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嶋本流棒火矢

嶋本流棒火矢とは、安藝広島藩に於いて嶋本家が家業とした棒火矢術の流派である。

嶋本家の情報は極めて少なく、『藝藩志拾遺』にその記録を見るものの断片的な記述であり、流派の実態となれば何一つ分らないものであった。本稿は新たに発見された五点の文書により流派の実態に迫り、従来の嶋本流棒火矢の記録を若干補足するものである。
五点の文書は、広島藩の家老上田主水家17,000石の家士福山氏が作成した。

□ 嶋本流の起り
嶋本流棒火矢を家業とした嶋本家は、元和1年初代藩主浅野長晟に召し抱えられた嶋本仁右衛門正重(長晟公御陸組類相勤家筋)の分家にあたる。分家の初代当主は嶋本徳右衛門正治と云い、仁右衛門の次男であった。嶋本流を開いたのはその2代目もしくは3代目徳右衛門である。
『嶋本流棒火矢 免書文作控帳』に控えられた免状の奥書には「流祖正廣」とのみ記されている。

□ 嶋本徳右衛門
嶋本流棒火矢の名が初めて記録に登場するのは、『藝藩志拾遺二十』の正徳4年1月の記事である。
「嶋本流棒火矢の師家嶋本徳右衛門は新知150石を賜り採用せられ、平素火術に精励なるを賞し、且家業火術応変の秘法は妄に他へ相伝を禁止する事を命じ、若し相伝の必用ある時は必ず稟告して裁許を請はしむる事と為れり」
この事から3代目徳右衛門は正徳4年1月、既に”嶋本流棒火矢の師家”であり”家業”としての地位にあった。嶋本流の成立はここが下限となる。(*1)
さらに3年後の享保2年6月には、棒火矢師家としてその技術の伝承を言い渡されている。「嶋本徳右衛門は退隠を請願せしが、其嗣子火術未だ精熟に至らざるを以てこれを許さず、以前在職せしめ嗣子の修熟を待たしめらる」

□ 嶋本家の各代
0.嶋本仁左衛門正重 元和5年(1619)浅野長晟公陸組
1.嶋本徳右衛門正治 仁左衛門正重の次男、慶安−承応頃か
2.嶋本氏 (天和頃か)
3.嶋本徳右衛門 正徳4年(1714)新知150石
4.嶋本甚内 (元文頃か)
5.嶋本金五郎 7代浅野重晟1763-1799の御前演技
6.嶋本八十郎 寛政1789-1800頃その名が知られている
7.島本甚内 天保6年(1835)奥詰−安政4年(1857)歩行頭次席
8.島本廣右衛門 文久1年(1861)奥詰−文久3年(1863)3月棒火矢廃止

5代目金五郎は他の棒火矢師等と7代藩主浅野重晟の御前において演技を披露、6代目八十郎は寛政頃にその名が知られていたとの記事あり、7代目甚内は天保6年奥詰−嘉永5年側詰次席−安政4年歩行頭次席へ進み、8代目廣右衛門は安政5年家督−文久1年奥詰−元治2年銀奉行に進み維新後は録事(第11級)25石廣式係番外となった。(維新以前の嶋本家は徳右衛門以来代々150石)

□ 嶋本流棒火矢の終焉
幕末、海防問題に直面した各藩は従来の炮術から西洋式火砲への転換を計り、あわせて兵制の改革を進めた。この結果、大部分の旧式炮術は廃されるに至ったことは周知のことである。広島藩においても兵制改革が度々あり、嶋本流棒火矢は文久3年3月の通達をもって師家たるを解除された。
「西洋流砲術を採用せられ、従来演習せしめられし旧式の火技は一切これを廃止せられ、棒火矢并に狼烟の如きも亦廃止と為り、その師家に在りても以後は西洋式火技を修行すべき旨を命ぜられ、いづれも家藝は解除せられたり」
また、嶋本廣右衛門と三木流棒火矢の三木十左衛門にはこのように通達があった。
「嶋本廣右衛門・三木十左衛門 右伝来の火矢指南これ有り候処、此後指南に及ばざる思し召しに候 但 是迄御番外差置かれ候処、此後御番方相勤められ候事」
点の史料
御用意矢製作被仰付候節諸扣
 −上田主水が家士に命じた嶋本流棒火矢製作の記録。
2嶋本流棒火矢免書文作控帳
 −嶋本流の傳書4点を控えた記録。
3嶋本流棒火矢稽古用諸扣
 −嶋本流の神文や火薬調合等の記録。
百目筒図
 −火矢筒と思しき百目筒の図。
町見臺平町見様之事
 −発射角度に関する記録。

