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大野藩の軍学 要門導入と起請文

序.
 大野藩中村家文書の中に『要門起請文』と上書された門人帳がある。これには越後流の軍学「要門」に入門した者64人が名を列ねており、それぞれ氏名と實名に花押を署名し、血判を捺している。
 この史料に着目したのは『大野市史 藩政史料編』を参照することで、入門者64人のうちおよそ61人の履歴が判明するからである。通常、起請文に署名した者たちの履歴を辿ることは難しい。その理由をいくつか挙げると、武士は一般的に改名することが多いため史料との整合が困難であること、また参照とする史料そのものを見付け難いこと、入門者たちが二三男であればその履歴は凡そ記録に残されていないことなど、はじめの段階で躓くことが殆どなのだ。
ここに紹介する『要門起請文』がそのような条件に阻まれず、史料と整合することが出来たのは、一つに要門という武藝の特性から教授の対象となる藩士が高位の嫡子(もしくは二三男)であったこと、一つに参照とした史料『土井家家臣由緒書』(*1)が優れていたこと、この二つの条件が揃ったことによる、まさに僥倖というほかない。
 史料を参照とした『要門起請文』の入門者たちの履歴から何が見えてくるのか、これから記述しよう。
掲載史料及び参考資料
『大野市史 藩政史料編』大野市
『小浜市史 藩政史料編』小浜市
『福井県史』福井県
『越後流兵法:日本兵法全集2』人物往来社
『藩史大事典3 中部編1』雄山閣
『大野藩中村家文書』個人蔵
『要門起請文』個人蔵

*1 ここで用いた『土井家家臣由緒書』は原本ではなく、履歴の要点を抜粋した『大野市史 藩政史料編』に記載のものである。



1.要門導入とその師役 中村志津摩の足跡
大野藩は、越前国に於いて4万石を領した譜代大名土井家。
本稿で取り上る『要門起請文』は、4代藩主 土井利貞公9才の時から、5代藩主 土井利義公36才までの期間(寛延2年(1749)〜文化9年(1812))に署名されたものである。


『土井利貞公書状』

3代藩主 土井利寛公は延享3年(1746)8月江戸藩邸に於いて29才の若さで病歿しており次代の利貞公は幼く、一見軍学導入の背景に藩主は関与していなかったように思える。
この辺りの事情は『要門起請文』のみでは判らず、中村志津摩通雅という人物に注目しなければならない。

中村志津摩通雅
彼こそ要門を大野藩内に導入するための受け皿となった人物である。
享保6年(1721)高700石の家老 中村宗左衛門矩充の四男として生れる。若い頃は中村鉄之丞矩好と称した。

 中村家は初代藩主 土井利房公の母 正樹院の弟であった中村宗左衛門通時に始まる。通時は高500石で召し出され後に利房公の傅として家老職を拝命した。これ以後、中村家は家老職を世襲する家となり志津摩の祖父も父も家老職を勤めた。志津摩は四男であったから家督は相續できず、兄の矩綏が家督を継ぎやはり家老職を勤めた。

享保19年(1734)14才のとき小姓組に召され給分米8石3人扶持 四季施下され、名を中村喜間多と改めた。
寛保3年(1743)23才のとき准給人となり、名を中村志津摩通雅と改める。

そして
延享3年(1746)3月、3代土井利寛公が病歿する5ヶ月前に、中村志津摩は軍学者 宮田安左衛門景豊から「武門要鑑抄」を傳授される。
「武門要鑑抄」というのは要門の基礎伝書であり入門後早い段階で授与される伝書の一つである。つまりこの年代は3代藩主 土井利寛公が存命しており、要門導入の背景には公の存在があったと考えられる。
推測を述べると、寛保3年(1743)に家督を相続した利寛公が藩政に意欲的で、家柄・年齢・人物から適格と思われる中村志津摩を高名な宮田安左衛門のもとへ留学させたのではないだろうか。この年、宮田安左衛門が小浜藩の7代藩主 酒井忠用公から出入扶持20人扶持下されている。隣藩のこのような動向と無関係ではないだろう。

延享4年(1747)3月14日志津摩は27才で目付となる、出世と歩調を合わせるように宮田安左衛門から「要門天祥傳授」「七足變化切紙」「卒令傳因結切紙」を相伝され、寛延2年(1749)8月から『要門起請文』を作成し少数ながら弟子をとりはじめた(と見られる)。
『要門起請文』の通りだとすれば、寛延2年(1749)8月から弟子取りを始めたことになるが、あるいは宮田安左衛門に入門した大野藩士をのちに譲られた可能性も考えられる。
延享4年(1747)10月に傳授された「卒令傳因結切紙」が中途の教導資格(免許)に位置するものであったと考えれば、弟子取りを始めたことも首肯し得る。されども要門の傳授制度が解明されていない以上、保留としておく。

