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2018.2.20 井鳥景雲書簡 十月十八日付

『道嶋調心書簡』個人蔵

井鳥景雲書簡

建部貞右衛門様 道嶋調心
     不及御報


以手紙致啓上候弥
御替不被成候半と珍重に
奉存候一昨日立寄申候処に
不懸御目残念に御座候
明日松貞坊へ朦氣
見廻に咄に可参哉と
存候一樽とうふ持
参可申と其段御噂
可申立寄申候程次第
明日御誘可申候さて又
松橋は私御遠方ゆへ
見合可申候一昨日は高橋
迄にてさへ散々足痛
申候七左衛門よりも今朝
紙面参候へ共私はやめ
申候由貴様方は天氣
能候はゝ御打立可被成候
七左衛門方へも其趣申
遣候今日は竹部方へ
招れ罷越申候以上

七月廿五日

 〇 訳文
建部貞右衛門様 道嶋調心
     御報に及ばず

手紙を以て啓上致します。いよいよ御替りないことゝ珍重に存じます。一昨日、立寄ったところ御目に懸れず残念に御座います。 明日、松貞坊へ朦氣見廻に咄しに参ろうかと存じます。一樽とうふを持参すると、立ち寄りましたらその段御噂にてお話しください。明日御誘いします。 さて又、松橋は私にとって御遠方ゆえ見合せます。一昨日は高橋迄にてさえ、散々足痛みました。七左衛門よりも今朝紙面が参りましたが、私は止めにします。貴様方は天氣が良ければ、行かれると良いでしょう。 七左衛門方へも其の趣きは伝えておきます。今日は竹部方へ招かれ、罷り越します。以上

七月廿五日


 〇 井鳥景雲老師の事
井鳥景雲調心居士、初名八十郎、後助之進、又氏家直右衛門と稱す、實名為長、母は道嶋氏、東武土器町の産也、幼にして多病、常に痔疾を患ふ、是を以て年二十を過て其術を学ふ、然れとも驟(にわか)に其術に達する事能はす、巨雲師家傳の流脉を鈴木彌次郎(老師の従兄弟)に譲る、老師一日奮然として憤(いきとうり)を發して意へらく、予其子として其家傳流脉を受繼くこと能はすして人に譲る、豈子たる者の耻ならざらんやと、是に於て凡(およそ)百(もゝ)の玩好の事一切棄擲して、一々精力を其業に勵まし、寒暑を避けす、二六時中執行修煉して、終に其流脉密旨を受繼くことを得たり、老師彌次郎より少(わか)きこと十三四計り、故に其習熟の功、此人の力に由ること多しと云、享保九辰年九月初て東武の邸に仕ふ(中小姓 禄二十石 月俸五口)。其藝術に由るにあらす、此時故有て姓名を井鳥五郎右衛門と改む、國に就て飽郡横牛郷北岡村に住す、後しば〳〵諸局の監察となる、然るに宝暦四年十二月時習舘両榭成る、こゝに於て文武の諸師を召さる、其の名籍に老師の名、無を以て
當君怪みたまい、更に老師を擧用あり、是東武に於て其術の巧玅なるを知たまへはなり、老師己れ未其術に到らす、弟子に授與すべきの任にあらざる由を以て辞すること再三、然れとも唯其聞く所、能くする所のみを以て弟子に授よとの
命あるを以て、終に辞することを得す、同五年二月師職に任す。既に八年の後、門人殆貮百人、中位の傳を受者十餘人、其中間(なかごろ)腰痛を患ふるを以て職を辞せんことを請ふ、許されす、其後居を山崎小笠原氏の邸に移す、同十二年十月病ます〳〵甚き以て、強い職を辞せり、然しより後人に、再ひ剣法の事を説かず、同十四年に禄を辞し、即日直に西岸寺に往て薙髪して引導を受け、姓名を道島調心と改む、其の後己が逆主を立、自から名を影法師(又影泡子とも)と稱し、門人中根某をして之を圖せしめ、其の上に自賛、

 汝を顧みるにかたちは人に似て、目に見る事なく、耳にきくことなく、鼻に嗅ぐ事なく、口に云う事なく、本より七情の氣もなく、唯茫然として立ぬ、そも汝が名はいかに
   有とすればなし又なしとすればある
    月だにうとき夜半の影法師

老師其形長大にして、其相凡ならず、人望て必一道の達人たることを信して、

自然に敬畏を加ふ、特に門人流派の徒のみあらず、其性忠直果敢にして清潔に心迹二つにせず言語飾らず、且妄に人の恩を受ることを屑(いさぎよし)とせず、若受ることあれば必又之を報ゆ、常に 君上を敬重するの心至て深く、日々に御武運長久を祈り、尊體の安泰を願ふ、又封事を奉りて、其志を致す、宝暦十三年君侯病たまふこと甚し、爲に諸社諸佛寺に祈り、殊に山王社に繪馬を奉る、是心願成就するかためなり、且親戚故舊及門人に於るも、亦篤厚なり、生る者にはこれが爲に其武運を祈り、死するものにはこれが爲に其冥福を助く、日として怠ることなし、又人の吉凶年賀寒暑の安否を問て其答禮を責るの意なし、又幼よりして浄土宗の佛道を信仰して、専ら佛名を唱ふ、日課に三萬遍、死するの年に至るまて二十八年、一日として闕くことなり、一遍として滅することなし、常に熊谷蓮生坊の迹を慕ひ、彼に効て豫め死日を知て終焉の一念を安くせんことを願ふ、又嘗て父の石碑を西岸寺に立て月拝料を寄す、是其後なきか爲めなり又預(あらかじ)め治棺の具、葬送の料を儲(たまわ)ふ、是其期に臨て人の労費にならじとなり、今年奉間より病起る、或は加り或は愈か如くにして秋分に至て益進む、心大いに喜て死日を待こと帰するか如し、人のしは〳〵病を問慰することを好ます強てこれを辞す、是人に苦労をかけじとなり、此に由て親戚門人の来る者は、隠黙の一間を隔て居る、預して身後の事及遺物の分配を定む、其數七十餘人、恩義の厚薄、位の高下に従て等あり、皆遺言遺書して小笠原氏に托す、老師簀を易ふるの時に至るまて、精神清爽、心意動せす、m佛名を唱るの外侘念なし、時に天明二年壬寅九月四日に没す、享年八十二、熊本白川の邉り西岸寺に葬る、影法院慥譽調心居士と稱す、中年の此一子有り、早世す、妻は嘉悦氏離別す其後終に妻子無し

 〇 執筆年
道嶋調心の称は、井鳥景雲が致仕し薙髪した明和元年(1764)より、歿する天明二年(1782)迄に用いられたことから、本書簡は井鳥景雲六十四歳から八十二歳の間に認められたと分ります。

 〇
景雲翁は藩の師役在職中に腰痛を患い、病がいよいよ悪化したゝめ六十二歳のとき職を辞しその二年後致仕した、と嫡弟建部流雲は伝えています。建部流雲とは景雲翁より雲弘流の道統を継承した人物であり、また本書簡の受取人でもあります。書中「松橋は私御遠方ゆへ見合可申候一昨日は高橋迄にてさへ散々

足痛申候」と述べられているのは、その病いのことでありましょうか。歩行が困難であったにも関わらず、よく人付き合いをしていた様子が書面からうかゞえます。この事からすると、景雲翁が死期を悟って他人との面会を辞した晩年ではなさそうです。

掲載史料及び参考資料
『井鳥景雲書簡』個人蔵
『雲弘流系圖』個人蔵

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2017.10.30 各務支考書簡 五月上旬付


『各務支考書簡』個人蔵

各務支考書簡

御状相達候然は里紅前句の事
言語同断の無用と存候
其子細は我等は前句いやにて
はやらぬ様にいたし我まゝ申
ちらし候得とも無是非人
の為にいたし候里紅は余程
望にて何とそはやる様
にして人の氣に入我まゝ
可被致候へは會所よりたのまれ
無点の句も長にし果は
つくり句も可有事に候然は
我等と里紅とは天地のちかひ
と可申候「是その無用の第一に候
我等は三笠附の点いたし候ても
利用の為ならぬは天下の人
被存候里紅は哥仙の点料に
と銭百とられ候ても諸人
あさむき可申候其さかひは
三十年の徳と二三年の徳
とのちかひに候「是その無用の
第二に候里紅は去年よりはしめ
て名をひろめ善悪は未分の
時に候所前句の憂名は決定也
「是その無用の第三に候京
江戸の前句は楽屋の狂言にて
千句も万句も名目斗にて御さ候
末々は万句よせと被仰遣候事
存外の不案に候若も正直に
点いたされ候はゝ三四會はより
可申候へと一會々々に損立申