掲載史料及び参考資料
『安藝藩福山家文書』個人蔵
『広島県史』広島県史編纂委員会編
『江戸の炮術 継承される武藝』宇田川武久著 東洋書林
『藝藩輯要 附藩士家系名鑑』林保登編 入玄堂
『家老知行地の支配構造−知行制の構造と展開(V)−』隼田嘉彦著
『片岡道二家文書 収蔵資料調査報告書15』宇治市歴史資料館
『岡山大学埋蔵文化財調査研究センター報 No.30』岡山大学埋蔵文化財調査研究センター編
『一貫斎国友藤兵衛伝』有馬成甫著 武蔵野書院
『砲術諸流派の調査 その6』所荘吉著 銃砲史研究202
『わが国における硝石の価格』所荘吉著 銃砲史研究31

(*1) 典拠は不明だが『広島県史 近世1』では、正徳4年12月支藩を離れた三木流棒火矢の三木一之進が嶋本徳右衛門に傳授したと述べられている。その通りだとすれば、この傳授は従来の嶋本流棒火矢に三木流棒火矢の術が混流したことを意味する。或いは嶋本氏がもともと三木一之進に師事していた可能性も考えられる。なぜなら三木流こそ棒火矢の発祥と目される流派であるからだ。その可能性を示唆する記事は『藝藩志拾遺』にあり、三木一之進が三次藩を離れた際広島藩が城下に留めた理由として、本藩・支藩に多くの門弟がいたことを挙げている。

御用意矢製作被仰付候節諸扣

 嘉永六丑年
御用意矢製作被仰付候節諸扣
十一月
       福山貞馬扣置

この年浦賀に来航した異国船の影響は計り知れず、天保15年1月11日に定められた江戸湾臨時警衛の出張人員予定では急場に間に合わずとして、嘉永6年8月5日新たに在府藩士のみで急変に備えることとなり(この中に棒火矢放士2名と手伝先手足軽5人もいた)一時的に警備の部署が定められた。また同年12月11日には築地藩邸上の海岸側へ胸壁を築き軍用の家屋を建築するなど、海防問題が切迫した時期であり、そのための軍備が慌ただしく行われた。
本文書『御用意矢製作』もこのような海防意識の高まりにより広島藩家老上田主水が家士に命じたものと考えられる。
棒火矢は、後の安政3年・文久2年に定められた藩軍の編成にも組み込まれており、長距離にある標的に着弾し燃焼するとされた棒火矢の効果を期待していたようだ。この頃の広島藩は、嘉永3年にようやく高嶋流の砲術家奥弥左衛門に防禦のため西洋式のモルチール砲(手臼砲)の鋳造を命じた斗り。本格的に砲兵と云うものが出来るのは、安政3年2月3日の長柄隊を大筒隊に一変した兵制改革を待たねばならない。このとき新たに砲兵12隊が編成された。

十一月五日槍術
御覧御覧被遊相済候帰り掛け
横関新兵衛宅へ一應
挨拶罷出候處御用意矢
被 仰付候趣達し有之畏帰る

一翌朝[福山]直衛宅へ参り一應
 咄し合仕候處猶[嶋本]先生へ咄し
 合可申様申事に候直に帰り
 掛け嶋本氏へ参り一應其由
 [嶋本]先生へ相咄し申候處猶
 咄し合の上申候御返答に御座候