寛延2年(1749)、志津摩の弟子取りと時期を同じくして宮田安左衛門が小浜藩の7代藩主 酒井忠用公に仕官している。

その後も志津摩の軍学執行は順調に進んだと見られ、
宝暦1〜5年(1751〜1755)の期間には、「要門軍礼」「采幣之巻」「足軽同卒口令巻」「城取乾緯切紙」など9巻を相傳され、志津摩の大きな転機となった宝暦6年(1756)を迎える。

宝暦6年(1756)8月、34才のとき目付から郡奉行に栄転、更に寺社町奉行兼帯、新知100石役料金1枚を給り、国許(大野)へ引っ越すことになった。
同年9月、この栄転に対応して、師の宮田安左衛門から「要門軍命眼」「虎豹之巻」「納煎煕切紙」「智木戟立圖」など6巻を相傳された。

国許(大野)での弟子取りが始められ、同年11月要門に13名が入門、翌年には7名が入門した。
宝暦1年(1751)、43才のとき用人に進み50石加増、役料銀15枚を給され、あわせて軍学師範も是迄の通りと命じられた(用人というのは家老・年寄に次ぐ身分であり、番頭・側用人よりも上、藩内では相当な身分である)。4代藩主 土井利貞公も彼に軍学を学び習熟したと伝えられている。
以後病死するまで軍学師範の地位にあったものと見られる。
安永2年(1773)1月20日53歳で病歿した。

中村志津摩が弟子取りを始めた(と見られる)寛延2年(1749)8月29日から、病没した安永2年(1773)1月12日までの24年間に入門した者は50人を数えた。

志津摩病歿の翌年、新たに要門へ入門する者たちに対して、宮田(安左衛門景豊)融温の許可を以て入門し、世話役 岡杢之助・田村隼人・平岡政右衛門、3名に指導を受けるべき旨の達があった。
安永3年5月13日
一、家中越後流軍学入門之望之者ハ当時師範ハ無之候得共、岡杢之助・田村隼人・平岡政右衛門稽古世話役申付候間、右三人之者へ可申込候、江戸宮田融温へ申遣承知之上入門可為致候


『鑓前壁書』奥書、宝暦9年 中村志津摩通雅

中村志津摩が的傳の証である”景”の字を授かった年代は明らかではない、明和2年(1765)には景通(英弼)を称している。

※ここに挙げた傳書は現存するもののみで、保管状況から察するに元はそれ以上の数量が存在したことは間違いない。
2.要門と宮田安左衛門
中村志津摩景通の師であった宮田安左衛門景豊要門について少し触れよう。

要門とは何か
これは上杉謙信に始まるとされる軍学の流派名を指す。
当時は単に越後流・謙信流などと総称されたが、その実は本郷傳の高松系・佐久間系、芝傳の依田系・長谷川系の四系があり、さらに鈴木系・武藤系・大河原系・亘系など多岐にわたっており、全国諸藩に拡く伝播し隆盛を誇った。

軍学と言えば越後流を第一に挙げて然るべきほどの大流派、江戸時代を代表する軍学なのである。
要門とはその中の佐久間系の手前の加治系が称した固有の流派名であり、上杉謙信の臣 加治遠江守景英から三代が家傳とした。
(”要門”は単に”要門”と記され、流派名ではあるが”要門流”と記された史料を見ない)。
それぞれの系に特色があり加治系は「日本独自の伝統的兵法」と位置付けられている。
そして加治の傳を承けた佐久間景忠は甲州流を交えて教授したとされており、且つ陰陽家的性格であったと云う(『越後流兵法』石岡久夫氏著)。

上杉謙信
−加治遠江守景英
−加治対馬守景治
−加治七郎兵衛景明
−朝倉小軒景實
−佐久間頼母景忠
−宮田十郎左衛門景芳
宮田安左衛門景豊
中村志津摩景通

宮田安左衛門景豊
彼は小浜藩の7代藩主 酒井忠用公に三顧の礼をもって迎えられたほどの軍学者であった。

元文4年(1739)忠用公に初めて御目見し軍学の指南を始める。
寛保3年(1743)出入扶持20人扶持下され、
寛延2年(1749)春、忠用公在坂のおり御機嫌窺いしたところしばらく引き留められ、在坂料として10人扶持を下される。
同年、遂に再三の求めに応じて仕官することとなった。
 このときの条件を含む沙汰は「御宛行五十人扶持無格式常上下外宅之指南等諸事是迄之通可心得候」「是迄之御出入扶持者可差上被仰付」という破格のもので、忠用公の執心のほどがうかがえる。
次期藩主となる忠與公もまた部屋住のときから宮田景豊に学び免許状と極意の秘巻を相傳されたと云う。