候て會所より狂言を可頼候
狂言いたされ候へはそれをかきりに
俳諧の出會はやむへし狂言
いたされす候へはそれをかきりに
前句はやむへく候しかれは銭
壱貫か弐貫の事にて里紅
一生の俳諧を失ひ候半事
博打よりはおとりて浅智の
いたり「是その無用の第四に候
里紅は何と被存候哉愚老か
存念は蕉門の血脉を百世に
つたへ天下一人の宗匠に仕立
候半と夜着に足つゝむ任[荏]弱
をもいましめ蔬[菰]一枚の乞食
をならはせ愚老か存命の間は
馬かこをやめ足をすりこ木と
天下をめくりて五十已後に
所帯をすへはしめて蕉門の
宗匠と天下の人にいはせ候半
と今年は学文の世話をやき
明年は明後年はと日々夜々の
里紅行すえは愚老か胸中に
かくし置候然は二貫三貫
銭もうけの沙汰には有間敷候
「是その無用の第五に候
此外の無用は幾品も候へと
大むね是にて御察可被成候乍去
御連中をはしめ里紅とても
今日の慰にこそ俳諧はすれ
左様に儒佛の大道とおなしく
あらゝゝむつかしの俳諧やと
おほし候はゝ幸に諷をしへを宗
となされ俳諧は慰に可被成候

しからは愚老も無別条
むかしの里紅にかはらす表向の
御出合は可申候
此度の細銀は御一家も御連中
も相談の上にて里紅一生の
境界を定可申故にて候
愚老こそ左様におもへ其元
存外に思召候はゝ猫に俵をおふせ
馬に鼠をとらせむとにはあらす
しかと相談御究候てとちらへも
御返事可被成候人は始め終と
申事にて一生の思案今日
さたまらぬ者は愚老は相手に
は不仕候若し獅子門にせき
をかけて俳諧可被成合点に
きはまり候へは愚老か尻を
ぬくひ草履を御直し可被成候
いやにて候はゝすみやかに
今日御やめ可被成候師道に
百尺の険麓と申事は
こゝの一言を申にて候
         穴賢
  五月上旬
       見龍(判)
   里紅丈
   鷹仙丈
尚々琴左丈も御同志のよし
此旨御傳可被下候弥俳諧可被成
思召に候はゝ此上のこのみ事いか斗
と御推量可被成
此旨は童平有琴其外
里紅御念比の衆中へも申觸

にて公表の埒に仕候一生の
決定に候へはさゝやき事には
         被成間敷候

 〇 訳文
御状届きました。然れば里紅[蘆元坊]前句の事、言語同断の無用と存じます。その子細は我等は前句いやにて流行らぬ様に致し我侭を申し散らしましたが、是非も無く人の為に致しました。里紅は余程望みにて何とぞ流行るようにして人の気に入る我侭致していては、会所より頼まれて無点の句も長にし、果てはつくり句もするでしょう。然れば我等と里紅とは、天地の違いと云えるでしょう。「是れその無用の第一です。
我等は三笠附(俳諧賭博)の点致しても、利益を得る為でないことは天下の人が知っています。里紅は哥仙の点料にと銭百取っていても諸人を欺いています。その違いは三十年の徳と二,三年の徳との違いです。「是れその無用の第二です。
里紅は去年よりはじめて名をひろめ、善悪は未分の時であるところ前句の憂名は決定なり。「是れその無用の第三です。
京・江戸の前句は楽屋の狂言にて、千句も万句も名目ばかりにて御座います。末々は万句寄と指示されること、存外の不案です。もしも正直に点してしまっては、三,四会は寄るでしょうが一会一会に損が立って会所より狂言を頼まれます。狂言をしてしまっては、それを限りに俳諧の出会は止みます。狂言しなければ、それを限りに前句は止みます。しかれば銭壱貫か弐貫の事にて、里紅一生の俳諧を失ってしまうであろうこと、博打より劣って浅智の至り。「是れその無用の第四です。
里紅は何と存じているのか、愚老が存念は蕉門の血脉を百世に伝え、天下一人の宗匠に仕立てようと夜着に足を包む荏弱をも戒め、菰一枚の乞食を習わせ、愚老が存命の間は馬・駕籠を止め、足を擂粉木と天下を廻りて五十已後に所帯をすえ、はじめて蕉門の宗匠と天下の人に言わせようと、今年は学文の世話をやき明年は明後年はと日々夜々の里紅行末は愚老が胸中に隠しています。然れば二貫,三貫銭もうけの沙汰には有るまじきことです。「是れその無用の第五です。
この外の無用は幾つもありますが、大むねこれにて御察し下さい。去りながら、御連中をはじめ里紅とても今日の慰みにこそ俳諧はすれ、左様に儒仏の大道と同じく粗々難しの俳諧やと思うならば、幸に諷教えを宗となさって俳諧は慰みにしなさい。それならば愚老も別条無く、むかしの里紅に変らず表向の御出合はします。

この度の細銀は御一家も御連中も相談の上にて里紅一生の境界を定める原因となります。愚老だけ左様に思って、その元が存外に思っているならば、猫に俵を負わせ、馬に鼠を取らせようというにはあらず。しかと相談し決めて、どちらへも御返事しなさい。人は始め終りという事にて、一生の思案今日定まらぬ者を愚老は相手にしません。もし獅子門に籍をかけて、俳諧をする合点に決まったならば、愚老が尻をぬぐひ草履を直しましょう。いやならば、すみやかに今日御止めなさい。師道に百尺の険麓ということはこゝの一言を云うのです。あなかしこ
  五月上旬
       見龍(判)
   里紅丈
   鷹仙丈
尚々、琴左[五丈坊琴左]丈も御同志のよし、この旨御伝え下さい。いよいよ俳諧をすると思うならば、この上の好み事はどうなるかと御考えなさい。この旨は童平[井上童平]・有琴[林有琴]その外里紅御懇ろの衆中へも申し觸れにて公表の事にします。一生の決定ですから、囁き程度の事にはしないように。


 〇 各務支考
各務支考は、美濃の国小野村大智寺の鎮蔵主と号し、妙心寺派の禅僧なり、東に遊びては東華坊と称し、西に遊びては西華坊と号せり、又出でゝ野に在るときは、野磐子と称せり、又家に在るときは獅子老人と呼べり、其の他是佛坊、饅丁、見龍、霊乙子、華表人、桃花仙、梅花佛、萬寸等の別号あり。
若干の頃、禅道に参じて頗る才気あり、為めに済輩の忌むところとなり、終に寺門を脱して伊勢に至り、山田に身を隠しけり、当時俳諧を以て一方に覇たりし岩田涼菟が、支考の才気の勝れたるを知り、勧めて蕉門に入り以て俳諧を学ばしむ、支考其の意に従いて終に蕉門に入る、天稟の才識大に之れを助け、前輩を凌ぎて厳然頭角を顕わし、許六と相伯仲するに至れり。
支考が一世の事業は、著述にして其の数少なからず、晩年故山に帰り、俳諧を其の門下に授けしが、遂に美濃風の一派を起して、其の覇権を握るに至れり。
(『俳諧名家全伝』)

 〇 執筆年
書面によって、各務支考晩年の筆(支考が歿する前年の享保十五年を下限とする)と察せられます。書中に年紀を特定し得る情報はありますが、それを裏付ける情報が足らず特定には至りませんでした。

 〇 
本書簡の主旨は、蘆元坊里紅とそれを取り巻く人々への警告にあります。先ず蘆元坊里紅とは、書中において「愚老か存念は蕉門の血脉を百世につたへ天下一人の宗匠に仕立候半と」まで各務支考が見込んでいる獅子門の虎の子です。その里紅が「前句」を流行らせようと活動します。「前句」は支考がすでに見切りをつけ流行らぬように仕向けたもので、書中のごとく先々まで考えた結論でしたから、「前句」を流行らせようという里紅の振舞いを何としても止めさせたかったのです。 私は当時の俳諧事情をさっぱり知りませんが、宗匠のような立場の人は、民衆の支持を得るため俳諧賭博や興行などの活動も必要ではありましたが、しかしその目先に捉われては行く行く躓くので、もっと先まで見越して俳諧の在り方を考える必要があったのでしょう。文面からそのように読み取れます。