一同昼後御武具蔵へ罷出
 御武具奉行中村直一
 立合の上矢木五十本
 見分け置翌七日三十本
 為持来る

一同七日稽古日に付罷出候て
 猶前談の趣相尋ね候處

御用意矢を命じたのは、横関新兵衛の主人上田主水(当代は上田豊之助義苗)と考えられる。横関新兵衛は上田家の家士、家老に次ぐ用人の身分であった。御用意矢を命じられた福山貞馬は本文書を作成した人物であり、横関と同様上田家の家士である。福山直衛もまた同様。嶋本先生とは福山貞馬が師事した嶋本流棒火矢の師家嶋本甚内のこと。甚内は広島藩士、高百五十石、このとき側詰次席の職にあった。福山貞馬は御用意矢を命じられた翌日に早速矢木の選定にあたる。

 未得意候咄し合不申候に付
 早〃咄し合申候御咄し
 可申と噂有之候事

一御用意矢の義に付きては
 遠町臺無御座候ては
 御間に合かたく候に付下地
 福山巴へ相咄しをき候様に
 噂有之猶嶋本先生よりも同方へ
 咄し合可被申との事

一同八日朝福山氏へ罷越し右の
 遠町臺の趣相咄し申候處
 一應
 御上へ申上猶噂可申との事
 并に壱尺御筒嶋本先生見合せ
 被申度由に付其由福山直衛殿へ
 相咄し候處左候はゝ早〃
 嶋本氏へ相廻させ可申との事

一同夕嶋本氏へ罷越し入用の品
 凡積書相頼置候處相調
 居候に付受取帰る

一同九日昼後福山氏へ罷越し

御用意矢を発射するには遠町臺が必要であると云う。このことからすると、上田家には従来棒火矢を発射可能な火器が無かったのか。

 入用の品書差出し置き
 候事

一遠町臺の趣相伺候處
 御調の義に付積書差出し候様
 にとの事并に尺六遠町臺
 も一諸に積り書差出し候様に
 噂有之候事

一同十日朝嶋本氏へ罷越し右の
 臺物の義嶋本先生へ積書の
 義差出し候様相頼上申候
 委細承知の事

一十一日昼後御武具蔵へ参り
 御武具奉行中村直一立合
 の上嶋本氏へ右壱尺御筒并に
 矢木共相廻させ其節[福山]貞馬
 一諸に罷越し同方御蔵へ御筒
 納め置候事

一右の臺物の義[大工]佐兵衛呼に
 やり早速参り候に付積書
 早〃[福山]貞馬宅へ持ち参り候様に
 [嶋本]先生より申被付候事

一根一應積書差出し候様被申候

臺製作のための見分が行われ、大工佐兵衛に依頼された。筒は二種類、一尺筒と一尺六寸筒(略して尺六と云う)。

 積書相調候はゝ直に申付被下
 候様に[嶋本]先生へ相頼置委細承知
 の事に候

一同十二日朝福山直衛殿嶋本氏へ
 [福山]貞馬製作被 仰付候に付相頼
 被参候事

同昼後御手當てに相成
 候分御筒相しらべ壱尺六寸
 鉄張筒并に壱尺の分差向處
 都合弐挺の事

一同十三日より終日製作取掛り
 候事

一炭壱俵火鉢用吟味役
 村井主馬へ噂いたし候同日
 朝割場人にて持ち参り候事

一同十九日三原かじ[鍛冶]より積り書
 左の通り嶋本氏へ差出し候に付
 [嶋本]先生より受取同二十二日持参致す

一壱尺六寸根   三十本分
  代七拾五匁

一壱尺根     二十本分
  代四拾目

矢は福山貞馬が製作、根は三原鍛冶に依頼された。根50本分、代115匁。”根”とは矢の先端に着ける金属を指す。その形状は各流派により異なる仕様あり、先端は木材を尖らせたままでその下に金属の環を着けるものや、先端に半球状の鉛を取り付けるもの、または鉄張のような鉄板を尖らせたものを着ける仕様がある。

