞ、追て印可
傳受せしむもの也、依て許の状
               (印)
 天保十一年正月吉日 吉田左門茂厚(判)

   矢嶋善左衛門殿

矢嶋新平の養子 矢嶋善左衛門完全宛ての掟書。この掟は免許を傳授されたときに課せられた誓約である。
吉田左門は藩主や一門へも弓術を指南する家柄であり御先手弓頭(嘉永のころ500石)、前田利家に仕えた吉田左近右衛門茂方の子孫にあたる。

私儀當年五拾六歳罷り成り申し候処、男子所持仕らず同姓並びに養方親類
の内にも養子願い奉るべき者御座無く候、実方おい関沢安左衛門二男等
罷り在り申し候得共、相望み申さざる段兼て申し聞き候、依て組外曽田源蔵二男
與左衛門義、今年二拾三歳罷り成り申し候に付き養女江聟養子仕り度く
願い奉り候、此の段御序でを以て   御聴に達せられ下さるべく候、源蔵義は
亡妻といとこの續に御座候以上

己未
 六月廿一日   矢嶋善左衛門(判)

仙石内匠殿
玉井舎人殿

右、私共支配御射手矢嶋善左衛門願書を附しこれを上申し候以上

         仙石内匠(判)
         玉井舎人(判)

横山遠江守殿
前田土佐守殿
奥村河内守殿
本多播磨守殿
奥村内膳殿
長九郎左衛門殿
今枝内記殿
横山蔵人殿
津田内蔵助殿
青山将監殿
前田式部殿
山崎庄兵衛殿
不破彦三殿
大音帯刀殿
横山外記殿

私儀、御射手大窪藤右衛門三番目娘と縁組
申し合せ度く願い奉り候、此の段御序でを以て
御聴に達せられ下さるべく候、藤右衛門儀親類にていとこ違いに
御座候以上

丁亥
 四月十一日   矢嶋善左衛門(判)

吉田才一郎殿
井上六左衛門殿
丹羽沢右衛門殿

右、私共支配御射手矢嶋善左衛門願書を附し
上げ申し候以上

         吉田才一郎(判)
         井上六左衛門(判)
         丹羽澤右衛門(判)

長甲斐守殿
前田土佐守殿
横山求馬殿
前田大炊殿
奥村内膳殿
津田内蔵助殿
横山蔵人殿
前田織江殿
前田圖書殿
前田修理殿
成瀬掃部殿
青山将監殿
前田内記殿

矢嶋善左衛門完全の子と思しき矢嶋菊次郎宛ての伝書。

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