掲載史料及び参考資料
『各務支考書簡』個人蔵
『俳諧名家全伝』桃李庵南濤編 三松堂
『北人遺稿』大西北人著 北人遺稿発行所
『『西華集』の編集形態』石川八朗著

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2017.10.28 頼聿庵書簡 天保三年十月五日付


『頼聿庵書簡』個人蔵

頼聿庵書簡

 又拝

○本文の通申上候得共決て定議にては無御座思召無御伏蔵
被仰聞可被下候
   別紙
扨此度の凶變不獨一家私哭為天下可痛哭事に御座候何卒
此處にて先人学脉枯渇不仕混々達四海候様御互に奮發
大激昂此場合に御座候事と奉存候京儒小輩如梅辻春樵
は是迄尾をはさみ居徒は喜舞候義と奉存候此小家数
不足問不相替頼家学風卓然海内の文宗と被仰
候様有之度私共も十分二十分も奮發大力を出す積り
別て先生御櫓当に御座候申上候迄も無御座候得共又二郎三木
八郎御後見御取立可被下奉深託候一日も早く祈成
立候事御互に御座候如婦女子落涙仕居候事先人地下にて
喜は仕間敷かくは申ものゝ私はいか成不孝不仕合なるもの
哉童年より侍膝下候事日少此度の大病に鳥渡
對面候事も相成不申一滴の湯薬をも手自飲せ候
事も不得仕萬里外以書知差處耳去夏湖橋
の別永訣と相成候無限悲痛慟絶御深察可被下候
一自然大變に至すヶ様ゝゝに御取斗被下候様にと後事を
御託申上候遺書定て御座候義哉と奉存候如何
一是迄の居宅等如何相成行ものに御座候哉
未決事杏坪斎第一老母考も可有御座是等定て遺言御座候儀哉
一國許へ家内子供不殘引取度獨案も御座候迚も
如何
又二郎は差向御世話に成らねはならぬ義に御座候如何可仕候哉
一第一著書國朝政記は如何相成申候や定本に相成候や
通議は専此節彦根國老小埜田小一郎心配にて板下
板本等も既に半出来の様子に同方より直話に承尚昨朝
弔使礼服にて参丁寧成書手弔書も参書中に

御生前に開板とあせり居候所御訃音悲悼無申斗
と申来候私在府中に校正いたし度と申事可依人に候
惣て著書大小詩文一紙散逸不仕様申上候迄も
なく厳重に御守可被下畢生精神一紙散逸候ても
不相済義に御座候是義は第一に御託申上置候義とは
奉存候得共御校正被成候迄副本一通つゝ書者へ被仰付
御尊宅にて御冩させ原本草稿不殘國本書庫へ蔵
置申度奉存候火難可畏水難可慮陸路にて一箱にして確
便に國へ御届被下度奉存候如何何分著書夫々上木又二郎
三木八郎の蔵板に仕度義に御座候勿論死後は定て著書
類は御宅へ御預被下御手本に被差置被下候義哉と推察
安心仕候如何に御座候や日野公に御願副本出来候迄公の御
         ┌┴──拙計かとも奉存候
文庫に御預被下毎度│たしかめ出入致呉候事共出
         └─是は拙計に相違なかるベし却生害ベし御止
来候得は確なることには無御座や而後其原本を陸便にて
           可被下候
國へ御下し被下候様御取斗被下候ては如何日埜公へ御直に
願候事も出来間敷其中間に薄俗無心の徒とも
ありて却疎畧不慮の事御座候義も難計歟
奉存候都てヶ様の事京地の風を承知不仕候故何とも
妄案妄想と可申兎角萬在高案主意は京
并國許両地に別けて置申度奉存候事に御座候
一遺金如何相成居申候や鳩居堂なとの被預け置候
金取戻べくなと是等承知仕居くれと去年
          ┌後も御座候何分此節の仕合
江戸表へ書状に申越候┴孤児寡婦人易歎もの是
等第二に御心被附可被下候國許に居申候同姓佐一郎
方へ御熟談被下一向に慥成書付を以金遺不殘
二弟共成長候迄私方佐一郎方に預り置入用の
節先生より御申越先生へ御渡申上それより家内手本へ
御渡被下候様仕候ては如何鄭重て避嫌疑両全の
良策可有之御考御聞せ被下度候

一外家親類世話に参候哉可深慮處も御座候義哉とも
奉存候孤児寡婦と前文に申上候も此處にて御座候此一件
なとは真に先生と恊との心裏に御座候事密謀
中の密謀に御座候
一肖像自費出来仕候由先人覚悟仕候心中
想像不覺潜然と仕候後便自費御冩取
御越被下候様奉希上候相成候義に御座候はゝ肖像も
早々画工へ被仰付自費其上に御冩取江戸へ御越
被下候はゝ難有奉存候是も著書同様一通りにては
無覚束一日も早く今一通も二通も副像有
御座度奉存候乍御苦労くれゝゝも御冩させ好便に出し
大封状に被成御越可被下奉懇請候
一都て文房遺物書畫軸類紛失不仕様にと
奉存候當用の品斗り出し置國許より上せ置候唐
朱ぬり      黒ぬり
箪笥引出し附并唐製書笈へ収め置樟
脳澤山に入是等の儀は迹にても不急事大長持
桐の木なれは十分其外の木にても丈夫成長持
一棹へ諸文房手澤のもの大切に不殘入
 ┌───────┐
組│上をこも包に仕│暫時の土蔵と存錠
 └───────┘
をひんとをろし入組の品数は横帳へ頭
書に記録仕置京都に差置一通は國許へ
遣候歟江戸へ御越被下候歟にして一々品数相改又二郎
成長候迄私手許へ預置申度奉存候其御手組に被成
下候得は端渓硯共は別てめけものに御座候間わたにて能々
包豫防十分丁寧に御させ可被下其上にて即刻
大坂屋敷安井衛門二へ御出し早便國許へ相廻り候様
にと私より申越候段御状にて同人へ御話可被下候存生の時
すら水亭をこゑ夜深て盗賊忍入色々
盗候事共是迄両三度も御座候事承居候 研
山并銅蟾蜍水滴先年為偸児得は再竊と

申詩なとも御座候御承知被成候通りの儀に御座候此節
の義無人と申儀は人々皆々承知候事に候得は豫め
用心いたし度事に御座候何分早々長持へ入組候て
藝州頼又二郎荷物と申差札共仕置候様御挿
図可被下候國廻りに相成候節は例の通差札にて
 ┌───────────────┐
 │大坂御屋敷安井衛門二様迄   │
 │  頼 餘 一 様  頼又二郎│と申書付
 └───────────────┘
宜敷御座候扨々案外千万成世話を仕候儀に御座候昨年
三本木へ暇乞に参候様成もの御座候昨年倪文正公の
真蹟王嶼の横巻なと見せ申候節一幅江戸へ持
参候ては如何と申候所是等は側をはなす事
不相成をれが死ごならは又二郎なと申合せ如何
様ともせよと申候戯言成讖候家内は國へ仕廻為
預置て忍申間敷候得共却て安心にて御座候哉と奉存候
一九月十九日御連名の御状被下痩労愈絶書を
致候間も堪兼候位二便も蓐上にて取る位と被仰
下候ゆへ壱歩丸五貝一貝四十三粒入の丸薬壱両
壱歩買納箱新に桐にて出来大急きにて晦日の夕
方日本橋へ出候處朔日夜出候旨家来■■
無致方折角心配候ものにと存居候所右
の通朔日七つ半過日本橋飛脚屋より御状届
来凶變相聞候に付家来共より心付にて直に前 日
差出置候箱入書状は差留入戻し不申誠に
遠路致方も無之儀壱歩丸真丸の分をと彼是
心配候も最早大變後の事扨もゝゝ殘
念千万天地蕭索と仕候
一葬埋等の儀委敷御書付御見せ被成下候様奉
願候会葬候もの幾人程に候や宅へも人参候哉人名御記可被下候
一臨終の前は如何様の儀にて御座候や精神は
臨終迄亂不申候や臨終の時側には誰々詰切
居申候や天野生なとも参居申候や■■■残念にて

御座候廿三日未の刻より内は薬なとも飲せ候得は
吸候力御座候や其日は一言も出不申候や十九日
御状御發の後廿三日迄五日の間容躰
委敷御書取御知せ被下候様仕度奉存候いつ頃より
絶食に相成申候や小石は日々夜々両三度つゝも
見舞被呉候哉其外大医にては誰々診察いたし
被呉候哉小石へ御逢被成候て八月廿五日以後の
御療治被下候容躰廿三日迄の所一々委敷御書付
急せ被下候様にと被仰傳可被下候吐血は八月廿三日以
後は一度も出不申候や中村元亮立寄申候節小石へ對
談童便なとの事申置候迚被相用候様子に御座候や
中村立寄御改は胸中熱氣御座候て清心連心改なと
可然と小石へ相談御座候迚八月廿七日以後の容体委敷
被御知被下候様小石へ御傳可被下候
一國許へは早速御驅合被下候や早速病中にも佐一郎より
見舞の人差上せくれ候様申遣候儀に御座候定て國許より
         五六日前┐
見舞の人参着病死不仕候頃は└丁度人参る都合
ならんと奉存候何角此以後御用向御座候はゝ早速佐一郎へ
御驅合可被下何分萬事先生へ奉託候間万々
厚宜敷奉希上候前条に申上候件々勿論家内へ
得計御相談被下萬事姉得心の上ならねは御取斗被下
間敷候愁傷中不得已及右等の御相談候懸け
隔候儀何角不都合に被思召候儀も多く可有御座尚無
御用捨被仰聞可被下候國許老母哀慟いか様に可有御座候哉と
誠に關心致し居候も心中御推察可被下候先是にて
閣筆仕候尚追々可申上候不尽
  十月五日      頼餘一