宮田安左衛門景豊の流れも拡く伝播したことから宮田系と分類され、その傳は伊勢神戸・松江・鳥取・津和野などに行われ、甥景忠のときには更に江戸・明石・熊本・毛利などへも伝播したと云う。


『卒令傳因結切紙』奥書、延享4年 宮田安左衛門景豊

大野藩とはどのような経緯で接触があったのだろうか、大野藩侯の履歴に該当する記述は見当らない。
3.大野藩の要門入門者
ここまで述べてきたように『要門起請文』は、@師役であった中村志津摩が家老を世襲する重臣中村宗左衛門矩充の四男であること、A教授する軍学は小浜藩主に三顧の礼で迎えられた宮田融温の的傳であること、この二つの背景をもつ。
故に、入門する者たちは単に軍学を学ぶというのみならず、中村家と交流を深める機会が出来たであろうことが容易に察せられるのである。
『土井家家臣由緒書』を参照して作成した下表は、要門に入門した者たちの、@主要な履歴、A実子か養子か、B禄、C家格などで構成し、中村志津摩の在江戸、在大野、志津摩歿後の三期で線引きした。
土井家に於ける家中の序列と照らし合わせて、1.家老・年寄、2.用人、3.番頭・側用人の三等に相当する人物の禄・家柄・人名を太字とし、また重役に関する記述を一部太字にした。
人名の「?」について、大野藩士は通称と實名を改めることが他藩に比べて頻繁であり、確定し兼ねる者も少数いたがある程度の情報の一致を以て仮に定めた。
要門起請文+土井家家臣由緒書

入門者の履歴を見るうえで大切なのは、大局的な視点で見ることである。分限帳のみを参照すると、その年代のみの格・職しか分らず、果してその人物が家老級の者なのか、物頭級の者なのか全く分らない。これでは情報として極めて不安定であり、参考にできる条件は限られてしまう。
この点、上表は当人が隠居・病死するまでの履歴と、父・祖父の家格まで調べたので、たとい当人が早世していたとしてもその人物の家格は明らかとなる。また養子などで苗字が変った人物であっても、その血縁を辿り関係を附した。これによって父子・兄弟で入門した者も見出せる。

上表と対応するため、下記に挙げたのは延享5年(1747)2月に中村重助が作成した家中の序列である。

1.家老・年寄
2.用人
3.番頭・側用人

4.取次・近習頭・御勤掛
5.旗奉行・留守居
6.先手物頭・持長柄奉行・町奉行・郡奉行・傅奉行
7.小姓頭・付役・勘定奉行・奥家老・書簡方・側役
8.鎗奉行
9.徒頭・目付・元〆吟味役
10.片御盃
11.給人・供頭・銅山方・納戸・膳番・腰物預・武具預・近習・郡方役

12.準給人・奥付・普請奉行
13.本道・外科・針医・儒者
14.刀番・小納戸・代官・作事奉行・日記役
15.大小姓・小姓組・道奉行・山奉行・馬役・右筆
16.供小姓・近習坊主・破損奉行・蔵方・面谷奉行・奥用達
17.徒目付・徒与頭・元〆調役・賄方・馬乗
18.小算・近習番
19.徒士・料理人・御櫛上
20.諸小頭・物書・帳付・中間頭・諸手代・広敷番・小役人・椀部屋頭・下乗
21.足軽・掃除奉行
22.押目付・坊主
23.内下目付
24.中押
25.中間

※家老−用人−留守居・奉行・吟味方・目付・元〆・納戸、この層を「重役」といい、以下を「小役」と云う。家老・用人は特に「列座」とも云われた。

4.歿後の師役
中村志津摩歿後も『要門起請文』は継続されている。これに関しては、先に記した安永3年5月13日の觸が答えで、稽古世話役を命じられた岡杢之助・田村隼人・平岡政右衛門の三人の運営によるものと考えられる。そして、『要門起請文』が継続されていることから、この期間は新たな師役が現われなかったことを示唆している。

三人の世話役について
岡杢之助良昌とは19人目の入門者 岡長吉郎良昌のこと、家老の家柄で高350石、安永2年9月18日御用人へ昇進している。
田村隼人とは、33人目の入門者 田村次郎吉央俊のこと、やはり家老の家柄。
平岡政右衛門通理は『要門起請文』にその名が見当たらない、あるいは宮田安左衛門景豊に直接師事したのかもしれない、高150石、天明9年1月11日には用人役へ昇進している。
5.入門者たち
入門者の履歴などについては、表にまとめたのでこれによって一目瞭然とし、数人を取り上げることでその見方を示そう。