  〆百拾五匁
   十二月五日吟味役より受取

同廿一日臺物積り書大工佐兵衛より
嶋本氏へ左の通り差出し
同廿二日朝福山直衛氏へ持参いたし
候處[福山]直衛殿不快に付直に
横関氏へ罷越し應對致し
差出し置候事

一遠町八方御臺 尺六 弐組
        壱尺
 木柄けやき樫類相用ひ
 鉄金具但し黒塗摺り漆
 仕立

一御外箱     弐た箱
 杉八部板但し黒塗臺木柄
 栗一角とんぼ金具はち巻
 金具土臺はち巻金具
 棒通し共金具錠前金具

一差合棒     弐本
  但し黒塗り

大工佐兵衛より臺物の見積が来る。臺2組、代2貫30目。

御入用
  弐貫三十目内壱貫目
  先料十一月廿二日相渡し置く

一廿三日朝横関新兵衛殿より右の
 積書の通り被仰付候由
 紙面にて申来り候直に申付
 置候事

一十一月十四日より日〃終日罷越し
 尺六矢三十本壱尺矢二十本
 製作同廿八日迄に上納極候事
 同廿九日より根すげに取掛り候事

一百目壱尺六寸御筒矢数
 三十本

一百目壱尺御筒矢数
 二十本

  都合矢木六十五本

 ┌上〃焔硝  四貫目
 │鵜目硫黄  二貫五百目
 └但し放薬焼薬用

  矢の根   五十本分

  上諸口    弐匁
  並諸口    弐匁五■
        かけめ
  上苧     三百目
        大たば
  麻糸     弐抱
  わらひ粉   壱升五合
  渋      壱升
  にかわ    四十本
 ┌寅の正月十五日
 │生うるし   代五拾目
 └右品にて受取
右嶋本流棒火矢製作被
仰付諸入用品〃御渡し
可被下候以上
  十一月九日  福山貞馬
 福山直衛殿へ差出し置き

極月十八日   ┌鵜目硫黄
一拾弐匁八分  └掛目八百目
  但し世並屋にて相調

寅の年[嘉永7年]
正月十一日
一炭壱俵     受取

正月十九日受取
一百四十目   ┌上焔硝掛目四貫目
        └代
  但し井筒屋にて相調

ここには棒火矢の材料が具体的に示されている。冒頭の”上諸口””並諸口”は酒の”諸白(もろはく)”であろうか。

正月十一日
一五十壱匁    鵜目硫黄
       かけめ壱貫七百目代
  但し井筒屋にて相調候

二月九日
一矢五拾本皆出来
 いたし翌日其由
 [福山]直衛殿へ達し置く

一百六十五匁五十本入矢箱代
 二月十二日に出来代銀直に受取相渡す

三月十六日朝
一尺六合     三十
一壱尺合     二十
 右の通り[嶋本]先生より形を借用
 致候て巻福山氏へ持参致
 候て早速被仰付被下候様相頼
 置候事


一御用意薬弐貫百目剤
 三月十七日に調合其節利介
 壱人召連参り候事同十九日
 壱貫二百目剤調合其節割
 場人壱人利介都合二人召連
 参り候事

四月六日朝[島本]先生福山[直衛]氏へ何角
遊談に被参候處其節[福山]直衛殿
[嶋本]先生へ被申候事には右の臺物
矢箱共明後八日主人に被見候ては
如何御座候哉と噂御座候處[嶋本]先生
被申候事如何様何も出来の
事故宜敷可有御座被申候
左様に候はゝ昼八ツ時頃[福山]久馬付添
候て御屋敷迄持参致候被申候
右の趣[福山]久馬へは[嶋本]先生より相咄し
申候様申被帰候事

同七日早朝嶋本家来参り今朝
懸御目に申度存候間一寸御出
可被下候との事直に嶋本氏へ
罷越候處右の臺物
明八日御覧被遊候由右の通り
[福山]直衛噂御座候左候はゝ何角小
道具取揃も御座候間一寸御苦労
かけ候