  牧善助様
      侍史

  二白新寒御保護可被成候此書状御一讀

  後御火中可被成下候勿論内密先生獨りに
  申上候儀に御座候児玉君以下宮原辺へ御示談被
  下候て可然候はゝ是亦可然奉頼候一圓様子
  承知不仕候事に御座候失敬失人意候様の
  儀無之様仕度京地平日の様子一圓私は承
  知不仕候事に御座候萬不過先生御考合候

 善介様   餘一
    内密御親目丙丁

 〇 訳文
別紙
さて、この度の凶変は一家私独りのみならず、私が哭するは天下のため痛哭すべき事に御座います。何卒この処にて先人の学脉が枯渇せず混々と四海に達するよう、お互いに奮発大激昂はこの場合にある事と存じます。京都儒者の小身者梅辻春樵の如く、これまで(犬のように)尾をはさみ居る徒は喜舞していることゝ存じます。この小家の数は問うに足らず。相替らず頼家の学風が卓然として海内の文宗と仰がれるようにありたく、私共も十分二十分も奮発し大力を出す積り、別して先生は御櫓当に御座いますことは申し上げるまでも御座いません。又二郎[頼支峰]・三木八郎[頼三樹三郎]を後見し御取り立て下さると深託しています。一日も早い成立を祈ること、お互いに御座います。婦女子の如く落涙して居ては、先人が地下にて喜びはするまじく、かくは申すものゝ私はいかなる不孝不仕合せなるものかな、童年より膝下に侍すこと日少なく、この度の大病にちょっと対面する事も成らず、一滴の湯薬をも手づから飲ませることも出来ず、万里の外に書を以て差す処を知るのみ。去る夏、湖橋の別れが永訣と成り(天保二年四月十四日江戸行の聿庵は山陽を尋訪し、翌十五日瀬田大橋まで見送られた)悲痛慟絶は限りなく御深察下さい。
一、自然大変に至らず、ヶ様ヶ様に御取り計らい下さるようにと後事を託す遺書が定めしあることかと存じます、如何?
一、これまでの居宅等は如何成り行くものに御座いますか?未だ決っていない事、杏坪斎や第一に老母の考えも有り、定めし遺言がありますか?
一、国許へ家内子供を残さず引き取りたいと、独り案じていますが如何?又二郎は差し向き御世話に成らねばならぬことに御座います。如何しましょうか?
一、第一に著書『國朝政記』は如何成りましたか?定本に成りましたか?『通議』は専らこの節、彦根の国老小埜田小一郎が心配しており、板下・板本等も既に半ば出来ている様子を同方より直の話しにて承り、なお昨朝弔いの使いが礼服にて参り、丁寧なる手書の弔書も参り、書中において御生前に開板と焦っていたところの御訃音、悲悼を申す計り無し、と申し来りました。私が在府中に校正いたしたいと申すこと、人によるべきことです。惣ての著書・大小詩文一紙も散逸させないことは申し上げるまでもなく、厳重に御守り下さるでしょう。畢生(一生涯)の精神、一紙が散逸しても済まないことに御座います。
この事は第一に御託し申し上げるべきことゝは存じますが、御校正成されるまでは副本一通づゝ書者(書き写す者)へ仰せ付けられ御尊宅にて御写させ、原

本の草稿は残さず国元の書庫へ蔵し置きたいと存じます。火難畏るべし、水難慮るべし、陸路にて一箱にして確かな便にて国へ御届け下されたく存じます、如何?なにぶん著書をそれぞれ上木し又二郎・三木八郎の蔵板にしたいことに御座います。勿論死後は定めし著書類は御宅へ御預かり下され御手元に置いて下さることかと推察し安心しています、如何に御座いますか?
日野公[公卿日野資愛]に御願いの副本出来るまでは、公の御文庫に御預け下さい。毎度確かめて出入りしてくれることゞも、出来るならば確かなることではないでしょうか? しかして後ち、その原本を陸便にて国へ御下し下さいますよう御取り計らい下さっては如何?日野公へは直に願う事も出来まじく、その中間に薄俗無心の徒共あり、却って疎畧不慮の事があるとも計り難きかと存じます。これは拙計に相違ありません、却って害が生ずるので御止めください。すべてヶ様のこと、京地の風を承知していないゆえ、何とも妄案妄想と云うべし。兎角、万在高案の主意は京、并びに国許の両地に分けて置きたいと存ずることに御座います。
一、遺金は如何成っていますか?鳩居堂などへ預けられている金を取り戻すことなど、これ等承知していてくれと、去年江戸表へ書状にて伝えました。後れも御座います。なにぶんこの節の仕合い、孤児・寡婦人は歎き易きもの、これ等第二に御心を附けて下さい。国許に居ります同姓佐一郎[頼采真]方へ御熟談下され、一向に慥か成る書付を以って遺金残さず二弟(又二郎・三木八郎)共が成長するまで私方・佐一郎方に預って置き、入用の節は先生よりお知らせ、先生へ御渡しゝてそれより家内の手元へ御渡し下さるようにしては如何?鄭重にて嫌疑を避ける両全の良策があれば御考えを御聞かせ下さい。
一、外家親類は世話に参りましたか?深く慮るところもあることかとも存じます。孤児・寡婦と前文に申し上げたのもこの処にて御座います。この一件なごは真に先生と私との心裏にありますこと、密謀中の密謀に御座います。
一、肖像自費で作られた由、先人が覚悟していた心中を想像し覚えず潜然とします。後便に、自費の御写し取りを御送り下さいますよう希います。相成ることでしたら肖像も早々に画工へ命じて自費その上に御写し取り、江戸へ送って下されば有り難く存じます。これも著書同様で一通りにては覚束無く、一日も早く今一通も二通も副像ありたく存じます。御苦労ながらくれぐれも御写させ好便に出し、大封状にして送って下さい、懇請致します。
一、すべて文房遺物、書画軸類を紛失しないようにと存じます。当用の品ばかり出して置き、国許より上せ置きます。朱ぬり唐箪笥引出し附き、并びに黒ぬり

唐製書笈へ収め置き、樟脳沢山に入れ、これ等のことはまたにても急ぎません。大長持桐の木ならば十分、その外の木にても丈夫成る長持一棹へ諸文房手沢のもの、大切に残さず入れ組み、上をこも包みにして暫時の土蔵と存じ、錠をぴんとおろし、入れ組みの品数は横帳へ頭書に記録して置き、京都に差し置き、一通は国許へ遣わすか、江戸へ送って下さるかにして一々品数改め、又二郎が成長するまで私の手許に預かって置きたいと存じます。その御手組に成して下れば、端渓硯共は別けてめげものに御座いますので、綿にて能々包み豫防十分にして丁寧に御させ下さい。その上にて即刻、大坂屋敷安井衛門二へ御出し、早便国許へ廻るようにと私より伝えたこと、御状にて同人へ御話し下さい。存生の時すら水亭を越え、夜深けて盗賊忍び入り色々盗んだ事共、これまで両三度もあったことゝ承って居ります。研山并びに銅蟾蜍水滴、先年児に偸ませ再び竊(ぬす)むと云う詩なども御座います。御承知の通りのことに御座います。この節のこと、無人ということは人々皆々承知していることですから、豫(あらかじ)め用心したいことに御座います。なにぶん早々長持へ入れ組みて、藝州頼又二郎荷物という差札共して置きますよう御指図下さい。国廻りに成るときは例の通り、差札にて
 ┌───────────────┐
 │大坂御屋敷安井衛門二様迄   │
 │  頼 餘 一 様  頼又二郎│という書付が宜しいです。
 └───────────────┘
さてさて案外千万なる世話のかゝることに御座います。昨年、三本木(山陽の居所、水西荘)へ暇乞に参ったようなるものに御座います。昨年、倪文正公の真蹟、王嶼の横巻など見せられたとき、一幅江戸へ持参しても良いかと聞いたところ、これ等は側を離すこと成らず、俺が死後ならば又二郎などゝ申し合わせ、如何様ともせよと云う戯言成讖です。家内は国へ仕廻い預らせ置いて忍ばれはされないでしょうが、却って安心にて御座いますかと存じます。
一、九月十九日御連名(牧百峰・児玉旗山・宮原節庵)の御状下され、痩労いよいよ絶書を致す間も堪え兼ねる位、二便も蓐上にて取る位と仰せ下されたゆえ、壱歩丸を五貝、一貝四十三粒入の丸薬、壱両壱歩を買い納箱新たに桐にて出来、大急ぎにて晦日の夕方日本橋へ出したところ、朔日夜に出したとの旨家来より聞き、致し方無く折角心配のものにと存じていたところ、右の通り朔日七つ半過日本橋飛脚屋より御状が届き来り、凶変を聞きましたので家来共より心付にて直に前日差し出しました。箱入の書状は差し留め入れ戻しませんでし