4人目の入門者 佐合文五郎正幸
佐合文左衛門以正の二男。兄の佐合源吉正愛が早世したため嫡子となり家督を相続した。入門したのは嫡子となって半年後のこと、こゝに要門へ入門する要因の一つが見出せる。佐合文五郎の父は高150石 取次格、祖父は高120石 先手物頭を勤めており、彼も順当に勤めればその格式に昇進したはずであるが、入門から三年を経ずして病死してしまう。ゆえに記録の上では米9石3人扶持四季施 小納戸 佐合文五郎とされる。これは記録の落し穴とも云うべきもので、よくよくその前後関係を調べてみなければ、佐合文五郎が先手物頭−取次級の家格であることを見落としてしまう。
佐合文五郎が早世した跡は、阿部飛騨守の家来 遠藤瀬兵衛の二男が養子に迎えられた、しかしこの人もまた早世したゝめ、大生四郎右衛門の二男が養子となり家督を継ぎ、高100石 広間詰、後に供頭役を経て大坂御留守居中取次勤となった。

6人目の入門者 岡源五右衛門良看
列座級一人目の入門者。実父は高300石 家老職、家督を相続した兄の与三太夫良質も高300石 用人であった。その弟 源五右衛門良看が家督を継ぐことができたのは、兄良質に実子がなく病気が差し迫ったことによる。要門へ入門したのは兄の養子として許可される二年前のこと。記録には見えないが、入門以前に養子となることが決まったのではないだろうか。
12.岡繁右衛門良簾と28.岡又之丞良強は源五右衛門良看の実子。

18人目の入門者 岡長十郎良隣
19人目の入門者 岡長吉郎良昌
二人は実の父子。祖父と父は共に家老職を勤めた列座の家である。入門した時、長十郎良隣は未だ用人となる一年前、子の長吉郎良昌は出仕する以前であった。
父子の同時入門という事例は、22.小林元右衛門重旧・23.小林貢重尚にも見られる。この事例でもやはり、子の小林貢は出仕以前である。

33人目の入門者 田村次郎吉央俊
代々が家老職を勤める家柄の人。但し次郎吉央俊は当主の弟なので家督は継げず、高100石を分知され一家を立てた。入門したのは分知の一年半前。要門に入門したということは、分知が内定していたのだと考えられる。

34人目の入門者 堀三郎左衛門重哲
『土井家家臣由緒書』の筆頭に記載されている堀家の四代目当主。代々が家老職を世襲する家柄である。入門したのは取次として召し出される一年前のこと。

39人目の入門者 戸塚吉十郎如奮
履歴を見ると他の人々より身分の低さが目に留まる。しかしこれは家督以前に早世したためで、弟が家督を継ぎ高80石 鑓奉行格へ昇進している。

51人目の入門者 中村鉄之丞通雅
安永3年(1774)4月に入門した中村鉄之丞通雅は、軍学師範 中村志津摩景通の子である、このとき12才。
前年父が歿したとき遺跡を継ぎ、20人扶持を下された。
彼は軍学師範の地位を継ぐことは無かったが、洛東に住まう津田次郎兵衛算緜に自由斎流炮術を学び印可を伝授され、また、明石藩の炮術師範 荻野六兵衛照永にも師事し数枚の火矢羽形を伝授された。使用する津田流の鉄炮は国友一貫斎に注文しており、交流もあったものか『能當流鋳筒製作法』を贈られている。(※国友一貫斎は本来秘傳とされた火器の製法を他藩の士へも開示するなど、当時としてはたいへん進歩的な人物であった)
身分は准給人(御供頭次席)にはじまり、目付、郡奉行・町寺社兼という父と同じコースをたどり、留守居格、用人へと進んだ。

60人目の入門者 牛嶋山治正家
享和1年(1801)3月に入門した牛嶋山治正家は次期師範候補と目された人物であったが、若くして病歿してしまう。
彼は家老 牛島助右衛門の聟養子で家柄に申し分はなく、「御含之筋茂有之候ニ付、為越後流軍学修行江戸永在番被仰付」と越後流師範たるべく修行を藩から課せられていた。
さらに「但越後流之儀者宮田源左衛門へ相便専可致修行候」と、中村志津摩以来の宮田家的傳を得るべき意向を受けていた。
その理由は、藩内に世話役を勤められる者はいるが、未だ”景”の字を許された的傳の師範が不在であったこと、先に記した安永3年(1774)5月の触によって察せられる。

跋.
江戸時代、軍学を学んだのはどのような人々だったのだろうか?その一つの答えとして、具体的な事例を示すことが出来たと思う。されども、入門したからといって皆が根気よく執行を続けたとは限らない、そのことを念頭に置いていてほしい。
分限帳が見当たらないため、藩士の身分分布を提示できなかったことが心残りである。
今回、家格の調査を入門者の父・祖父にまで拡大したことで気付いた点があり、どうやら重役の家格が見込まれる者たちを対象としていたようである。但し例外も少なからずいる、この理由を究明することは今後の課題としたい。

平成26.11.28 記之 平成27.11.19 増補
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