出来た臺物・矢箱を上田主水に披露してはどうかと福山直衛が打診。嶋本甚内はこれを快諾。

一割場人     八人

一つり臺 覆   四ツ
     をうい
  但し御臺所分割場人
  持ち参り候事

一右の臺物御須前下の
 板之間まで割場人持ち参り
 御次迄御臺所の者持ち
 参り夫れより御書院迄
 ぼふす[坊主]持ち参り其節
 御納戸坪内久米之助より夫れ〃
 臺物持ち参り致被申候事

一御覧
 御書院 二ノ間
     の事

一其節薬を立て御覧に入れ申候事

一帰り掛け嶋本氏へ一應
 挨拶罷越し候事

一臺物をうい[覆]出来仕候迄
 御屋敷へ置き候事

入れ替り立ち代り臺物は運び込まれ、御書院二ノ間に於いて披露された。

六月十七日壱ノ御小屋へ出丁
右臺物二タ組共放ち試し

一十八町    ┌壱町越し
        └八間前切れ

一同町     ┌十三間越し
        │十間前切れ
        └ツキ
  但尺六御筒

一十六町    ┌十間越し
        │十七間前切れ
        └ツキ

一同丁     ┌十四間下り
        │十七間前切れ
        └ツキ
  但壱尺御筒

同尺六の臺にて壱尺紅葉御筒

十六丁┌十三間下り  矢部音門
   │十間前切れ
   └ツキ

同 丁┌壱丁越し   同 人
   └二十間前切れ

同 丁┌十間下り   栗原金太郎
   │五間前切れ
   └ツキ

同 丁┌壱間下り   同 人
   │五間前切れ
   └ツキ
  但杉の御筒

翌廿八日
右両人町着書一諸に差出し候事
右に付御舟壱艘拝借仕前夕
嶋本門前迄乗込せ置候事差て
御小人壱人多門利介此両人召連参り
候事

嘉永7年月27日、壱ノ御小屋に於いて棒火矢の試射が行われた。その成績をメートル換算すると下記の通り。
@尺六筒--1962m--109m越/14.6m右
A尺六筒--1962m--23.7m越/18.2m右/ツキ
B壱尺筒--1744m--18.2m越/30.9m右/ツキ
C壱尺筒--1744m--25.5m下/30.9m右/ツキ
D尺六臺壱尺紅葉筒--1744m--23.7m下/18.2m右/ツキ--矢部音門
E尺六臺壱尺紅葉筒--1744m--109m越/36.4m右--矢部音門
F尺六臺壱尺紅葉筒--1744m--18.2m下/9.1m右/ツキ--栗原金太郎
G尺六臺壱尺紅葉筒--1744m--1.8m越/9.1m右/ツキ--栗原金太郎

失敗しなければ目標に対して18-30mの範囲に着弾する。宇田川武久氏が『江戸の炮術 継承される武藝』の著書のなかで「荻野流星幕名目図〔東京国立博物館所蔵〕」を掲載しており、嶋本流が同様であったかは不明だが、”越し”は目標の奥、”前切れ”は目標の手前、”前切れ”は目標の右と考えられる。
記録ではいずれも”前切れ”とあり、これに対する”後切れ”は無い。試射当日は一方へ西風が強かったのだろうか、8回の試射はいずれも右に逸れたことを示す。”ツキ”と云うのは、地面に刺さったことを表現したものか。
この成績が間違いないとして、棒火矢の焼夷弾としての効果が確かであれば、船の来襲に対する海岸固には有効であったかもしれない。大きな放物線を描いた棒火矢は船の甲板に激突し燃焼するのかと想像する。
矢部音門は広島藩士、馬廻、野村組。