た。誠に遠路致し方も無いこと、壱歩丸真丸の分をと彼是心配したのも最早大変後の事、さてもさても残念千万、天地蕭索とします。
一、葬埋等のこと、詳しい御書付を御見せ下さるように願います。会葬の者は幾人程でしょうか?宅へも人は参りましたか?人名を御記し下さい。
一、臨終の前は如何様のことでしたか?精神は臨終まで乱れなかったでしょうか?臨終の時、側には誰々が詰め切って居ましたか?天野生なども参り居りましたか?■■■残念で御座います。廿三日未の刻より内は、薬なども飲ませれば吸う力はありましたか?その日は一言も出しませんでしたか?十九日に御状を発した後、廿三日まで五日の間の容躰を詳しく御書き取り御知らせ下さいますように願います。いつ頃より絶食に成りましたか?小石[小石元瑞]は日々夜々両三度づゝも見舞って呉れましたか?そのほか大医にては誰々が診察して呉れましたか?小石へ御逢いなされて八月廿五日以後の御療治下された容躰、廿三日までのところ一々詳しく御書付けを急がせているとお伝え下さい。吐血は八月廿三日以後は一度も出なかったでしょうか?中村元亮が立ち寄ったとき小石へ対談し童便(薬)なごのことを伝えて置いたのは用いられた様子はありましたか?中村が立ち寄り、御改めは胸中熱氣をもって清心連心と改めなど然るべしと小石へ相談あったとて、八月廿七日以後の容体くわしく御知らせ下さいますよう小石へ御伝え下さい。
一、国許へは早速御懸け合い下されましたか?早速病中にも、佐一郎[頼采真]より見舞いの人を上らせてくれるように伝えたとのことで御座います。定めし国許より見舞いの人が参着し、病死する前頃は五六日前ですから丁度人が参る都合ならんと存じます。なにかとこれ以後の御用向があれば早速佐一郎へ御懸け合い下さい。なにぶん万事先生へ託していますので、万々厚く宜しく希います。前条に申し上げた件々は勿論、家内へ計り御相談下さって万事姉が得心の上ならねば御取り計らいもできないでしょう。愁傷中已むを得ず右等の御相談に及びました。懸け隔てゝいますから、なにかと不都合に思し召されることも多くあるでしょう。なお、御用捨無く伝えて下さい。国許老母の哀慟いか様に有るかと、誠に感心して居りますも心中御推察下さい。先ずこれにて筆を閣きます。なお、追々申し上げます。不尽
  十月五日      頼餘一

  牧善助様
      侍史

二白
新寒、御保護なさって下さい。この書状を御一読後は御火中に投じて下さい。勿論内密、先生独りに申し上げることに御座います。児玉[児玉旗山]君以下、宮原[宮原節庵]辺へ御示談下されて然るべきことなら、これまた然るべく頼みます。一円様子を承知していないことですから失敬、人意を失するようなことが無いようにしたく、京地平日の様子一圓私は承知していない事に御座います。万事先生の御考えに過ちはないでしょう。

又拝
本文の通り申し上げましたが、決して定議では御座いません。思し召しを伏蔵(腹蔵)なく伝えて下さい。

 善介様   餘一
    内密御親目丙丁


 〇 頼餘一(号聿庵)
享和元年生れ、頼山陽の長子。名は元恊、字は承緒、名は都貝雄・餘一、号は聿庵。 山陽出奔によって祖父母に養育される。文化十三年頼春水が歿し、その跡式を相続する。はじめ祖父頼春水に学び、後ちに藩命を承けた頼春風・頼杏坪に学ぶ。また、書法をはじめ頼春水に学び、後に頼山陽を擬し、蘇東坡を模す。 天保二年三十一歳のとき、出府の途次、京都において実父頼山陽と初めて会う。天保三年御奥詰次席。天保四年『日本外史』を藩主に献上する。後ち世子の侍読となり、禄百八十石に至る。頼春水の業を継ぎ、家塾「天日堂」を起す。 人となり謹勅、しかし事に触れては意気軒昂とする。顔容音声ともに父頼山陽に酷似し、体格暢々偉。頼山陽歿後は往々暴飲漫興、麁狂の事あり。嘉永三年四十八歳のとき故有って致仕し、家を元啓に譲る。安政四年歿、享年五十六歳。

 〇 執筆年
書面は頼山陽が歿した直後の状況を示しており、天保三年のものと判断できます。時に頼聿庵は江戸に在って書簡を受け取りました。書中に登場する各人物の年齢は左記の通りです。

頼山陽       五十三歳(天保三年九月廿三日夕歿)
頼餘一   聿庵  三十二歳  頼山陽の長男 安藝藩士
頼又二郎  支峰    十歳  頼山陽の二男
頼三木八郎 鴨崖    八歳  頼山陽の三男
頼杏坪       七十七歳  頼山陽の叔父 隠居
頼佐一郎  采真  四十二歳  頼杏坪の長男 安藝藩士 高百四十石
牧善助   百峰  三十二歳  頼山陽門
児玉旗山      三十二歳  頼山陽門
宮原節庵      二十七歳  頼山陽門
小石元瑞      四十九歳  京都の蘭学者・医者
                 頼山陽の妻梨影の養父
中村元亮            安藝藩士 御側醫師
小野田小一郎    五十四歳  彦根藩士 家老
梅辻春樵      五十六歳  書中「京儒小輩」と云われた儒学者


 〇 
長々文のため何を云っているのか分りづらいですが、大略すると頼山陽歿後の手配りを依頼しています。中ん就く重要とされているのは、『國朝政記』を含む頼山陽の著書・詩文に至るまでの一切を厳重に保管することです。 次いで、文房遺物・書画軸類の扱いを指示し、そのほか遺書の有無を確かめ、遺金の扱いを相談し、頼山陽臨終の様子、葬送の様子など子細に尋ね、あわせて遺児又二郎・三木八郎の処遇を話しています。 いずれも内密の用件で、牧百峰をたいへん頼りにし後事を託したものです。本来であればこの書簡は焼かれるべきものでしたが、余りに用件が事細かであった為か斯うして残されました。
なお、『通議』『國朝政記』については説明を省きます。

 〇 頼山陽歿後
天保三年九月廿五日   京都光林寺において葬式
    十月一日    訃音、広島の杏坪と江戸の聿庵に達す
天保四年三月      『山陽詩鈔』開版
    四月廿七日   頼聿庵、西下の途に来宿
    五月七日    頼聿庵、支峰を伴い西下
    五月廿日    頼聿庵、広島着
天保五年七月廿三日   頼杏坪歿
天保六年正月廿六日   児玉旗山没
天保八年五月      頼支峰、広島より一時帰省
天保十二年九月     『山陽遺稿』開版
天保十二年十二月十七日 頼聿庵、奥詰に昇進

掲載史料及び参考資料
『頼聿庵書簡』個人蔵
『頼山陽先生』頼山陽先生遺蹟顕彰会編
『日本医学史研究余話』服部敏良著
『広島県書画家伝』手島益雄著 東京藝備社


 〇 読めない字
壱歩買納箱新に桐にて出来大急きにて晦日の夕
方日本橋へ出候處朔日夜出候旨家来■■
無致方折角心配候ものにと存居候所右


臨終迄亂不申候や臨終の時側には誰々詰切
居申候や天野生なとも参居申候や■■■残念にて
御座候廿三日未の刻より内は薬なとも飲せ候得は


 〇 読める字
に申上候件々勿論家【内】へ

書き損じたところに太字で「内」と上書きしています。

に御座候児玉君【以下】宮原辺へ御示談被

はじめは「關」かと見えましたが、書き損じたところに上書きしています。

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2017.10.24 乃木希典書簡 明治十年八月十八日付


『乃木希典書簡』個人蔵

乃木希典書簡

大迫少佐宛至急の御書に付
披見候處千萬如貴 命存候
直に従之可相廻候扨又已に御承
知相成候半 今暁當方面よりヱの
嶽を攻取候處第一二旅團も挟撃
候處賊第二旅團の背後に出両本
営を壊碎此物線に突出致
不容易困難に至候両團并に此方
面共背面に戦線を轉變致
此段不取敢御報申上候也
 八月十八日


  野津大佐殿 乃木中佐
       急

 〇 訳文
大迫少佐宛に至急の書につき披見したところ、千万貴方の云う通りと存じます。直ちに従い廻らします。
さてまた、已に御承知と思いますが、今暁当方面よりヱの嶽を攻め取るとき、第一・二旅團が挟撃した処、賊が第二旅團の背後に出て両本営を壊碎し、こちらの物線にまで突出致し、容易ならざる困難に至りました。
両團并びにこの方面共、背面に戦線を転変すること、取り敢えず御報せします。
 八月十八日


 〇 執筆年
「ヱの嶽」とは、現在の宮崎県北東部に位置する「可愛岳(えのだけ)」のことです。こゝにおいて、この日の暁方、第二旅團が賊に急襲され容易ならざる形勢になったので背面に戦線を転変する、と「野津大佐」へ伝えたのは「乃木中佐」です。これらの記述によって、西南戦役中の一場面「可愛岳突破」のことであると分り、本書簡は明治十年八月十八日に認められたと特定できます。
そうすると、「乃木中佐」とは明治十年四月廿二日陸軍中佐・熊本鎮台幕僚参謀に進んだ乃木希典中佐のこと、「野津大佐」とは明治十年二月第二旅団参謀長として出征した野津通貫大佐のこと、「大迫少佐」とは明治十年四月陸軍少佐・熊本鎮台参謀に進んだ大迫尚敏少佐のことであると判明します。

 〇 熊本鎮臺戦鬪日記 明治十年
八月十六日
黒澤口の諸兵進て長井村に至り北川を隔て戦う、左翼須怒任に斥候を出し古江の兵を進む、新撰旅團の兵我左翼と連絡を保つ、仁田原及び重岡の諸兵熊田に輻湊す、賊愈窮し日ノ谷に退縮す。

八月十七日
午前第四時我兵六中隊熊田を発し可愛岳の賊を攻撃す、交戦須臾遂に頂上の塁に迫り、午後に至て之を抜き守備す。附、降伏人陸続絶えず。

八月十八日
午前第三時我兵可愛岳の賊巣に迫る、右翼可愛岳の野山に於て第一旅團と連絡す。第七時三十分頃賊第一第二旅團哨戒兵線を侵し直ちに本営に迫り遂に戦線を脱したり。

 〇 深山に虎狼を逐うが如し
本書簡が認められた八月十八日、既に賊軍は軍の解散を令し官軍へ投降する兵数多あり。残った寡兵を率いる西郷隆盛はこの日の暁方、包囲の一角「愛ノ岳」を急襲し突破します。「賊突貫已来戦闘の大局に於て一大變動を生じ、祝子川の第二線を脱せしより、賊の踪跡を詳にする能わず、故に我軍又探偵の報告により進退せざるべからず、其状恰も深山に虎狼を逐う如し」(『熊本鎮臺戦鬪日記』)と記録された場面です。軍の解散によって身軽になった西郷軍を


捕捉することは難しく、九月一日には鹿児島に潜入されます。

 〇 乃木希典 廿九歳
二月五日  小倉営所司令官兼勤を命ぜられる。
二月十九日 鹿児島賊徒征討の命下る。
二月廿二日 植木戦に於いて聯隊旗手戦死し軍旗を喪失する。
二月廿七日 肥後国玉名郡玉名村に於いて銃創。
三月十一日 当分、出征第一旅団参謀兼勤を命ぜられる。
四月九日  肥後国山本郡辺田野村に於いて銃創。
四月廿二日 陸軍中佐に任ぜられ、歩兵第十四聯隊長心得・小倉営所司令官心得・出征第一旅団参謀兼勤を免ぜられ、熊本鎮臺幕僚参謀を命ぜられる。

掲載史料及び参考資料
『乃木希典書簡』個人蔵
『熊本鎮臺戦鬪日記』続日本史籍協会編 東京大学出版会
『乃木希典全集』乃木神社社務所編 国書刊行会


 〇 読めない字
乃木希典の書簡を幾つか読んでいると、どういうわけか読みづらい字が一,二字はあり、本書簡においてもこの二字が何と書いてあるのか分らず悩みました。二字目は「碎」で良いと思いますが、一字目はちょっと見当がつかず仮に「壊」としました。



次に「此物線」と読んだ「此」には未だ確信が持てず、仮に「此」として置きます。「物」から「線」へと続くところに抹消の形跡あり、急いで認められた為でしょう。

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2017.10.21 桂太郎書簡 明治元年十一月廿日


『桂太郎書簡』個人蔵

桂太郎書簡

大山格之助御運の芳
墨并秋田港より
の芳墨両度
に相達奉拝誦候先
弥御堅勝御盡力
可被在の由寒冷の砌
別て御吉勤奉存候
返て小生義も尓後
順々東京へ發行
の折柄福嶋城下
にて脱艦愈戦地へ
襲来の報知有之
且貴兄戦地へ御
出張に付て費金
彼是大山格之助被申越
にて奠飛にて東京
罷越大村其外へ相
談直に費金等
御地御差越と
相成候由に付決て
頓て御地着と奉存候
且又実に小生春
来御地にて彼是
御不自由の義呉々
承知仕候事故其段
成様周旋仕候
覚悟に御座候間
左様思召可被成下候
一木戸氏への御書状
 直様相届候

 間是又御写毫
 可被成下候何分東京
 にても軍艦に困
 窮の由相伺申候
一此度林半七
 庄内之酒田へ出張
 被仰付候故任
 幸便に真の
 一筆奉呈候何卒
 強寒の節御
 自躰御保護専
 要に奉存候其外
 申上度義有之候得共
 難筆紙又々
 後便と申譲候
 早々拝首

十一月廿日

尚々幾重も御自躰
御保護為固候様
奉祈候



 〆

奥州青森にて 東京
山田市之丞様 桂太郎
    要々

 〇 訳文
大山格之助が御運びの芳墨[相手の書簡のこと]并びに秋田港よりの芳墨、両度に届き読みました。先ずいよいよ御堅勝に御盡力されていること、寒冷の砌別して御吉勤と存じます。
小生の方は尓後順々に東京へ向っている途中、福嶋城下において舊幕府の脱艦が戦地へいよいよ襲来するとの報知がありました。それと、貴兄戦地へ御出張につきて、費金のこと彼是大山格之助が知らせてきました。いずれにしても奠飛にて東京へ行き、大村[益次郎]その外へ相談するので、直に費金等をそちらへ送ることに成るよう決り、やがてそちらへ着くと存じます。
且つ又、実に小生は春以来そちらの土地にいましたから、彼是不自由のことは呉々も承知しておりますので、その段は成るべく周旋する覚悟で御座いますので、左様思し召し下さい。
一、木戸[孝允]氏への御書状、直ぐさま届けますので、これまた写して下さい。なにぶん東京にても軍艦に困窮のことゝ聞いています。
一、この度林半七が庄内の酒田へ出張を仰せ付けられたので、幸便に任せて真の一筆を送ります。なにとぞ強寒の節、御躰の御保護が専要と存じます。その外申し上げたいことも有りますけれども、筆紙には尽し難く、またまた後便に譲します。早々拝首
十一月廿日
尚々、幾重も御躰の御保護固められますよう祈ります。

 〆
奥州青森にて 東京
山田市之丞様 桂太郎
    要々


 〇 執筆年
本書簡は明治元年十一月廿日に認められたと考えれば、およそ説明のつく内容です。尤も前後の事情が分らない「木戸氏への御書状」云々などはこの限りではありません。
たとえば、山口藩第四大隊二番隊司令として奥羽各地に転戦した桂太郎は、奥羽鎮撫総督府に属し参謀添役を勤め、明治元年年十一月十八日頃東京に凱旋し、十一月廿日に本書簡を認めます。本書簡を受け取った山田市之丞は、同年十一月九日海陸軍参謀から青森口陸軍参謀となり青森に滞在していましたので、両者の位置関係は本書簡差出・宛名の肩書と合致します。
次に、書面の冒頭に登場する大山格之助は、桂太郎と同じく奥羽鎮撫総督府に属し参謀を勤め、秋田戦争においては桂太郎と共に戦いました。途中別行動をしていますが、同様に東京へ凱旋します。
また、書中に云う「此度林半七庄内之酒田へ出張被仰付候」とは、同年十一月十八日会計官権判事林半七が兼軍監となり、羽後酒田港へ遣されたことを指すでしょう。
このほか桂太郎が東京へ向う途次、福島城下で耳にしたという脱艦戦地へ襲来の報とは、同年十月廿四日箱館府知事清水谷公考が舊幕府の脱艦箱館来襲の虞あるを以て援兵千人を発遣せんことを請う、と奥羽鎮撫総督府に知らせたことを指すものでしょう。 このようにして見れば、本書簡は明治元年として妥当であり、これ以外の年紀は考えられないのです。

 〇 明治元年十一月廿日の各人物の役職
桂太郎   山口藩第四大隊二番隊司令
      奥羽鎮撫総督府参謀添役(慶應四年八月七日)
山田市之丞 青森口陸軍参謀(明治元年十一月九日)
大山格之助 奥羽鎮撫総督府参謀
木戸孝允  参豫
大村益次郎 軍務官副知事(明治元年十月廿四日)
林半七   会計官権判事兼軍監(明治元年十一月十二日)