嘉永七甲寅年
十一月十六日六町目御武具蔵へ
中村直一立合の上左の通り
納め置

一臺物      二組
  但コンヲゝイ[根覆]ボヲトモ[棒共]付

一矢箱      一組
 右入組薬都合マ〆
 リ百目

一渋紙覆     三ツ
 但臺物二タ組長持矢箱とも
 棒三本へ覆掛り候事

嘉永6年11月5日に命じられた御用意矢製作はこの日すべて完了した。
これまでに購入した材料、発注した工作費用はおよそ下記の通りである。

【棒火矢】 1匁=600円相当として
壱尺六寸根 30本分/壱尺根 20本分 代40目(24,000円) 三原鍛冶

上焔硝 掛目4貫目(15,000g)放薬・焼薬用 代140目(84,000円) 井筒屋 →1貫857目=1両

鵜目硫黄 掛目2貫500目(9,375g)放薬・焼薬用 代63匁8分(38,280円) 世置屋・井筒屋

上苧 300目(1,125g) これは焼薬に一定の分量を混ぜる灰の原料と思われる(焔硝・硫黄の分量から判断して妥当)

 麻糸 2抱
 わらび粉 1升5合
 渋 1升
 にかわ 40本

生うるし 代50目(3,000円)

【筒臺・箱】 1匁=600円相当として
遠町八方御臺尺六・壱尺 2組/御外箱 2箱/差合棒 2本 代2貫30目(1,218,000円) 大工佐兵衛

50本入矢箱 代165匁(99,000円)

一、棒火矢の工作は、流派の掟により親子兄弟妻と雖も他見他言が禁じられていたため、嶋本流を修めた福山貞馬自身が担当した。
一、嘉永6年の来航直後から硝石の価格は高騰、その相場は6月3日に1両=8貫目であったものが、6月6日に1両=3貫800目、6月9日には1両=1貫目となった。(所荘吉著『わが国における硝石の価格』)御用意矢製作で購入した焔硝は1両=1貫857目であった。
一、準備された火薬の量は、焔硝15,000g+(灰14,062g)+硫黄9,375g=約37,500g(硫黄の約1.5倍の炭が用いられるとして)
100目1尺遠町矢20本なら、焼薬1袋につき約140g×20個=2,800g
100目1尺6寸遠町矢30本なら、焼薬1袋につき約65.63g×30個=1,968.9g
このほか薬附に塗り込める火薬と、発射のための火薬が必要となる。(この辺りの検討は、火薬の製造に関して知識を得てからとする)

安政四巳年
尺六小文字御筒ねじ
并に御臺御仕替相成候由同
二月廿五日河瀬喜和馬殿より
紙面にて申来る直に[嶋本]先生へ相頼
海田鋳物師の方并に大工要平方
両方へ被紙面調■■同廿七日
村井直一郎方迄為持遣し同方より
直に両人方へ割所物持ち参る
両人とも畏るとの事

同廿九日鋳物師嶋本氏へ
参り嶋本先生より申付■翌晦日
御筒取来る

 ┌ねじ臺共
 └積節の控

一ねじ仕替  植木六右衛門(海田鋳物師)
 代 三百拾五匁

一臺仕替     大工要平
 代 弐百七十四匁
 内先料百目四月八日
 河瀬氏より請取直に相渡す

以前、御用意矢が武具蔵に納められてより3年、尺六筒のネジと臺を仕替えることとなった。理由は不明。
河瀬喜和馬は上田主水家の家士、用人400石。

【安政4年仕替】 1匁=600円相当として
ネジ仕替 代315匁(189,000円) 植木六右衛門(海田鋳物師)
臺仕替 代274匁(164,400円) 大工要平

一ねじ仕替代河瀬氏より
 受取相渡す

一御筒箱代
 三十三匁    大工要平

右皆出来 五月四日
致候に付翌節句も少し
御用人中へ申出置候
代料六日朝福山覚右衛門殿
より受取直に同人へ相渡


一ねじくゝり筒くゝり
 都合三本本安橋根
 栗田屋にて相調へ候事
 代銀三匁

一五月三日御臺皆出来
 仕候に付代銀同七日
 福山覚右衛門殿より受取
 相渡す

福山覚右衛門は上田主水家の家士、用人兼帯。


百目筒図

福山家に所蔵されていた百目筒図。嶋本流は主に百目棒火矢を用いることから、ここに描かれている筒は火矢筒に用いたと考えられる。

町見臺平町見様之事


福山家に所蔵されていた弾道計算図。

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