 〇 山口藩第四大隊
慶應元年閏五月十一日、蔵元付中間・十三組中間・地方組中間・百人中間より編成され、四中隊より成る。


 〇 桂太郎の動向
七月〜八月秋田戦争で活躍。八月七日参謀添役。八月二十日敵勢に押され秋田国内まで引き揚げた桂太郎は、当初率いていた兵の六割を失い、木戸孝允・廣澤真臣に援兵の派遣を要請します。九月六日越後へ赴き、十一日援兵を要請。九月十九日戦功を賞され物を賜わります。十月十一日奥羽平定により、奥羽鎮撫総督府に従い横手驛を発し東京へ向い、十一月十八日頃東京に凱旋。

この頃に認められた桂太郎書簡を探すと『桂太郎発書翰集』に四通載っており、また『桂太郎関係文書』には大山格之助からの来簡もありました。前後の事情が少しく分りますので、大まかな意訳を掲げました。

 〇 舊幕府脱走軍、榎本武揚の動向
八月十九日品川海上の徳川氏の軍艦八艘を奪いて北上す。九月二日軍艦を率いて仙台に至り、仙台藩主伊達慶邦と会し東北烈藩同盟軍の恢復を議す。九月十八日軍艦二隻「咸臨、蟠龍」、下田港に漂到し、遂に清水港に入る。十月十二日軍艦を率いて仙台海口に在り。十月廿日蝦夷地鷲木に入り、兵を分て五稜郭「同亀田郡」及箱館に向う。十一月十二日軍艦二艘「千代田形艦・長崎艦」を羽後酒田港に遣し庄内を援ける。十二月十五日蝦夷地全島平定を賀す。


 〇 桂太郎書簡 慶應四年八月十八日 新発田御本営前原一誠宛て
先日新潟へ下ってお願いしたことが調いました、誠に有り難いことです。この間から風雨のため出帆できず甚だ心痛しております。尚又、昨日久保田より肥藩到着、彼方も大聖寺という所より賊勢が襲来し一旦は負けたそうです。しかし、追々佐土原・因州の兵が到着し、きっと取り返していることゝ思います。一日も早く帰陣したいのですが、思う通りになりません。彼の地の模様は肥藩より聞いて下さい。

 〇 桂太郎書簡 慶應四年八月二十日 木戸孝允・廣澤真臣宛て
聞いていると思いますが、こちらは実に切迫しており、ようやく持ち直したところ、賊勢はいよいよ増し、今日は終に秋田国内まで引き揚げた位の体たらく。なおまた、先日私が御国の兵隊を召し連れていたとき百人はいましたが、追々数度の戦争があり、今日に至っては最早兵隊は四十人ばかりになり、そのうえ小隊の司令も手負い、守旗も無く残念です。なにとぞなにとぞ援兵を差し出して下さい。茫々たる奥羽において少数の兵で、援兵もなくては遺憾千万幾重残念、どうかお察しください。なお、薩摩は援兵が千人ほど参りました。

 〇 桂太郎書簡 慶應四年八月二一日 前原一誠・山縣有朋宛て
こちらに薩兵到着、ついては明後廿三日朝より順々に進軍と一決しました。海岸の方は廿五日より進軍となりました。海軍もそちらの土地で約束の通り、庄内へ差し向けることになったとのこと。且つ又、羽州では誠に玉薬等に差し支えていると聞きます。そちらに余程有るようですが、この品が不足しては難渋に立ち至りますので、有り合わせの分を四,五万発は手配してください。なお、援兵のこと伝えています、是非とも待ってます。

 〇 大山格之助書簡 慶應四年八月三十日 桂太郎宛て
弾薬のこと、過日永尾永吉から聞きました。けれども当地へは難しく、昨日春日丸にて越後へ向う尊藩の前原・片野・山田の三氏へ願い、秋田丸着次第に差し廻しとなるよう懸け合いました。左様承知していて下さい。且つ亦、当地のことは教えてくれた通り万事行き届きません。ましてや戦策は勿論のことです。尊藩の先生方并びに弊国より両三人づゝこちらへ御出張となるよう、西郷等へ知らせました。


 〇 桂太郎書簡 明治元年十月九日 堺良助宛て
今般、奥羽賊徒は悉く降伏謝罪、総督府も一先ず帰るとのことで、我が兵隊は直に鶴岡より最上へ引き揚げます。これまで秋田表滞在、且つ能代にて切迫の砌は取り分け御厄介になりましたのに御礼の言も無くすみません。


掲載史料及び参考資料
『桂太郎書簡』個人蔵
『維新史料綱要』維新史料編纂事務局
『桂太郎発書翰集』千葉功編 東京大学出版会
『桂太郎関係文書』千葉功編 東京大学出版会
『木戸孝允文書』日本史籍協会
『木戸孝允関係文書』木戸孝允関係文書研究会編 東京大学出版会
『山口県史 史料編』山口県編

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2017.10.18 武田耕雲斎書簡 元治元年三月十七日付


『武田耕雲斎書簡』個人蔵

武田耕雲斎書簡

市之進様 伊賀守
  御直被


前略其已来実
御無音申譯も無御座候
先以御多祥被成
御奉務為國家
可賀御事御座候
     野拙事
も不斗も生延末
こたゝゝ毎度不得寸
暇扨先般不存
寄結構蒙 仰候段
無量の難有さ
冥賀の到奉存候
疾御吹聴も可申與
候得共中々以自分
事不行届
昨暮已来実
に神以晝夜不得
寸暇夜は疲労
いたし候て休候斗
旁心事御推察
     可被下候
御地御事情も
実御察申候
  為
皇國御尽力
不得止事と御察申候

 高松
一 大久保飛騨
へ一書早速御届可
被下候急便四日
限り以出故状箱
へも不入差立申候
何分可然御扱
   可被下候以上
三月十七日夕

猶又攘夷
御決着無之時は
當四月は極て
何方より歟兵を
發候半存候
御火中々々

 〇 訳文
市之進様 伊賀守
  御直被

前略、それ已来は実に御無音、申し訳も御座いません。先ず以て御多祥なされ御奉務のこと、国家のため賀すべきことに御座います。
野拙ことも計らずも生き延び、末だごたごたして毎度寸暇を得ません。さて、先般は思いも寄らない結構な仰せを蒙ったこと(伊賀守叙任を指すか)、無量の有り難さ冥賀の到りと存じます。すみやかにお知らせすべきことでしたが、中々以て自分のことは行き届きません。昨暮已来、実に神以て昼夜寸暇を得ず、夜は疲労しており休むばかり、そういう状況ですから心の内は御推察下さい。御地の御事情も実に御察し致します。皇国のため御尽力止むを得ざることゝ御察し致します。
一 高松の大久保飛騨(高松藩大老)へ一書を早速御届け下さい。急便四日限りを以て出しますので、状箱へも入れずに差し立てます。何分然るべく御扱い下さい。以上
三月十七日夕
猶又、攘夷(こゝで云う攘夷とは鎖港攘夷)の御決着が無い時は、当四月はきっと何方よりか兵を発するだろうと存じます。御火中(書面は御火中に投じて下さい)。


 〇 執筆年
水戸藩士武田耕雲斎が従五位下に叙せられ、伊賀守に任ぜられたのは文久四年(元治元年)二月のこと。翌年二月四日に武田耕雲斎は斬首されますから、三月十七日付の本書簡は元治元年に認められたと分ります。

 〇 書簡の背景
当時、朝廷・幕府間において大きな問題とされていたのが、攘夷の実行と長州藩の処分です。問題とされていた攘夷とは、横浜の鎖港です。孝明天皇は攘夷が実行されることを強く望んでいました。「鎖港攘夷」、巷間では略して「鎖攘」、または単に「鎖」とも言われました。
長州藩の方は、文久三年五月から馬関海峡を武力によって封鎖し外国船を砲撃するなど直接的な攘夷を敢行、同年八月十八日の政変で朝廷の勢力を一掃されています。
これらの問題を解決するため、朝廷は一橋慶喜・松平容保及びいわゆる四賢侯を京都へ呼び寄せます。「参豫会議」が為されますが、それぞれの主張・思惑があって協調せず、元治元年二月廿五日山内豊信が早々に帰国、三月九日に一橋慶喜・松平容保・松平慶永・伊達宗城・島津久光が参豫を辭めてしまいました。
鎖港攘夷は元々無理難題だった為棚上げしておき、長州藩の処分をどうするか、というのが当面の課題とされる状況です。

 〇 この頃の武田耕雲斎
武田耕雲斎の立場は水戸藩の執政、思想は尊王攘夷。先年、徳川斉昭の実子である一橋慶喜を援けるため藩主に随行し入京、しばらく滞京した後藩主に随って江戸に戻り、諸所に屯集する藩士等の鎮撫に当ります。「元治元年二月十八日水戸藩主徳川慶篤、書を老臣武田伊賀守正生に與へて、諸所屯集藩士等の鎮撫に努めしむ。二十日正生、常陸国行方郡潮来より江戸に歸り復命す。」

本書簡を受け取った原市之進は藤田東湖の従弟で水戸藩士、武田耕雲斎と同様藩主に随行し入京しました。その後江戸には下向せず、一橋慶喜を補佐するため京都に滞在していたようです。元治元年四月一橋慶喜に請われてその側近となりました。


 〇 挙兵を予見
本書簡において、武田耕雲斎は鎖港攘夷が決着しなければ、四月には何処かで兵が挙がるだろうと予見しています。この予見は当り、本書簡が認められた十日後の廿七日、筑波山において藤田小四郎(藤田東湖の子)等が挙兵します。武力を背景に鎖港攘夷を働きかけようという目的があったようです。

なお、書中の「大久保飛騨へ一書」について子細は分っていません。高松藩の大久保頼暉に緊急の用件があったのでしょう。

掲載史料及び参考資料
『武田耕雲斎書簡』個人蔵
『維新史料綱要』維新史料編纂事務局
『木戸孝允文書』日本史籍協会

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2017.10.15 藤田東湖書簡 九月二日付


『藤田東湖書簡』個人蔵

藤田東湖書簡

快晴御同慶奉存候先夜は
失敬御恕可被下候扨は今
二日年寄始め役人一同
武藝見分有之御流義は
過日残り今日に相成申候
仍ては小先生今日より御出張
にいたし度年寄へ及内
談候處同意に付後刻迄に
運阿み歟勝太郎より御通達
申候半然る處通達有之と後
にては間に合不申候間乍御大儀
御父子并達者の御内弟子
  │ 三 四
  └御方三方等もよろしく御座候
一両人も御召連只今よりがけ
下稽古場へ御越にいたし度候
今日は野生事外用ありて
右見分へは不参残念に候へ共
御越にさへ相成候へはよろしく候
試合割等はきまり居候半被存候
へは相済候上にて年寄より好み別段
に御藝術相見候半と被存候いそぎ
草々以上
 九月二日
今日は諸生五つ時揃役人共は
五半揃に候間彼是四つ時には始り
可申候御弁當御持参の方可然候
火急の事ゆへ御手當は間に合不申候以上

 斎藤両先生彪

 〇 訳文
快晴、御同慶に思います。先夜は失敬、御恕し下さい。さては今二日、年寄始め役人一同の武藝見分があり、御流義は過日の見分で残り今日に成りました。 そういうわけで小先生[斎藤篤信斎の長子斎藤龍善]は今日より御出張にしようと、年寄へ内談に及んだところ同意につき、後刻迄に運阿弥[水戸藩御同朋頭山片運阿弥]か勝太郎より御通達があるでしょう。 然るところ通達があった後にては間に合いませんので、御大儀ながら御父子(御三方、四方等でもよろしいです)并びに達者の御内弟子一両人も御召連れ、只今よりがけ下稽古場へ御越し下さい。 今日は野生こと、外用ありて右見分へは参らず残念ですけれども、御越しにさへ成ればよろしいです。試合割等は決っていると思います、済んだあと年寄より好みで別段に御藝術を見たいと云われるでしょう。急ぎ、草々以上
 九月二日
今日は諸生五つ時揃い、役人共は五半揃いですので、彼是四つ時には始ります。御弁當を御持参の方が良いでしょう。火急の事ゆへ御手當は間にいませんでした。以上

 斎藤両先生 彪

*勝太郎とは、水戸藩御矢倉奉行岩崎勝太郎か、同藩御書院番五番組小笠原勝太郎か?


 〇 
「彪」とは水戸藩士藤田東湖の諱、「斎藤両先生」とは神道無念流練兵館の斎藤篤信斎・斎藤龍善父子を指します。また、書中の「御父子」の「子」の字に「御三方四方等もよろしく御座候」と附されているのは、長男龍善に限らず、二男歓之助、三男善孝、四男新太郎を視野に入れたものでしょう。
用件は、先日の武藝見分で残った神道無念流の見分を今日行うというものです。急に決ったことらしく、取り急ぎ要点を伝えています。藤田東湖が現場にいれば良かったのでしょうが、この日は外用のため見分には立ち合えないとのことです。

 〇 藤田東湖と斎藤篤信斎
両者の関係は神道無念流に端を発すると思われます。文政二年、藤田東湖は十四歳のとき撃剣館の岡田吉利へ入門します。この時、斎藤篤信斎が師範代を勤めていました、当時二十二歳です。東湖の入門翌年に岡田吉利が歿するや、斎藤篤信斎は遺子岡田吉貞を輔け道場を継続し、文政九年には独立し練兵館を建てます。同年十一月、藤田東湖の父藤田幽谷の病が重くなったゝめ東湖は水戸へ帰国します。藤田東湖が入門してから七年間、ずっと撃剣館に通っていたとすれば、斎藤龍善とはずいぶん打ち解けて話しもしたのだろうと思います。

文政十二年十月、水戸から出府した藤田東湖・会沢正志斎等、斉昭公擁立派の四人が夜中斎藤篤信斎を訪れ道場に宿泊します(『回天詩史』)。斎藤篤信斎の元であれば安全という信頼があったのでしょう。

次に両者が接触するのは、天保八年の大塩後素の乱後です。きっかけは、大塩後素が徳川斉昭公へ宛てた密書にありました。密書は大坂に戻される途中盗難に遭い、これが伊豆の山中に捨てられているのを発見した江川坦庵が藤田東湖へ内密に知らせます。東湖は申し出を断るのですが、徳川斉昭公は大塩後素の密書がとても気に懸り、というより不安だったのでしょう、大塩自刃のあとその情報を得るよう藤田東湖に命じます。このとき、江川坦庵の依頼によって大坂へ急行した斎藤篤信斎が甲州探索を経て帰宅したところであり、藤田東湖は早速斎藤篤信斎の元を尋ね、その情報を具さに聞き出し『浪華騒擾記』を著します。このような経緯があったからでしょうか、天保九年十一月、徳川斉昭公は斎藤篤信斎を召して合力扶持を与えます。


天保十二年五月徳丸原の演練において、斎藤篤信斎は高嶋秋帆の門下として一隊に加わり野戦砲の打方を勤めました。海防と攘夷に熱心であった徳川斉昭公が斎藤篤信斎を氣に懸けて不思議はなく、以前からの関係もあったからでしょう、水府弘道館の落成(天保十二年八月一日)に際し斎藤篤信斎を招きます。斎藤篤信斎は舎弟斎藤三九郎や高弟等数人を率いて赴き数十日間滞在し、弘道館において藩士一同に神道無念流を指南し賞されました。
しかし、弘化元年五月徳川斉昭公が隠居謹慎となった為、藤田東湖も蟄居となり、しばらくの間両者の表立った接触は無かったようです。両者の関係が再開するのは、本書簡が認められた時期でしょう。次項の執筆年に続きます。

 〇 執筆年
書面から察するに江戸に於ける話しであり、藤田東湖が江戸詰であること、斎藤篤信斎・斎藤龍善父子が江戸に居ることが条件となります。
先ず、斎藤篤信斎の長男の小先生こと斎藤龍善は文政十一年生れですから、必然的に文政から天保期は考えられず(書面では父子の子の処に御三方、四方でも良いとあり、歓之助や善孝も数えられている様です)、弘化四年から嘉永二年の廻国修行以降と考えるのが妥当でしょう。
次に、藤田東湖は弘化元年五月から嘉永五年まで蟄居しており(時に斎藤篤信斎も水戸藩の扶持を離れる)、江戸藩邸に召されたのは嘉永六年七月六日、海岸防禦用向を命じられ定江戸勤となったのが同年七月廿日のこと。安政元年正月廿四日御側用人兼勤となり、安政二年二月十九日格式馬廻頭上座を以て御側用人再勤、同年九月十九日學校奉行兼職となり、同年十月二日安政の大地震のため死去します。
つまり、本書簡が執筆されたのは藤田東湖が江戸詰となった嘉永六年から、歿する安政二年までの短い期間に絞られます。次いで『水戸藤田家舊蔵書類』の藤田東湖書翰を見ますと、藤田東湖は嘉永六年の八月末から出張しており(*1)、本書簡が認められた時は道中ですから辻褄が合いません。よって嘉永六年は除外されます。そうすると、安政元年か安政二年のどちらかです。あと一息というところですが、この年の藤田東湖書翰や日記が欠けており、特定することは出来ませんでした。


*1:『水戸藤田家舊蔵書類二』
藤田東湖書翰「息建次郎宛」 嘉永六年八月廿四日
藤田東湖書翰「妻里子宛」 嘉永六年九月四日

掲載史料及び参考資料
『藤田東湖書簡』個人蔵
『水戸藤田家舊蔵書類』日本史籍協會編 東京大學出版會
『類聚伝記大日本史:第十卷』雄山閣編
『幕末偉人齋藤彌弥九郎傳』大坪武門著 安倍関男
『山口縣剣道史』山口県剣道史編集委員会 山口県剣道連盟
『大塩平八郎書簡の研究』相蘇一弘著 清文堂
『茨城県史料』茨城県史編纂委員会

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